きみたちがまだ知らないこと【17】2025創作大賞 #恋愛小説部門
島へ渡る船は、人もまばらだった。
島へ行くのは、卒業して最初のクリスマス以来だ。あのとき、一人で帰るはずだったすずなについてきてしまった俊。とても、一人で帰せない、って思った。あとでそう語った。
俊ちゃんは、いつもすずなちゃん、すずなちゃん、だったものねぇ。いつの、どんなタイミングでだったか、園長先生がそう言って笑った。二人が、汚れたスニーカーで、髪もぼさぼさでぽつん、と立っているのを見たとき、あぁ、この子たちを守らなきゃ、と思ったわ。それも、セットで。引き離すことなく、二人とも幸せになるような環境に置いてあげなきゃ、ってね。先生は、過去のすずなと俊にどんなことがあったのか、聞かなかった。けれど、二人が何か深いところでうっすらつながっていたのを、感じとっていたのかもしれない。
施設の職員に触られた。ズボンもパンツも脱がされた。性的な興味のために、自分の体がおもちゃにされた。
その、魂が壊れるほどの深い痛みに、一体だれが触れることを、許されるだろう。
その告白ができるひとが一体どれだけいるだろう。思い出すことさえ耐えがたく自分の裸をさらすようなものなのに。
相談してくれればよかったのに。大人に助けを求めるべきだ。正しい助言は、社会に出てから知った。けれどそういうことを言う側の人々や、メッセージが発せられる元の清く正しい雰囲気に、却って壁を感じた。
自分の抱えるよどんだおりのようなものとは、無縁そうな人たち。もともと余裕のある人たちが、自分のように傷ついた者に手を差し出すことができるのだ。正しさに助けを求めるときに感じる屈辱を思えば、沈黙を守り通すことの方がよほど守られるような気がした。
でも、それは、同じような思いをした俊がそばにいたからだ。わたしたちは、沈黙で、自分たちを守ってきたんだ。無視するのでもなく、忘れるのでもなく、沈黙でもってお互いを守ろうとしたんだ。でも。すずなは、ざぶんざぶんとかきわけられた船の尾から続く白波を見つめる。
俊は、その沈黙を持ったまま、一人、どこか遠い所へ行ってしまった。すべてを、本当の沈黙の中に閉じこめて。
島が近づいてきた。もう、あと数百メートルもすれば、あの桟橋に船は着くだろう。
俊ちゃんのこと、お願いね。
あれは、俊が神戸に行く、と決めた年の二月ごろだったっけ。電話の向こうで明るく笑った園長先生の声が船のエンジン音でぼんやりした耳の奥から響く。
お願いどころか――。わたしは、俊をひどく孤独な中に、つき落としてしまったよ、先生。
その覚醒は、すずなの心を凍らせた。そして、思った。一体、自分はどんな顔をして、先生に会いに行こうというのだろう。合わせる顔などないのではないだろうか。
突然、今、自分がしようとしている行為がひどく間違っているような気がして、すずなはうろたえた。うろたえたところで、もうどうしようもなかった。船は、速度をゆるめることなく、ざんぶざんぶと波を切ってゆくのである。引き返すことなど、もうできない。
風が強い。乱暴な風は、すずなの髪を、服を吹き散らしていく。風に吹かれて、心の中が空になった。気がした。
ほとんど衝動的に、すずなは手すりに足をかけていた。足が船尾の白い鉄の手すりから離れるとき、白いカモメが一羽、視界のどこか隅を横切った。
あぁ。自分は、死ぬんだな。どこか、他人事のように、そう思った。
何て、世界はいつも通りで、あっけないんだろう。あの階段から落ちるとき――きっと、俊の目にも世界はこんな風に映っていたんだろう。今、わたしも、そっち側に行くよ。もう、ひとりぼっちじゃないからね。
すずなの体は、宙に浮いた。
同じように船に乗って、わたしたち自由だね、と笑い合っていたときの情景が、一瞬、脳裡をよぎった。
直後すずなの体は海面にたたきつけられた。
ごぼごぼごぼ、と重たい水の音がして、冷たくよどんだ世界に引っ張りこまれた。このまま、海の底深く、沈んでしまおう。俊をあんな目に合わせて、だれにも愛されなくて、自分は生きている資格などない。知らない間に身につけてしまったよろいがきっと、自分を海の底へ沈めてくれるだろう。俊の笑顔。わしゃわしゃっとした、やえ歯ののぞいた人懐こい笑顔。
もう、二度と見ることはできない。
濁った水面の、上の方に光が差している。息が苦しい。次のあぶくが口から出たら、肺の中に水が入ってくるだろう。意識が遠のきそう。
〝生きるために、死ぬことから始めるんだ〟
ふいに、俊の言葉がよみがえった。最後の息が切れる間際だった。
その途端、すずなの体は、ぴん、と意識を取り戻した。
水中で息を吹き返した人魚のように、すさまじい勢いで水面を目指していた。考える、というより本能がそうさせた。
すずなは、海面に顔を出し、大きく息を吸うと、必死に泳ぎだした。
波は大きくうねり、すずなの頭に何度も覆いかぶさってきた。服が重たくて、手も足も思うように動かなかった。
泳げ、泳げ、重たいものは、すべて脱いじまえ!
どこかで、俊の叫び声が聞こえた。無我夢中で、重たいジーンズとそでのふくらんだプルオーバーを脱ぎすてた。
下着だけになったら、大分身軽になった。大波にゆられる向こうに、島が見えた。すずなは気を取り直して、泳ぎ出した。波は容赦なく、次々とやってくる。少し波に乗ることを体が覚えはじめたところで、頭から水に襲われて、何度も水を飲んだ。せっかく見えた島は全然近づかなくて、このままあきらめてしまおうかと、何度も思った。けれど、とにかく水をかいて前へ進んだ。ざぶざぶと鳴る波の音は、やがて歓声へと変わった。プールで何度も耳にしていたあの歓声。
前へ、前へ。
そのまま、進め!
歓声に、俊の声も重なって聞こえた。島の桟橋が見えたとき、もう身体が動かなくなってしまって、大きく水を飲んだ。
あと少しなのに。もう、だめだ。
気が遠くなりかけたとき、はっきりと、俊の声が聞こえた。
あきらめるな!
最後の力を振りしぼって、すずなは再び泳ぎだした。
あきらめるな、あきらめるな
おれたちは何も奪われてない、
これから手に入れていくものばっかりだ
いつしか俊に言われた言葉を、心の中で繰り返していた。夢中で手足を動かして、気づいたら、桟橋は目の前だった。誰かに強く腕を引っ張り上げられ、コンクリートの上に、ぐったりと倒れこんだ。そのままごろんと、仰向けになる。
太陽がまぶしい。すずなの耳のすぐそばを、小さなカニがちょこちょこと歩んでいった。早く、毛布を持ってこい、と誰かが叫んでる。
生きてる。
ぼんやりと、そう思った。そして、舞い降りてきた言葉に、思わず笑った。
なんだ。死にたい、ってことは、つまり、生きたい、ってことなんだ。沈めよう、沈めよう、と思っても、自然に浮かんでくる、この体。体は自然に生きたがっている。生きよう、という意志を持っている。
生きるために、死ぬことから始めるんだ。
そういうことだったんだね、俊。
まぶしい太陽に照らされながら、すずなはただ身体の呼吸するにまかせていた。
©Ai Shimizu
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