きみたちがまだ知らないこと【16】2025創作大賞 #恋愛小説部門
第四章 いつかどこかで
眠れない夜を越えて、まだ辺りが青い早朝、すずなはアパートの扉を開けた。
俊と行った、あの干潟が見たい。そう思ったのだ。
何ができるということではない。ただ、あのときあの朝、感じた気持ち。
どこまでも歩いていけそうな自然な万能感、それを思い出したくて、すずなの足は外へと向かった。駅へ。人はほとんどおらず、ぼんやりした眠りの空気に包まれていた。
足もとすらおぼつかないすずなの頭に、少し前にもよぎった場面の続きが思い浮かんだ。光の島子ども園にいたときのこと。冬の礼拝堂で、園長先生とそばには俊がいた。自分はこうして生きていく、っていう姿勢を見つけたら、とことん信じてみること。園長先生の話は、その後こう結ばれた。
自分だけの信仰は、ひとには奪われないわ。そして孤独になってもきっと自分を救ってくれる。
そのとき、俊は目をきらきらっとさせて、叫んだのだ。ひとにやさしく! と。そして、少し首を傾げて、つぶやくように言った。いや、違うな。強く、やさしく、かな。
誰もいない駅のホームで、すずなはふいにたまらなくなって顔を覆った。強く、やさしく。それを体現するために、ラグビー部に入って細い体を鍛えた。黙って、夜のすずなを陰から見守った。そして、ちゃまるのことも拒絶しなかった。俊の、強くやさしく、はいつだってすぐ近くにいる存在に向けられた。だから、施設の子どもたちにも慕われたし、わたしのことも守ろうとしてくれた。一緒に逃げ続ける同士として。
美しさを手に入れたら、もういいの?
突然、どこかから降りてきたこのフレーズに何より驚いたのは、自分自身だった。隣で一緒に走っている俊の姿は、いつのまにか影のように薄くなっていったのだ。欲しいものを手に入れた、と思ったら、逆に、大切なものを失っていた。
本当に欲しかったもの。それは、美しさだろうか。自信だろうか。それは、安心できるどこかではなかったか。本当に心が安らぐどこかを自分は夢見ていたのではなかったか。
すずなは、淡い光が差し込む病室を思い浮かべた。今は、もう、どこにも行きたくない。ただ、静かに眠る俊の隣にいたい。でも、わたしには、それが許されない。
電車の窓のむこう側が、うっすら明るくなった。日が昇るのだ。このままでは、夜明けの干潟を見るのは無理だろう。俊と見た、夜明け。電車が次の駅で停まったとき、発車のベルが鳴る直前に、すずなは電車から駆け降りた。俊には、もう届かない。けれど、朝日にはまだ間に合うかもしれない。
そこは、何もない小さな無人駅だった。耳が、海の音をとらえた。すずなは、駅の改札を出ると、そのまま海の方へと向かう細い道を下って行った。
海岸に着いたときには、太陽はほぼ姿を現していた。
薄い桃色の朝もやのなかに、昔の風情の帆船が二つ浮かんでいた。帆は、少し丸みを帯びた台形のような形をしていて、横に四、五本骨がある。舟は静かに、さざ波の中にゆれている。物音一つ立てずに、朝の光る海にすべる舟を、すずなは幻を見るような気持ちで見つめた。舟の影が落ちる水面が、ゆらゆらと小さなうねりを生んでいる。やがて昇ってきた日は、帆の真後ろを照らし、美しい暗赤色から橙へとその帆を染め上げた。
帆船は勢いを増して、光る海へと漕ぎ出していく。どこか頼りなげだけど、ずっと目で追ってしまう、二つの帆船。遠ざかっていくのを、ただ見ていた。
すずなは、ひざを落として、砂利だらけの浜に座り込んだ。知らないうちに、ほほに涙が伝っていた。抱え込んだひざに顔をうずめて、声を出さずに、泣いた。
「いい朝だ」
誰に話しかけるともない、大きなひとり言のような声を耳にした。ゆっくりと顔をあげると、すずなから少し離れた所に、中年の男が立っていた。日に焼けて目尻にはしわがある。足から胸まである黒いつなぎの長靴をはいている。漁師だろうか。空高く、一羽の黒い鳥が舞い上がる。
「そんな悲しい顔すんなや。ほら、海が光っとる」
こんなに美しくて、こんなにも哀しい海があることを、すずなは初めて知った。
「潮待ちしとった舟も出た」
「潮待ち……」
漁師らしき男は、ちらっとすずなの顔を見てから、海のかなたを見やった。
「潮の流れが変わるのを待つことや」
それから、ポケットからたばこ入れを出すと、一本取りだしひょいとくわえて火をつけた。
「何があったかしらんが。どんな悪いときも長くは続かん。待っとったら流れが変わるときもくる」
まるで占いみたいなことを言う。男の言葉は、まるですずなに響かなかった。違うのだ。人の心は。待っていて、どうにかなるもんじゃないんだ。一度、舳先が他へ向いてしまったら、それこそ、その潮流に乗って、どんどん離れていってしまう。気づいたら、もう、見えないくらいに。自分がそう仕向けたのだろうか。それとも、俊の方から離れていったんだろうか。わたしたちの舟それぞれの下に流れていた潮流がどんなものだったのか確かめるすべはない。けれど、彼の舳先が自分に向くことは、もうないだろう。
「……大切なものを失くしたの」
つぶやくように、風に乗せてみた。
「失恋でもしたかね」
すずなは夢中で首を横に振った。
「恋よりも、もっと大切なものです」
それが何なのか、言葉で表すことはできない。けれど、一瞬で冷める熱のようなものではない。そんな一時的なものでは。
男は、次の言葉を言いあぐねてたばこを二、三度口から離した。そのあと、沈黙に耐えかねたのか、ひと言ひと言迷いながらも、ゆっくり言葉を選ぶように、語りだした。
「人は恋を探しとる間はなぁ、あちこちへと帆を張って出かけていくもんだ。くるくる、くるくるとあっち行きこっち行き、いつもここじゃない、と旅に出ていく。けれど」
ここで、男は大きく煙を吐き出した。
「愛を知ったら、もうどこへも出ていきたくなくなるもんだ」
光る海の上を、魚がぴょん、とはねた。
「毎日、朝の光の中で目を覚まして、緑を目にして、小鳥が鳴いとるのを耳にするだけでも、あぁ、幸せだ、愛しいなぁ、と思える。道ばたに咲いとる花を見るだけでも、きれいだなぁ、と思う。もう、どこかへ行きたい、などと強くは思わんのだ。……さびしくも、なくなるんだ」
涙でくもって何も見えていなかった瞳が、だんだん開かれたように思った。すずなは男の横顔を見た。一瞬、男の横顔が、俊のそれに見えた。いや、違う。お父さん……。幻は、まばたきをするごとに、朝の光の中で明滅するように変わった。
そうだ。わたしたちは、いつもさみしかったのだ。
わたしも、俊も、きっとお父さんも、お母さんも、みんなさみしかった。
そして、それは、いつも恋を探しているようなものだったのかもしれない。
ただただ自分のことを受け入れてほしくて、でも相手のことをまるごと全部受け入れるには、あまりに小さすぎて。欲しがるばかりで、愛にたどりつくには未熟すぎたのだ、きっと。
男が目をやっている海の向こうには、朝もやに浮かぶ島々が見える。いつも、旅人みたいだった俊の横顔を思った。彼と逃げて渡った最初の場所が、瀬戸内海に浮かぶ名も知らない島だったことを思い出した。そこで出会った有里さんに連れられてたどりついたのも、また島だったことも。
島へ、行こう。
突然、そう思い立った。
心の置き所をどうしたらいいのか、その答えは見つからないかもしれない。けれど、満ち足りた笑顔の園長先生に会いたかった。漁師のおじさんが語ったように、愛を知り、目に映るすべてのものに慈しみを注いでいた園長先生。彼女なら、今、どう生きていったらいいのか途方に暮れてしまっているすずなに何と言うだろう。
心が決まれば、あとは早かった。突かれたように立ち上がったすずなは、足早に砂利の海岸をあとにした。細い道に入る直前、何か心を後ろに残してきた気がしてふり返った。けれど、つい先ほどまですずなに語りかけてくれた男の姿は、もうなかった。本当に、幻だったのかもしれない。
何か、ぐずぐずしている自分の背中を押すためだけに現れたかのような偶然の出会いに不思議な感触を覚えながら、海岸をあとにした。
©Ai Shimizu
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