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きみたちがまだ知らないこと【15】2025創作大賞 #恋愛小説部門

 知り合い? ううん。

 その言葉は、ここしばらく交流がなくなっていた俊に対する、最終宣告のようなものだった。改めて振り返ると、そう思う。
あの夜のことを謝ろうかな。そう思ったときもあった。しかしわざわざメールするにも距離ができてしまっていて、結局、謝りそびれたまま時は過ぎた。

 季節も変わろうという冬も初めのころだった。木枯らしが吹く冷たい朝、何の前ぶれもなく、俊の彼女が店に現れた。まだ開店少し前で、店の玄関をほうきで掃いていたすずなは、はっとしてその手を止めた。
 すずなは、彼女を奥の席へ招き入れると、サービスメニューをたずねた。コーヒー、紅茶、緑茶、どれにいたしましょうか。彼女は、少しむすっとしたまま、紅茶、あったかいの、と言った。むくれていても可愛い子は可愛い。椅子に深々と沈み込んだ彼女の頬は、外との気温差のため、ほおっと赤く染まった。柔らかそうで、まだちょっぴり幼さを残している。
 彼女の頭をシャンプーしながら、すずなはふと手を止めた。つやつやに見えた髪は、注意して見ると傷んでいて、枝毛もたくさんあった。

 カットとスタイリングは、奏苗さんが担当した。国家試験に合格したものの、すずなはまだアシスタントで、美容師としてお客さんの髪を切るのはまだ少し先のことだった。使ったタオルの処理をしながら、何かこの二人、似合うなぁ、と感じた。芯の強さだろうか。それとも、女らしさ。
 彼女は、ほとんどしゃべらなかった。けれど、奏苗さんに髪を切ってもらううちに、むくれていた表情は徐々にほぐれ、柔らかいものになった。

 会計を済ませた彼女は、外に出た。奏苗さんに他のお客が予約で入っていたので、すずなが玄関先まで見送った。
「あの」
 少し振り返って彼女は言った。

「どんなもんかと思って来てみたけど」
 彼女はもじもじしながら次の言葉を探している。

「まだアシスタントなんだ」
 すずなは、何と答えたものか困って、たたずんだ。きっと他に言いたいことがあって来たに違いない。

「俊の……彼女、だよね」
 高飛車ぶっているのは、コミュニケーションに自信がない証拠かもしれない。若さもあるだろう。

「俊、元気?」
 とりつくろうように声をかけた。
 すると驚いたことに、目の前の女の子は急に声をあげて泣き出した。ぽろぽろと大粒の涙があめだまみたいに頬を転がって地面に次々こぼれ落ちた。

「ど、どうしたの?」
「だって、だって」
 しゃくりあげるのが少しおさまってから、彼女はやっと、こう言った。
「俊は、ちっとも私を愛してくれない」

 心のどこかが、凍りつくように感じた。
 愛してくれない。
 そばにいても、触れてくれない。決してその手を、自分の方へ伸ばしてくれない。
 すずなは、俊との間にあった反発し合う磁石のように引き合わない不思議な力を思った。そして、最後に見たあの夜、黙って哀しい目をしていた俊の姿を思った。
 彼女は、ちゃまる、と名乗った。本名は、言わなかった。子どもの頃、飼っていたうさぎの名前が、ちゃまるだったという。広島から出てきて、バイトをかけもちしながら、一人アパートで暮らしているという。

「すずなさんとの間に、何かあるのかと思って」
 こめかみの辺りが、ぴりっとした。何か、というのはこういう場合、男女の仲のことを言うのだろう。けれど、すずなは全く別の〝何か〟のことを指されたように感じた。
 わたしも。
 すずなとちゃまるの間を、冷たい風が吹き抜けた。
 わたしも、愛をもって、誰かに触れることができない。また、触れられることも。
 その根源は、深く冷たい海の底に沈んでいるたぐいのものだ。普段は、決して人の目に触れず、沈黙をもって、奥深くに眠っているもの。しかし、決して溶けてなくならないもの。俊が、目を閉じて暗く青い海の底へ沈んでいく幻想を見た。

 俊も――。
 このとき、にわかにすずなは俊のことを分かった気がした。
 俊も、自分と同じような思いをしたのではなかったか。
 施設で俊の周りを害虫のようにとりまいていた、薄汚い上級生たちの黒い影。パンツを脱がされても、水をかけられても、その中で必死に沈黙を守って耐えていた俊。本当のところ何があったのか、想像するのもこわかった。けれど、もう目をそらすわけにはいかない。――彼も被害者なのだ。たぶん。いや、絶対。

 すずなは、一種のあきらめと悲しみをもって、目の前のちゃまるを見た。
「何も。何もないよ。わたしと、俊の間には」

 そう言うしかなかった。だって、どうやって理解してもらえるだろう。
男女という組み合わせであれば、誰もが恋愛という甘やかな喜びを抵抗なく味わうことができるものなのだ、と信じてみじんも疑っていないこの子に。そうか、この子は知らないんだな。知らずに、ここまで来られたんだね。世の中には、過去の経験や思わぬ事故から、異性に触れることも、触れられることもかなわない男女がいる、ということを。
 なぜだろう。ふいに、ちゃまるのことが尊く思えた。その気持ちに、すずなは動揺した。俊を思うちゃまるの純粋さを、尊いと思ったのだ。自分は、今までもそしてこれからも、そんな風に人を思えるのか、分からないから。人前で涙を流すほど、素直に人を欲することができるとは思えないから。

 
 彼と一緒に電車に揺られて窓の外をじっと見ていたとき。どこまでも、一緒に行ける、と思ってた。
 それは、きっと黙っていても通じ合える同じ痛みを抱えていたからだ。
それを分かった今、でも、彼に簡単には会えない。彼のそばには今、彼女がいる。泣くほどに、彼のことを思っている彼女が。
 子どものころ逃亡の旅を始める前、どこへ行きたいか、と話していたとき、自分はアフリカ、と言い、彼はアメリカ、と叫んだ。自分たちは、同じところから出発して、途中から反対方向へ向かったのだ。


 終電近い駅の構内で、またビラ配りをしている。
 雨は夕方から降り出して、階段にたくさん泥まみれの足跡がついている。こういう日は、特にビラをもらってもらえない。傘を手にしていたり、足元を気にして周りが見えていない人が多いからだ。渡した数メートル先で捨てられたビラが、階段にくっついている。ぼんやり見ていたら、渡そうとしたビラが手元から落ちた。
 ちっ。
 嫌な感じの舌打ちを聞いた。そのまま、通り過ぎるであろう男は立ち止まり、すずなを横目でにらんだ。こういう時は、目を合わさない方がいい。軽く頭を下げたまま、再度、ビラを持つ手を差し出した。
 めんどくさいことにならないといいなぁ。そう思っていたのが相手に見透かされたのだろうか。男は、何だよ、その態度、と小さく吐き捨てるようにつぶやいた。首の後ろがぞくりとした。早く、早く立ち去ってほしい。差し出した手は、震えた。
 咄嗟に腕をつかまれて、すずなは心臓が止まりそうになった。体をくの字に曲げると、相手は、力を強めた。

「ちゃんと人の目、見ろよ」
 恐怖で声が出ない。呼吸さえも。この感覚は、いつかの夜に似ている。そう思ったとき、耳に声が飛び込んできた。

「その子に、指一本触れるな―――っ‼」

 固まった空気をぶち壊すように黒いかたまりが飛びこんできた。
俊だった。体を丸めて、いのししのように男に体当たりした。男はよろめき、すずなの腕から手を放して地面にへばりつくように手を着いた。男と俊はもみ合いになり、つかみ合ったまま階段の降り口までもつれこんだ。
 ―――あっ。

 すべての音も色も、静止した。俊は、消えた。階段の下に。
 へりまで走りよって、のぞきこんだ。階段のはるか下に、逆さになった俊が、ねずみの死体のように転がっていた。


 
 そのあと、何がどういう手順で行われたのか記憶が薄い。あまりに気が動転してしまっていたからだ。警察にも何を話したか分からない。俊と一緒に救急車に押し込まれるように乗りこんで、気づいたら病院だった。薄暗い病院で、俊は眠ったままチューブにつながれていた。頭は包帯でぐるぐる巻きだった。看護士さんが何度か出入りして、様子を見ていった。寒い。雨に濡れたまま、ここまで来てしまった。すずなは、ひざを抱えた。
 いつかも、こんな夜があった気がした。雨に濡れて、俊と二人で。でも今は、ずい分と状況が違った。あのときは、身を寄せ合ってお互いを温めていた。今は、二人でいても、一人な気がする。俊は、ずっと目を覚まさない気がする。悪い事ばかりが頭をめぐった。
 

 なぜ、彼はあのタイミングで自分を助けることができたのだろう。そのことに気づいたのは、もっとずっと後のことだった。
 俊が眠り続けて、三週間が経っていた。たぶん、ちゃまるがお見舞いに行っていることだろう。すずなは、少し気をつかって行ける時に行ったが、二人がはち合わせることはなかった。一度病室に向かったとき、彼女が来ている気配がしたので、病室をそのまま通り過ぎた。彼女は何やら俊に話しかけているようだった。
 すずなは、俊には、何も話しかけない。何か話したいのだけど、何を話していいのか思いつかないからだ。その代わり、ただ手を握る。引っ越し屋でたくさんの荷物をつめたり運んだりしてきた分厚い手。ほんのり温かくて、俊が確かに生きている、と知って少し安心する。強く握ると、握り返してくれるような気がする。
 ここぞ、というとき。俊とすずなは手を握っていた気がする。それは数えるほどしかないのだけれど、しっかりと体が記憶している。

 バタッと冷たい足音がして、すずなは振り返った。病室の入り口に、ちゃまるが立っていた。ちゃまるは、ずかずかと部屋に入ってくると、乱暴にすずなと俊の間に割り込んだ。最もそれより数秒先に、すずなは慌ててベッドから飛びのいたのだけれど。ちゃまるは、俊におおいかぶさるようにしてから、すずなをにらんだ。

「すずなさんの、せい」
 分かってはいた。でも、考えないようにしていた。なじられて、初めてその罪悪感は明るみに出た。すずなは黙ってうつむいた。ちゃまるは、涙ぐんだような声で言った。

「毎日。すずなさんが美容師目指すようになってから、ほとんど毎日、帰りが遅いから、って様子見に行ってたんだから」

 何のことを言っているんだろう。想像の範囲を超えていて、すずなの頭は混乱した。毎日。夜?

「店から帰るところをつけたり、駅のビラ配りが終わるまで陰で待ってたり」

 あまりに、タイミングが良すぎた。ビラを拾ってくれた夜も、助けに飛び込んでくれた夜も。そして――彼の存在を無視した夜も。毎日。すずなは途方もない気持ちになった。
「変な男に襲われないか、とか心配だから、とか」
 ちゃまるはここで言葉を切った。そして、小さく小さくつけ加えた。彼女でも何でもないのに、と。

 何てことを、してしまったんだろう。

 今、やっと、事の重大さを突き付けられた気がした。
 わたしが、彼を、つき落としたんだ。
 二度までも。一度目は、うそをついて。
 二度目は、わたしの身代わりになって。

 病室の窓からは、明るい光が差し込んでいた。窓辺に飾ってあった花から、黄色い花びらが二、三、舞い落ちた。

「もう、来ないでください」
 低くて暗い声だった。
「お願い、来ないで」
 ちゃまるは、うずくまるように両手を顔に当てた。
すずなは、うつむいたまま、ゆっくりと俊とちゃまるに背を向けた。自分は、彼らの世界からはじかれたのだ。

 さよなら、とか、元気で、とか、何か最後に言いたかったけれど、再び向き直ることすら許されない気がした。
 病院の廊下が白く長く伸びている。外へ出るまでが、異常に長く感じた。  出口を出るまで、誰とも会わなかった。

                            ©Ai Shimizu

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