きみたちがまだ知らないこと【14】2025創作大賞 #恋愛小説部門
ビラ配りのために、ひとり終電近い駅の入り口に立ちながら、すずなはぼんやり昨夜のことに思いを巡らす。
ビラを差し出しながら、すずなは思う。そんなにひとりぼっち同士なら。なぜ、互いに〝出会わない〟のだろう? こんなに毎日近くで、同じ場に立っているのに、なぜ。
駅から足早に去っていく人々にビラを手渡す。無視する人もいるし、たやすくその手にビラを受け取ってくれる人もいる。黒く長いコートを着た男性が、一度受け取ったビラを、その場ですぐ捨てた。
彼も――麻里也さんも、自分の人生にとってただ通りすがりの人なんだろうか。すずなは、今まで通りすがった人たちのことを、ほのかに思い出した。船で声をかけてくれた医者の佑さんや、写真を撮ってくれた有里さん。スイミングの先生や、島の先生たち。今、そのうちの誰かひとりでも通りかかってくれたなら。
下りの電車が着いたのだろう。どっと黒い人の群れが、駅の改札に向かって突進してきた。もちろん、知っている人などいない。行きすぎる無数の人々の中で、ふと、なつかしい目に出会う。そのときを待って、わたしたちは旅するように歩き続けるのかもしれない。ろくに立ち止まりもせずに。
手渡したビラが、また、ポイ、と捨てられた。駅の構内にたたきつけられるように。
次。また、捨てられたら、もう帰ろう。
折れそうな心を支えるように身をかがめたとき、誰かの手が、捨てられたビラを拾った。
俊だった。
ほらよ、という風に、俊は黙って小さく折りたたまれたビラをすずなに差し出した。まるで、教室で落とした鉛筆でも拾ってくれたかのように、さりげなく無造作に。
その半分照れたような、バレたか、というような複雑な顔を見たとたん、すずなの目には、じわっと熱い涙の膜が張った。まるで、迷子だった子どもが、人混みの中でお父さんを見つけたような気持ち。そのからだの反応で、すずなは、今、この瞬間まで自分がどれだけひとりぼっちだったのか、思い知った。ひとりぼっちの麻里也さんに思いを巡らせていた自分も、同じかそれ以上にひとりぼっちだったということを。
「よぅ」
俊は、のろのろと声を発した。
「偶然、通りかかって」
嘘がヘタだなぁ、と思った。引っ越し屋で働く彼が、駅周辺に来ることなんて、ほとんどないのに。どうして、こんな時間にこんな所にいるのだろう。でも、その理由は聞かなかった。俊が知らず知らずのうちに、すずなと夕食を共にしなくなったのと同様、もう互いが互いの夜をどう過ごしているかに、立ち入ってはいけないような空気ができていたのだろう。
「もうすぐ、終わるんだろ」
俊は、人が通り過ぎてがらん、とした構内にちら、と目をやり、言った。
「終電、近いぜ」
すずなは、こっくりうなずいた。いい。もう、今日はここまでにする。そう言って、その場を切り上げた。
「元気だったの」
あまりに俊が黙っているので、聞いたら、まぁな、と短い返事が返ってきた。何か他に聞きたいことがある気がしたが、それが何かつきとめる前に、俊のアパートまで来てしまった。ここから先はすぐだからいいよ、と言うと、ついでだから送るわ、と言う。返事をする前に、がさっという音がして、驚いて見ると、俊のアパートの入り口の植木を飛び越えて、女の子が飛び出してきた。店の前で立っていた、あの子。
「鍵、ちょうだい」
彼女は、俊に向かって手を差し出した。それが当然というように。俊は、少し顔をしかめつつも、ズボンのポケットをがさごそ探って、キーケースを出した。そして、ぽん、と彼女の手にのせた。彼女は、振り返りもせず、俊の部屋の鍵を開け、堂々と入っていった。
ぽかん、と見ているすずなに向かって、俊はちょっときまり悪そうにうつむいたまま、行こ、と言った。
聞きたかったこと。
それそのものが、形をとって直球で向かってきて、みぞおちを直撃された。そのショックで何も聞けなくなってしまった。俊にちらついていた、彼女の影。すずなのアパートまでは距離にして二百メートル。沈黙が重かった。自分のアパートの扉まで来て、やっとすずなは声を発することができた。ありがと、と。そして、からからに乾いた声で、やっとこう言った。早く、帰りなよ。彼女が待ってる。
ひとりの方へ、ひとりの方へ。気づくと、漕ぎ出してしまうような気がする。甘え方を知らないから。頼ることを、しないから。期待することも、おこがましいから。ひとりでも帆を立てて海を渡っていけるように。
感傷に浸っている暇はなかった。自分には、目標があるのだ。俊のことも、プライベートとしての麻里也さんのことも頭から追い出して、すずなは勉強と日々の仕事に励んだ。いろんな雑誌を見たり、映画も観てみたりした。そういう色とりどりなことで身の回りを埋めつくして、そして手を動かし、机に向かった。またたく間に月日は経った。美容師を目指してから、三年近く。国家試験の日は刻一刻と迫っていた。
「おめでとう」
試験に受かったとき、ほとんど感嘆をこめて、麻里也さんは言った。きみの努力と忍耐力はすごかったよ、と。
ひとつ集中して山を越えると、周りの景色がまるで違って見える。ひと皮むけた自分になったような感覚。いろんなことが研ぎ澄まされて、目に耳に入ってくる。まだまだアシスタントとしての生活は続くが、ひとつの切符を手に入れたことで、すずなの前には明るい扉が開けたような気持ちになった。店に生けてある花も、今日は何か豪華だ。
「今日は、お祝いだからね。特別」
麻里也さんは、少し花の方向を整えながら言った。ほら、記念に写真撮ってあげる。たっぷりと生けられた芍薬からは、甘い香りがした。
すずなは、むせかえるように甘い花の隣で静かにほほ笑んだ。さらさらの髪が少し、花にかかった。もう、写真を撮られるのがイヤだ、とは思わない。実際、ほら、と言われて見せられた自分は、以前とは別人みたいだと思った。豪華な花と並んでも、ちっとも見劣りしない。
美しくあること。美しさを保つことが、愛されるために必要なのだ。そして、美しさを手に入れたら、自信をもって内面を磨くこと。勉強でも趣味でも何でもいい。そうすることで、さらに美しさは確かなものになっていくはずだ。すずなは、自分の中にやわらかな光がさしたように感じた。
自分だけの生きていくための信念を見つけたら。それは自分だけの信仰になるわ。
冬のある日、こごえそうな天井の高い礼拝堂でそう語ってくれたのは、園長先生だった。信仰? すずなは首をかしげ、俊は聞き返した。すると、園長先生は困ったように笑って、ちょっと言葉が難しかったかな、と前置きしてから、自分はこうして生きていく、っていう姿勢みたいなものよ、と言った。その姿勢を見つけたら、とことん信じてみること。そしたら、いつか奇跡が起きるかもしれない。
そのときはまだ、自分がどう生きたいか、なんてよく分からなかった。分からないまま、何となく子どもが好きなのかも、とぼんやり思っていた。けれど、自分は子どもを愛することができなかった。愛された記憶が、少なかったから。愛されるために必要なこと。それは、美しくあること、そして自分に自信を持つことなんだ。やわらかな店の光に包まれて、今、すずなはそう信じて疑わなかった。
夜の道に消えていった、俊と並ぶ彼女の後ろ姿が脳裏をかすめる。今はもう、越えたはずだ。
美容師の試験、受かったよ。
ものすごく久しぶりに、すずなは、俊に短いメールを打った。もう、最後かもしれない、というある種の予感をもって。
店が休みの前日に、麻里也さんが企画をして、すずなのお祝いパーティーをしてくれた。店長の麻里也さん、千絵ちゃん、奏苗さん。事件があった後、奏苗さんは一週間ばかり店を休んでいたが、落ち着きを取り戻してからはまた一緒に働いていた。
麻里也さんが予約しておいてくれたイタリア料理のレストランは、高いビルの最上階にあった。ガラス張りの窓からは神戸港が一望できる。無数の灯りが星のようにまたたいて見える。
「一度、来たいなー、って思ってたんです」
千絵ちゃんがはしゃいで窓に近づく。
「頼むから、ガラスに顔、くっつけないでくれよ」
麻里也さんがからかった。
ウェイターがすずなのグラスにシャンパンを注いでくれた。細かい泡が次々と連なって立ちのぼり、黄金色の表面から空気に消えていった。前菜にのっていた網目状のスナックのようなもの、周りに点々とふちどられた色とりどりのソース。初めて目にする料理ばかりだった。メインの仔牛のローストは、真ん中あたりが赤くて、生なんじゃないかといぶかしがったが、みんなが何の躊躇もなくナイフを入れたので、そういうものか、と思っておそるおそる口に入れてみた。レアというステーキの料理法があるのを、知らなかったのだ。
四人のささやかなパーティーは心おきなくて、いつまでもしゃべったり食べたりしていたかった。デザートには、正方形の大きなケーキが運ばれてきた。見ると、真ん中にはチョコレートで「すずなちゃん合格おめでとう」と流れるように書かれていた。スポットライトに照らされたケーキには、いちごやラズベリー、ブルーベリーがたくさんちりばめられていた。
胸がいっぱいになって、すずなはそのケーキを見つめた。みんなに祝福されて、ここにいるということ。温かく調和のとれた家庭では、誕生日に子どもが味わうであろう、その瞬間。生まれてきたことを、誇りに思うとき。今まで、欲しかったもののすべてが、ここに凝縮されているような気がした。
わぁ、とか、うれしい、とか分かりやすい反応がなかったので拍子抜けしたのだろう。仕掛け人である麻里也さんが、ちょっと首を傾げてすずなの顔をのぞきこんだ。
「……すずなちゃん?」
嬉しすぎて、声にならなかったのだ。すずなは、込み上げてくる熱いものを抑え込もうとして、目を何度かしばたたいた。けれど、あふれてきたものは少し、目尻にこぼれてしまい、慌てて隠すように手の甲でぬぐった。
「店長、大丈夫。ちゃんと感動してますから」
千絵ちゃんが口に手を当てて内緒話のように麻里也さんに言ったので、一同からどっと笑いがもれた。すずなも、ここで初めて笑った。笑いながら、止めていた涙がこぼれた。嬉しいときにも、涙って出るんだ。そんな涙を、すずなは初めて知った。
パーティーは、あまりに素敵すぎた。このまま終わらなければいいのに。ふわふわの甘いスポンジケーキとシャンパンの泡のように、すずなの心は軽く明るかった。
「店長、今日はどうもありがとうございます」
お店の雰囲気も、仕掛けてくれたことのすべても麻里也さんらしく、すずなは安心した。いつか感じたさみしさやうらぶれた様子なんて、やっぱり麻里也さんには似合わない。たとえ個人的に近づけなかったとしても、今まで通りの素敵な麻里也さんでいてくれることが、よかった。その方が、安定している。彼も、自分と彼の関係も。麻里也さんも、いつも以上に明るく、晴れやかな顔をしている。本当によかった。
ふと、息をついて駅に上る階段を横切ろうとしたとき、見覚えのある何かが、すずなの視界の隅に映った。それは、薄暗く汚らしい一角で、何もなければ通り過ぎてしまう風景の一部のはずだった。
薄汚れた作業着を着て、階段の手すりにもたれて上の方をうかがっている、それは俊だった。ふいに、声が出そうになった。けれど、押しとどめる強い何かがあった。
今までの美しくキラキラした世界と、彼はまるで別のところにいた。汗にまみれて、疲れて、たったひとりで。駅の上の方をうかがっていた彼は、ふと目の前を通り過ぎようというすずなと、店の一行に気づいた。何か、違う、と感じたのだろう。俊も、見つめただけで、何も言わなかった。
「……知り合い?」
そう聞いて一歩近づいてきた麻里也さんに向かって、すずなは慌てて首を横に振った。
「ううん」
俊の耳に、届いただろうか。
少なくとも、すずなが首を横に振ったのは、目にしただろう。すずなは、怖くて俊の方を振り返ることができなかった。
一行とともにその場を去る瞬間、横目で俊の立っていた場所に目をやった。はっ、とした。
こちらを見つめる俊の目は、悲しみと憎しみの入り混じったような光を放っていた。暗い影のような姿の中で、その眼だけが、激しい怒りに濡れていた。
だって。
夜の街を行き過ぎながら、すずなは自分の胸に言い訳をした。
しょうがないじゃない。
これまで、さりげなくも必死に隠してきたことたち。自分の生まれ。自分の育ち。自分の受けた古い傷。おぼろげながらも切れない糸で俊とつながっているそれらのことたち。
もし、俊をみんなに紹介してしまったら、それらは次々と明るみにこぼれ出てきてしまう気がした。そんなこと、今までみたいに素知らぬ顔して嘘で塗り固めればいいじゃない。もう一人の自分が言った。けれど。すずなは、まだ酔いが醒めきらず華やいだ気分で歩いている仲間たちに目をやった。
実はDVに遭っていた奏苗さん。つらい過去からひとりを選んできた麻里也さん。健やかに見える千絵ちゃんにだって、悲喜こもごもがあることを知っている。
もう、嘘はつきたくないのだ。この人たちに。
だから、ひとつ本当を言えば、次々に本当を打ち明けたくなってしまうだろう。
自分の中で、爆発させずに保ってきた花火に、次々と火をつけるように。
©Ai Shimizu
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