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きみたちがまだ知らないこと【最終話】2025創作大賞 #恋愛小説部門

 遠くに見える海が、オレンジ色から次第にくすんだ橙色に変わる。
さざ波が紫を帯びはじめ、夕景に浮かぶ島が黒く沈んでくる頃だ。
 今日は、もう客は来ないだろう。
 一時間ほど前に、下の集落に住む川島さんがカットに来て、それから客の出入りがない。
 今晩は、この美容室の二階に泊まるから、少々後にずれてもいいのにな。そう思う日に限って、お客は来ない。定時に店を閉めてもまだほの明るいだろう。
 急いで自転車を飛ばせば、まだ魚屋の閉店に間に合うかもしれない。そんなことを考えながら、小さな看板を下げ、店じまいの支度をする。

 すずなが、光の島子ども園がある島に小さな美容室を開いて、三年が経とうとしていた。
 週に二、三日で不定休の美容室。
 出張ボランティアで、子ども園の子どもたちの髪を切ったのが始まりだった。島には古い理髪店が一軒しかなく、それも数年前に閉店してしまった。子どもたちの身だしなみを保つのに苦労していた園長先生たちは、すずなの申し出を大いに喜んだ。

 わたしもね、ここで育ったんだよ。髪をとかしながら、そう打ち明けると、少々緊張気味だった子の顔がぱっと明るくなり、とたんに打ちとける。照れを隠すように仏頂面で鏡の前に座っている子が、髪を整えられ、ケープをさっと外したあと、顔がぱっと輝いて、髪ばかりか心も軽くなる様子は、すずなの心も明るくした。
 こうして、ささやかな魔法をかけてあげるのだ。
 これで、今日は気分がいい。明日のあなたも、きっと明るい。
 高校生くらいの女の子になると、日常の悩みや恋バナを打ち明けてくれる子もいる。すると、髪を切るだけが仕事ではない気がしてくる。人の話をただ、うんうん、と聞いて受け止めるのもまた、美容師の役目なのかもしれない。つくづく、美容師は奥深い仕事だなぁ、と思う。

 閉店するとき、必ず、店から続く坂とその下に見える海を見るのがすずなのくせだ。最初は、自分でもそのくせに気づかなかった。あるとき、一人の男の子が坂を上ってくるのを目にして、あ、と思った。彼は、すずなの見知らぬ少年で、柴犬を連れていた。

 自分は、何かを待っている。
 そう気づいたのは、このときからだ。まさかね。そんなこと、あるはずもない。そのときは、慌てて打ち消して、気づかないふりをした。けれど、一度気づいてしまった〝もしかして〟は、淡くすずなの心を包みこんだ。すずなが最後に病院を訪ねてから、もう七年が経とうとしていた。その後どうなったのか、どこでどうしているのか、そもそも生きているのか――。それからの彼を知らない。

 今日のようにひとり島に泊まる夜。
 同じ島にある子ども園で過ごした楽しくも懐かしい日々を思い起こす。その中にはいつも、彼がいた。だからこそ、まだ神戸を離れて島に根を下ろす勇気がない。
 さびしすぎる、と思うのだ。
 過去の幸せな思い出ばかりが詰まった、しかも彼のいない島に根づくのは、あまりにさびしすぎる。神戸の美容室と島を行き来する。にぎやかで現実的な町と、過去の思い出の島とを行き来する。このくらいのつながりと距離感が、自分にとってはちょうどいいのだ。

 次の日の海は凪いでいた。穏やかな潮風は、何かいいことのあるような気配を含んでいる。こういう日は、客も自然と多くなる。好天に誘われて、髪でも切りにいこう、と心が弾むのだ。

 予想通り、その日すずなはてんてこまいだった。午前中から客足は絶えることなく、一人で切り盛りするすずなは、小鳥のように狭い店内をぱたぱた動き回った。
 午後四時すぎころに、ふっと客足は途絶え、ここでやっとすずなは遅い昼食にありつけた。昨日、坂の下の商店で買っておいたきなこの揚げパン。お茶を入れてひと呼吸しつつ、あっという間に平らげてしまった。何だかへとへとで、もう店を閉めて神戸に帰りたい気分だった。
 閉店は午後六時。まだ少し時間はある。
 ぼんやりと立ち上がろうとした時、チリン、と店の扉の鈴が鳴り、客が入ってきた。慌てて口元にきなこがついていないかこすって、振り返った。

 全く、突然の出来事だった。
 ふらり、と入ってきた客は、俊、その人だった。

「あの」

 すずなが、あまりに驚いて微動だにしないので、俊の方から声を発した。 俊。その名前を、自分は声に出したのか、出さなかったのか、判然としない。しかし、その声は彼に届かなかったことは、確かだ。彼は、おずおずと、たずねた。

「髪を、切りに来たんですが。まだ、やってますか?」
「あ、ああ、もちろん。まだ。まだ、やってます」

 すずなは慌てて入り口へ向かい、俊を椅子に案内した。
 心臓が飛び出しそうだった。改めて、椅子に座った彼の顔を盗み見た。間違いなく、俊である。けれど――。すずなの心の中に、新たな疑念と違和感が沸き起こった。
 この、無反応は、どういうことだろう。
 首にタオルを巻くときも、ケープをかけるときも、かすかな動揺が指に伝わって、その震えを止めることができない。起きるはずがないと思っていたことが、今目の前で起こっているのだ。

「どのように、しましょうか」
 かろうじて、声は震えなかった。

「短く」
 鏡を見つめたまま、俊は言った。

「さっぱりと。少年みたいに」

「はい」
 少年、という言葉が出たとき、すずなの胸はとくん、と音を立てたような気がした。そこに、何かの糸口をたぐるように、すずなは鏡の中の俊を見た。俊の表情は何も変わらず、鏡の中の自分の姿を見つめていた。あれから七年も経っているのに、俊は全く変わっていなかった。むしろ、昔見せた眉間にしわをよせたような表情や、余分な苦悩のようなものがすっかりこそげ落ちていて、妙に明るくて、さっぱりした顔をしていた。
 その明るさに、すずなは打ちのめされた。
 まぎれもなく、俊は、自分のことを忘れてしまっている。抜け落ちたように、記憶にないのだ。彼の中では、自分は存在しないことになっている。
 けれど、だからこそ、このような明るい表情をしているのではなかろうか。わたしを忘れることで、幸せになったのではないだろうか。
 その残酷な現実に、打ちのめされたのだ。

 かつて、彼を存在しないものとした。その罪が、こんな形で返ってくるなんて。神様は、やっぱり自分に罰を与えたのだ。七年という時を費やして。

 彼の髪に、そっと触れてみた。もう、こうして彼に触れるのは、最初で最後なのだろう。彼の髪を、そっとなでながら、すずなは言った。

「けっこう、しっかりした髪質なんですね」

 鏡の中の俊は、一瞬、きょとん、とした顔をしてから、少し笑った。

 思いの外、柔らかい笑顔だった。少し、照れたようなその表情は、子どもの頃の面影を残している。

 あぁ、これは。俊の髪にハサミを入れながら、すずなは思った。もしかしたら、罰ではなくて、これはごほうびなのかもしれない。本当だったら、再会することなどかなわなかったかもしれない彼を、ここに向かわせたもの。それが何なのか分からないけれど、今、ここでこうして彼の髪を、切っている。暮れていく空を見ながら。丁寧に、大切に、すずなは俊の髪にハサミを入れた。

「あの」

 カットが終盤に差しかかったとき、おもむろに俊が口を開いた。

「どこかで」

 すずなの手が、一瞬、止まった。

「前も、こうしてあなたに髪を切ってもらったこと、ありましたっけ」

「……」

 答えられなかった。ない。けれど、そのひと言を言いたくない。言ってしまったら、俊の足をここまで向かわせた細い細い運命の糸が、ふっつりと切れてしまう気がした。

「……そんなわけ、ないか」

 俊は、軽く笑ってから、こう言った。

「すみません、変なこと、言って」

 それから、ひと呼吸置いてから口を開いた。

「ぼく……何も覚えてなくて。昔のこと、とか」

 泣きたくなるのを我慢して、すずなは唇をかみしめた。そして、黙って手を動かし始めた。
 俊は、ぎゅっと一度口を引き締めて、少し決心したように言った。

「少しずつ、足どりをたぐっているんです。記憶をとり戻すために」

 その真剣なまなざしに、胸をつかれた。けれど、とり戻したいその記憶は、果たして俊にとってよいものであろうか。

「光の島子ども園へも行きました。そこの先生が、この美容室、卒業生がやっているんだよ、って教えてくれて」
 ――神さま。彼を、ここまで導いてくれたもの。その背景には、やはり神さまがいた。

 すずなは思わず手を止めた。二人は、鏡の中でしばし見つめ合った。すずなの指は、なだらかに俊の頭をなでて、その手は肩に着地した。

 祈るように、かけをした。

 このまま、自分が何も言わずに、彼が思い出してくれたら、真実を話そう。もし、思い出してくれなかったら、そのときは。彼の肩に置かれた手が、じんわりと温かみを覚えた。

「ぼくのこと、知りませんか」

 すずなのかけは、終わった。ぼく。そんな風に自分のことを呼ぶ俊なんて。
 すずなは、うつむいて首を横に振った。そして、小さな声で、やっと、こう言った。

「お役に立てなくて」

 無意識のうちにわいてきた涙がこぼれ落ちないようにするのに、必死だった。さぁ、カットは終わった。あとはケープをとって、会計を済ませるまでだ。

 彼を外に送り出すまでの数分間を、ほとんど覚えていない。意識がはっきりしたときにはもう、彼は夕暮れの坂道を下りかけていた。何度、その名を呼ぼう、と思ったか分からない。俊。俊……! 彼の背中は、もう半分ほど薄暮の坂道に隠れていた。
 ――店に戻ろう。
 隣の民家から舞ってきた落ち葉がたまっている。少し、玄関を掃いてから中へ入ろう。それから――この先、やるべきことをぼんやり思いめぐらせながら、それでも心は坂道の下まで転がり走っていきたい気持ちでいっぱいだった。
 店の扉に手をかけた。いつもより、ずっと重く感じて、引くのもおっくうに感じた。扉のガラスには、ちょうど夕日のだいだい色に染まった浮雲が映りこんでいて、その彩光に目を奪われた。
 しかし、目を奪われたのは、美しい空だけではなかった。
 雲に見とれた直後、その景色を覆うように後ろに立ちはだかった人がいた。ゆっくり振り返った。息を切らせて、俊が立っていた。今さっき、ひょうひょうと坂を下っていった俊が。
 夕日に半分顔を照らされて、俊は、絶句していた。そう分かったのは、明らかに別れたときとは違う目の色をしていたからだ。
 彼の瞳孔は開き、茶色の部分と黒目がくっきりと際立って見えた。野生のライオンのような目だ。そのなつかしさに、すずなの瞳には知らず知らずのうちに、涙の膜が張った。
 彼は、ひと言も発さなかった。
 ただ、本当に、野生の動物がそうするように、一歩、一歩、音を立てずに、すずなへと歩み寄った。そして、柔らかくすずなの肩に腕を回し、すずなの体を包みこんだ。

「す」
「ず」
「な」

 耳元で彼の声がする。なつかしい、照れを隠したような、かすれた声が。彼の肩ごしに、燃えるような夕日が見える。
 どうしてだろう。
 彼に抱き寄せられたのは初めてなのに、初めてじゃない気がした。出会ってからこれまでの、乗り越えてきた数々の場面と痛みに思いを巡らす。そばにはいつも、俊がいた。
 隣でも、見えないところでも、離れていても。
 そのとき、すずなはゆっくりと、二人の間だけに流れる真実を知る。

 そうか、わたしたちは。
 触れ合わないで、つながっていたんだ。心で。魂で。

 すずなは思い切り、声をあげて泣いた。たぶん、今までで一番激しく、心のままに。
 これだったんだ。今までずっとたどりつけなかったもの。自然と自分の中からあふれてくるもの。もう、これがあれば、この先どうであろうと生きていける、そう思えるもの。

 ずっと向こうに、大きくにじんだ夕日が見える。その下では、やわらかい雲が形を変えながら光を放っている。ずっと見たいと思っていた風景は、こういうものだったろうか。
 彼の体温を感じながら、はるか遠くへ飛んでいきそうな意識の中で、すずなは空を見上げ、そして目を閉じた。


(了)
400字原稿用紙 285枚 /  10万325字


                            ©Ai Shimizu
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#創作大賞2025 #恋愛小説部門


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