きみたちがまだ知らないこと【1】2025創作大賞 #恋愛小説部門
<あらすじ>
”生きるために、死ぬことから始めるんだ”
児童養護施設から抜け出した十二歳のすずなと十一歳の俊は、瀬戸内海を目指して逃亡の旅へ出る。民泊で大人たちと生活した後、島の施設へたどりつく。大人になって神戸の保育園で働き始めたすずな。同じ神戸で引っ越し屋の仕事に就く俊。ある日、すずなの体がいうことをきかなくなる。
すずなの心の内には、最初の施設で受けた性的被害の傷が、また俊にも性的いたずらの傷があった。だれにも言えない傷を抱えて、二人はつかず離れず毎日を生きていく。
保育園をやめた後、美容師を目指し始めたすずな。新しい扉が開きかけたとき、ある事件が起こる。
――二人の魂の彷徨をたどる感動の物語。 (293字)
第一章 逃亡、そして飛翔
夜明け前のこの場所が、こんなに静かだとは、知らなかった。
青い空気の中で、すべてが息を潜めている。時が止まったように、給湯室に置かれたなべもコップも、昨夜のままにある。昼間は、あんなにがちゃがちゃして騒々しいのに。物も、空気も、夜は眠るんだろうか。
すずなは、ひとつ呼吸をした。
となりで、俊が鼻から息を吐いたのが分かった。
「いくよ」
声にもならないほどの声で、俊がささやいた。すずなは黙って、うなずいた。そっと、ドアノブの鍵を回す。音がしないように。少しだけ戸を開けて、すずなと俊は猫のようにドアをすり抜けた。
そして、ゆっくりと、ドアを閉じた。外側のドアノブは、夜気に含まれたつゆで、ひんやり濡れていた。ドアを閉める瞬間、自分のぬくもりがまだ残っているであろうベッドを想像する。そこは、もぬけのからではなく、人形がつまっている。俊と二人で、夜中にこっそり作ったのだ。枕をビニールひもでぎゅっとしばり、頭を作り、そこに毛糸を切って大ざっぱにボンドでくっつけた。毛糸は、職務室のロッカーの上にのっかっているダンボールからちょうだいした。
「なぁ、どうせなら、身代わりを置いていこうぜ」
二人で逃げよう、という計画を話していたとき、彼はそう言った。
身代わりって、とすずなが聞き返すと、俊は、ぱちっと目くばせをして、人形さ、と言った。そして、その人形に血を垂らす、という、やや悪趣味な提案をした。血って、とおそるおそる聞き返すと、俊は、もちろん、本物の血じゃないよ、と言って、にやっと歯を見せて笑った。やえ歯のある、大きな笑顔だった。そのわしゃわしゃっとした大きな笑顔を見たとき、あ、このひとなら信用できる。そう思った。ほとんど本能的に。そして、こうも思った。
この子となら、どこまでも行けるかも、と。
彼は、言った。
「生きるために、死ぬことから始めるんだ」
俊。わたしより一つ年下の、十一歳。やせっぽっちの男の子。彼と出会ったのは、今年の冬、一番寒い季節だった。
その施設へ来たとき、すずなは事情がよく吞み込めていなかった。けれど、父が入院すること、自分はあのマンションに一人きりになってしまうことだけは分かった。病院に駆けつけた伯父さんは、すずなのことは預かれない、と言った。そのあと、いくつかの手続きを経て、すずなは児童養護施設というところへ来た。
施設についたその夜、蛍光灯のまぶしい職務室に連れて行かれた。そこの床に、自分が持ってきた小さなボストンバッグを置いた。お父さんが、修学旅行のために買ってくれたやつ。
背の高い男性職員が、紙を持ってきてペンを片手に言った。
「ここに、名前と学年、今まで住んでいた所の住所、書けるかな?」
それから、その下のアンケートに答えて、と言った。だれと住んでいたか。学校には毎日行っていたか。食事は、睡眠は、などなど。最後に、何か困っていること、悩みなどを書く欄があった。特にありません。そう書いた。職員は、さっと目を通すと言った。
「じゃあ、ちょっと腕見せてくれるかな?」
すずなは黙って腕を差し出した。彼は、すずなの手を取り、Tシャツのそでを肩までまくった。それから、背中がわに視線を移した。
「服、脱いでくれる?」
え、と思った。
「服、脱いで」
さっきより強い調子で職員が言った。頭から耳のあたりが、かぁっと熱くなった。心臓が飛び出しそうにバクバクしていた。黙っていると、彼は言った。
「言っている意味、分かるよね? 君を調べるためだよ」
呼吸が荒くなってきた。
そう思ったとき、バリン、と音がして、何かが砕け散った。
「こらぁっ」
職員が声をあげ、窓の向こうに向かって叫んだ。窓ガラスが、割れたのだ。
その瞬間、すずなはカバンを持って職務室を飛び出した。
「あれ、おれがやったんだぜ」
次の日の朝食時、食堂で突然、男の子に声をかけられた。きょとん、としていると、彼は窓ガラス、と強調してから、うまく逃げれた? とささやき声で言った。すずなは、少しむくれつつも、黙ってこくり、とうなずいた。
それが、俊だった。
四十人ほどいる児童養護施設の子どもたちの中でも、俊はわりと目立つように思えた。サッカーが好きで、施設の中でもいつもちょこまかと動いている。活発で、思ったことはすぐ口にする。下の子たちと、よくきゃっきゃとふざけ合っている姿をよく目にした。施設へ来て二週間ほど経ったころのことだろうか。学校から帰ってくると、何やら廊下が騒がしい。すずなのすぐわきを、ばたばたと上級生の男の子たちが駆け抜けて、園庭へ飛び出していった。すずなが廊下を進んで曲がると、トイレの前に、頭からびしょ濡れになった俊がいた。彼は、きまり悪そうに一瞬こちらを見ると、ただ黙って通り過ぎていった。駆けつけた例の男性職員がやれやれ、といった様子で、無造作にぞうきんで彼の頭をふいた。
それから、何となく俊のことが気になって、自然と目で追うようになった。
どうやら、俊は施設の上級生や職員、とくに男性職員に疎まれているようだった。俊の快活さ、健康さ、そして正義感。それらが、微妙にその場の空気や雰囲気にそぐわないような気がした。俊自身はさほど悪くないのに、そこの空気になじまない、というだけで、のけものにされている。下の子に慕われているというのも、ねたまれる要因だったのかもしれない。
施設での生活は、確かに悪くはなかった。まず、毎日ちゃんとごはんが出てきた。温かくてバランスのとれたごはんが、朝も夜も。それから、もうお酒を飲んでなぐりかかってくるお父さんにもおびえなくてすんだ。誰かの顔色をうかがわずに過ごすことは、何て心が安らかなんだろう。すずなは、久しぶりにピリピリとした緊張から解き放たれた。けれど、すぐに別の恐怖がすぐそばに潜んでいることに気づいた。その恐怖は、ドロッとした沼地のようなところからやってきた。
最初に対面した男性職員は、たびたびすずなの体を触ってきた。始まりがいつだったのか、覚えていない。それが本当にそういう意図を持っているのかどうか分からない。それぐらい、さり気なかったからだ。決定的だったのは、彼が宿直だった日の夜のこと。急に蒸し暑くなった五月初め頃だった。子どもたちを見回りに来る彼の足音が近づいてくる。
すずなは心なしか緊張し、布団の中で丸まった体を硬くした。上のベッドの子どもを確認し、彼は下のベッドで寝ているすずなをのぞきこんだ。すずなは寝ているふりをした。何かされるのでは、という予感に、心臓が飛び出しそうだった。緊張が最高潮に達したとき、やたら指の長い大きな手が、すずなのパジャマの中に差し込まれた。叫び声を上げようと思ったのに、声が出なかった。声にならない叫び声は、すずなの胸を破裂させて、息ができなくなった。呼吸ができない。
すずなの異変に気づいた職員は、すばやく手をパジャマからひっこぬくと、先ほどとは全く異なる手つきで今度はパジャマの上からすずなの背中をさすった。まるで違う人物にとって代わったかのようだった。
「過呼吸です」
呼び出された他の女性職員に、そう説明する声が聞こえた。ベッドに横たわるずすなの耳に、それは確かに誠実な響きに聞こえた。
「ぼくが見回っている時で、よかった」
すずなは、お母さんのことをあまり知らない。そんな気がする。あまり、というのは、基本的なことは知っているからだ。
お母さんは、設計事務所で働いている。家でも時々、仕事をしていた。お母さんは、仕事ができるひとみたいだ。お母さんは、おしゃれ。いつも大きめのイヤリングをしている。朝ごはんは、あまり食べない。トーストとコーヒーとか、果物だけ食べて会社に行くこともある。そういうお母さんを形作る様々なことを、すずなは知っている。十歳まで一緒に暮らしたお母さん。
けれど、なぜだか分からないが、お母さんのことをあまり知らない気がする。何に対して笑うのかとか、何に対して感動するのかとか、何が好きなのかとか。そんなぼんやりとした印象のまま、ある日お母さんは若い男の人と家を出て行った。若い男の人と並んで座るお母さんは、うつむいて少し目に涙をためているようだった。
すずながお母さんに関して心を動かされたのは、あとにも先にもこの瞬間だけだった。自分とお父さんを捨てて、若い男と仕事を選んだお母さん。愛してやまないものと、本当は愛さなければならなかったはずのもの、そしてどうしても愛することができなかったもののはざまに立たされて、お母さんは憔悴しきっていた。
最後は、まるでこちらが悪いみたいに思えてきた。一番人間らしい感情をまざまざと目の当たりにして、初めてお母さんに対して愛情のようなものを感じた。けれど、皮肉にもそれがお母さんと会う最後の日となった。
その日から、お父さんは少しずつ、じわじわと変わっていった。
どうしようもなかったのだ。
お母さんは若い男を選んで、お父さんはお酒を選んだ。わたしがいても、だめだったんだ。
「もうだめ、走れない」
そう言って止まるのと同時に、少し先を行く俊もひざに手を当てて走るのを止めた。施設を抜け出したあと、走りに走りに走って、走り通しでここまで来た。川の向こうに、工場の煙突が見えた。もうすぐ夜明けだ。白みかけた空の中に、黒い棒が船のマストのように何本も立っていた。鳥が、黒い影となって何羽も連なって飛んで行くのを見た。
そのとき世界は、ほの白い青から、みるみる変わった。止められない水ににじんでいく絵のように、薄青から黄、そして透明なオレンジから赤へ。朝焼けだ。川の向こうの工場群は、真っ赤な空に浮かぶように黒々と揺れ、ぐらぐら燃えるように宙に浮いた。すずなは、その光景に息をのんだ。燃えながら浮かぶたくさんの船たち。
大人は、あの河の向こうは行っちゃいけない、と言った。工場ばかりで危ないから、と。でも、あれは本当に工場なんだろうか。船のように燃える朝焼けに浮かんでいるあの工場群は、実は本物の船で、自分たちをここではないどこかへ乗せていってくれるものなのではないか。船を追いかけて、また鳥が空を行く。あぁ。自分も、あの鳥の背中に乗って船を追いかけていけたら。
「大丈夫か?」
ぼろぼろになった黒いスニーカーの足先。気づくとすぐそばに俊がいた。呼吸が荒くなって座り込んでしまったのを、心配して戻ってきてくれたのだ。すずなは、ほんの瞬きする間ぐらい意識が飛んでしまったらしい。
日が昇りきるまで、二人で草むらに座っていた。朝露でしっとり濡れていくお尻がちょっと冷たい。
呼吸が大分おさまったとき、俊が隣でつぶやくように言った。
「お前は家へ帰れ」
え、と声にならない声と共に、彼の顔を見た。何か追いつめられたような顔をしていた。
「一緒に逃げよう、って言ったの、あんたじゃない」
とまどいながら言うと、俊はうつむいたまま言った。
「逃げよう、ってのは、ここを抜け出そう、って意味だよ」
すずなは、自分が呆れるほどに、この小さな男の子を信用しきっていたことを思い知った。まるで、映画のように考えていた。二人で抜け出して、どこまでも行けるんだ、と一瞬でも思った自分が急に恥ずかしくなった。
「でも、わたし、帰るとこ、ない」
少し怒った声になってしまった。俊が、すずなの顔を真正面から見た。こんなにじっと見つめられたのは、初めてだった。まるで野生の動物が広いサバンナで同種の仲間を見つけたときのような瞳だった。一瞬だけど、永遠のような時に感じた。
でも彼は、次にまばたきした時には全く違う目の色になって、こうつぶやいた。
「お前を守れるか、自信がない」
どきっとした。翳りを帯びて、とても十一歳とは思えない表情だった。あまりに大人びていて、だからつぶやいた言葉が妙にしっくりきていて、否定することも笑うことも、できなかった。
俊は、一人立って歩きだした。
©Ai Shimizu
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