見出し画像

きみたちがまだ知らないこと【13】2025創作大賞 #恋愛小説部門

 見上げると、曲線でふちどられた黒いアイアンの手すりにもたれて、一人の男の人が立っていた。

 ゆったりとした白いシャツを着ている。栗色の髪には大きくウェーブがかかっている。男の人は、カーブした階段を足早に降りてきて、すたっとすずなの前に立った。ホールに、カツン、と靴音が響いた。

 立ち姿がやたらに美しい人だな、と思った。半ば驚いて口もきけずにいるすずなに向かって、男の人は丁寧な口調になって言った。
「驚かしてすみません。突然で、お願いなんですけど、ぼく、この上の店で美容師やってるんです。よければ、カットモデルになってくれませんか」

「カット……モデル?」
「あ、カットだけじゃなくて、いろんなスタイリングできるんですけど。つまり、あなたの髪でお試しさせてもらえませんかってこと」

 そう言うと、男の人はすずなの目をしっかり見てから、笑ってみせた。すずなが、あんまり黙って見つめているので、男の人は少しとまどったようだ。気をとりなおしたように、彼はおもむろに口を開いた。

「最近、美容院へ行ったのは、いつ?」
 いつだろう。仕事でおかしくなりかけたり、辞めたりで落ち着かなくなって覚えてない。すると、まるですずなの心の声が聞こえたかのように、男の人は困った顔をして言った。

「大分長いこと、行ってないんじゃないですか?」
「はい」
「それじゃあ、せっかくの髪がかわいそうだ」
「かわいそう……?」
 そんな風に思ったことなど、なかった。男の人は、少しわざとらしく指をあごに当てると、うーん、と考えてから、こう言った。
「きみの髪に、魔法をかけてあげる」
 

 店内は、大きな窓があって明るい光がいっぱいに差しこんでいた。ホールが暗い感じだったので、その落差に、一瞬目がくらんだ。所々に美しい花が飾られていて、甘いような少しむせかえるような香りがした。すずなは、大きな鏡の前の椅子に案内された。美容師の彼は、すぐ隣の回転いすに腰掛けると、すずなにたずねた。

「どんな風に、なりたい?」

 すずなと彼は、鏡の中で目が合った。
 どんな風になりたいか。そんなこと、今までただの一度も、思ったことがなかった。いや。たったさっき、思ったではないか。ふわふわで、軽やかで、柔らかく優しい感じ。あのワンピースみたいな女の子に、なりたい。
 けれど初対面の、しかも男性にそんなことを言えるはずもない。すずなは伏し目がちにやっと、小さな声でこう言った。

「クセ毛が、いやで」
 美容師さんは、ぱらぱらっとすずなの髪に触れた。無造作にときっぱなしの、乾いた髪に。
「うん」
 彼は静かにうなずいた。
「確かに、見た目よりクセ、強いかな」
 その落ち着いた優しい声に、包み込まれたような気持ちになった。

「さらさらに、なりたいんです」
 それは、勇気をふりしぼって、やっとの思いで出た言葉だった。震えて、声がかすれてしまった。あのワンピースみたいに、手に取ればさらさらと指からこぼれ落ちるような。ついでに、ツヤもあったら素晴らしい。
 彼は、じっとすずなを見つめてから、にっこり笑った。
「よかった。ちょうど、パーマか、縮毛矯正。どちらかできそうなモデルさんを探してたんだ」
 それから、すずなの髪にくしを通しながらほほ笑んだ。
「きっと、見違えるみたいになるよ」


 
「WOW」
 すずなを見たときの、俊の最初のひと言が、それだった。
「何よ、その中途ハンパな英語のリアクションは」
 照れかくしに、眉をひそめて言ってみたが、こらえきれず先に吹き出してしまったのはすずなの方だった。この変身をだれかに見せたくて、結局向かったのは俊のアパートだった。二日間の空白も、繁華街で偶然会ったあの女の子のことも、まるでなかったかのように吹き飛んでしまった。

「……カツラじゃないよな」
「バカ」
 そう言って、ウフフ、と笑った。何だか、笑い方まで変わってしまったみたいな気がする。
「まるで別人だな」
「後ろ姿見ても、わたしって気づかないでしょ」
 得意気になっていうと、俊は、たぶん気づかず通り過ぎるな、といじわるそうに笑い返した。でも、前よりずっといいでしょう、と歌うように言うと、俊はこちらを振り向かないで言った。おれは、今までのすずなも好きだけどな。髪がパサパサっと風に踊って、さっぱりしてて。

 
 その美容室で働くようになるまで、そう時間はかからなかった。すずなはアルバイトとして雇われた。
 すずなに魔法をかけてくれた店長の麻里也さん。それから、アシスタントで二十歳の千絵ちゃん、美容師でしっとりした大人の女性、奏苗(かなえ)さん。その三人が、美容室のメンバーだった。すずなも、そこに加わらせてもらったのだった。
 焼き肉屋のアルバイト、保育補助と職を移ってきたが、これほど〝メンバー〟と呼びたくなる親密な関係は、初めてだった。店長の麻里也さんは穏やかで誰にでも優しく、紳士的だった。おっちょこちょいの千絵ちゃんや、不慣れなすずなが失敗しても、決して声を荒げることなく、少しのユーモアを交えて教えてくれる。
 アシスタントの千絵ちゃんは、まっ黒なストレートヘアだ。ボブカットにしていて、一部にスッとメッシュを入れている。そして気分によって色を変えている。
「今度は、緑色でお願いします」
「え、ピンク、もう飽きちゃった?」
 閉店後の片づけをしながら、店長が千絵ちゃんの方を振り返る。
「いやされたくて」
 棒読みのように言って、むすっとしている千絵ちゃん。どんなに不機嫌そうにしても、さほど重たく見えないのは、彼女が持っている根の明るさからくるものなんだろう。
「何かあったの」
「それは聞かない」
 そう言って、お客さん用の椅子に深々と座った。
「奏苗さん、お願いします」
「はいはい」

 奏苗さんはケープを広げて千絵ちゃんの首にふわっとかける。少し、鼻にかかった声。奏苗さんは、一見とっつきにくそうな雰囲気の女性だけど、さらりとしていて実は優しい。温度の低い温かさを持っている女性だ。でも、怒るとコワい。失敗した時は、店長よりむしろ奏苗さんに怒られることが多い。怒るといっても、それは決してヒステリックなものではなく、厳しくたしなめる、といった感じ。
 雪国の生まれだからね、彼女は。何かの拍子で、奏苗さんの話題が出たとき、店長の麻里也さんはそう言って笑った。怒りも冷たいんだよ。それを小耳にはさんだ奏苗さんは、雪女みたいに言わないでください、とぴしゃりと言い返したが、目元は笑っていた。
 
「すずなちゃんは、どこの出身?」
 歓迎会で初めてみんなとご飯を食べに行ったとき、そう聞かれてどきっとした。心の準備がなかったので、
「あ、えっと、関東」
 と、ひどく広範囲かつぼんやりとした答えをしてしまった。
一瞬、瀬戸内海の島が頭に浮かんだが、即座にそれをもみ消している自分がいた。島の施設で育ったことを隠す習慣は、まだずっとすずなの中で続いていた。

「えー、関東って、どこ? まさか東京とか?」
 身を乗り出した千絵ちゃんにおされて、すずなは困った。
「うーん、もうちょっと手前……かな」
 あいまいに答えると、千絵ちゃんはふーん、と言ってお酒をぐい、と飲んだ。
「あたしはずっとココ。家族もおばあちゃんも一緒に住んでる」
 あぁ、そんな感じ、すずなは心の中で納得した。
千絵ちゃんからは、日常生活の温かさと確かさが、そこここからにじみでている。もう、お弁当にかぼちゃ入れないで、って言ったのに、とぶつぶつ言いながら、お母さんの手づくり弁当を隠すようにして食べたりする姿も、どこかほほえましい。
「俺もずっとここだな」
 麻里也店長が言うと、すかさず千絵ちゃんが横からツッコんだ。

「そ、神戸生まれ神戸育ちのおぼっちゃま」
「そんなことないよ」
「だって、有名な私立中高出身じゃないですか」
「はるか昔の経歴出すなぁ」
 そう言って、麻里也さんは笑った。

 育った環境がまるで違うんだな。
レモンスカッシュをちびちびと飲みながら、すずなは思った。
優しくて、親しげ。でも、何か時おり壁を感じる。
ぼんやりとしていた違和感の正体が突然はっきりして、すずなはうつむいた。麻里也さんは、すずながおよそ今まで出会ったことのない種類の人だった。居場所を探して、逃げてきて。そんな自分の道程には、決して交わらない道を歩んできたひと。優雅に、日の当たる明るい道を歩んできたひと。
 居酒屋の明るい照明の下で笑う麻里也さんが、スクリーンの向こう側の人みたいに見えた。
 

「すずなちゃん、美容師、目指さない?」
 そう言われたのは、アルバイトを始めてから半年ほど経った頃だった。すずなは閉店後の店の床を掃いていた。え、と声にならないほどの声と共に振り返ると、麻里也さんが売り上げの計算をする手を止めて、すずなの方を見ていた。
「きみ、器用だしさ、観察眼っていうのかなぁ、人とかものを見る目、ありそうだし」
 自分の、どこを見てそう思ってくれたんだろう。まるで分からなかった。そんな風に評価されたのも、初めてだった。

「できますかねー、わたしなんかに」
 そう言って、ほうきを持つ手を見つめて、握ったり開いたりしてみせた。
「すずなちゃん」
 麻里也さんは、レジ台から離れると、すずなの方へ歩んできた。

「わたしなんかに、とか言っちゃ、だめだよ」

 そして、今さっき開いたり閉じたりしていたすずなの手を一瞬だけとって、少し、見つめた。

「みんな、何かしら、魔法の手を持っている。その手で、人の人生を変えられることもあるんだよ」


 店の蛍光灯がやけにまぶしくて、全体が緑がかって見えた。ぼんやりと輪郭がにじんで見える光の中で、麻里也さんは、自分の言葉に照れたのか、不器用に笑って見せた。そして、カラーが少しついた手で鼻先をこすった。まるで、どこかアジアの片隅の店にいるみたい、と思った。その場の色も、雰囲気も。しなびて、さほど裕福でもない人たちが通う商店街の一角にある店。そして、それは今まで麻里也さんに対して抱いていたイメージとそぐわないな、と感じた。バラとか例えばイタリアとか輸入もののワイン、とか。麻里也さんに似合うもののイメージを、自分が勝手に作り上げてしまっていたようにも思った。

 本当は、ちがうのかもしれない。
 知りたいような知りたくないような、うっすらとした不安のさざ波が立って、すずなは黙りこくって下を向いた。それと同時に、同じ職種に誘われたことへの喜びが、じんわりとすずなの心の中に広がっていった。
「ま、一度、考えてみて」
 麻里也さんは、すっと身をひるがえすと、レジ台へ戻っていった。

 
「わたし、美容師、目指そうかなぁ」
 モヤシを炒めながら、すずなは大きなひとり言のように言った。
「あ?」
 ちゃぶ台を拭きながらテレビを見ていた俊は、手を止めてすずなの方へ首を向けた。
「なんか、すすめられちゃってさ。器用だし、だって」
 そう言いながら、モヤシ炒めを二つの皿に盛りつける。毎度のことだけど、モヤシが一、二本、レンジ台にこぼれる。全然、器用じゃないんだけどな。首をかしげつつ、心の中でつぶやく。

「王子様に?」
 バカにでかい声で俊が返してきた。
 王子様。その表現にかちん、ときて、すずなは口をとがらせながら皿を運ぶ。
「やめてよね、そーゆー意地悪な言い方」
 すずなは、パン、とモヤシ炒めをちゃぶ台に置いた。買ってきたチキンの照り焼きにモヤシ炒め、豆腐とオクラのみそ汁。俊と晩ごはんを食べるのは、久しぶりだ。だから、なるべくケンカは、したくないのに。そんな気持ちをこめて手を合わせて、ちらりと見ると、俊も背を丸めたまますごすごと手を合わせた。
「いただきます」
 食べ始めて少したったとき、いいんじゃね、と俊がぽそりと言った。美容師って、資格モンだろ。いいんじゃね。繰り返し言って、ごはんをかっこんだ。
 なぁんだ。ちょっとすねて怒っているのかと思ったけど。途端に心がほぐれて、すずなは言った。

「わたしね。切る人になるの。優しくだれかをいやす手を持つことができなかったから」
 俊は、だまってごはんを口に運んでいる。

「その人のいやな思い出も、過去も、この手で切り捨ててあげる。そこから、その人は生まれ変わるの。昨日よりちょっと素敵な自分になって」

 笑われるかな。ちらっと俊の方を見た。でも、彼は笑わなかった。ひどく真面目な目をしている。

「人生のリセット。そのお手伝いをしよう、と思って」
 ふうん、とも何とも言わないので、すずなは急に恥ずかしくなる。あ、でも。急に昔の記憶が呼び覚まされる。

「俊だって、言ってたじゃん。だれかの人生の再スタートをお手伝いするような仕事がいい、って」
 そんなこと、言ったっけ。俊は忘れたふりをしたけれど、それが照れ隠しだということは分かっていた。

 
 美容師になるために、勉強と特訓の日々が始まった。
 ハサミの入れ方やパーマの巻き方の技術など、マネキンを使っての実技は、主に閉店後に行われた。練習は、夜九時を過ぎる日もあり、当然アルバイト時代の時間には店を切り上げられなくなった。
 美容師を目指すに当たって、ビラ配りやモデルハントなど、店外に立つ仕事も加わり、ほぼ毎日、夜遅くなった。帰宅してからは、通信で美容師免許を取るための勉強をした。
 俊とごはんを食べることなど、ないも等しい日常へと変わっていった。
けれど、何かに夢中になるというのはそういうことだ。
すずなは、ちっとも寂しくなかった。むしろ、俊のことを、忘れかけるほどになっていた。
 それほど毎日は忙しく、充実していた。それでも保育園勤務の時とは違い、心も体もついていけた。希望が見えたからだ。一人前の美容師になって、麻里也さんと並んでお客さんの髪を切る。そのシチュエーションを想像しただけで、体の奥がくすぐったくなり、わくわくした。早くその位置に立ちたい。その希望がすずなを支えた。

 練習を終えたあと、麻里也さんと軽く食べて帰ることも増えた。そこに、甘い空気はなかったが、すずなは満足だった。むしろ、仕事帰りのひと風呂みたいな、男同士のようなノリを楽しんだ。その方が、ずっと慣れていたし、楽だったのだ。つまり、俊が麻里也さんと取って代わったようなものだったのかもしれない。

 俊。その俊は、どうしているだろう。時々、夜中近い帰り道に、ふっと彼を思い出すことがあった。そして、思い出す、という発想に、自分自身驚いた。思い出す、だなんて。過去の人みたい。今も、すぐそばに住んでいるのに。けれど、一度生活の軸がそれて進んだら最後、もう前みたいに、さりげなく一緒にいる日々は戻ってこないような気がした。気づいてしまった一抹のさびしさにふたをするように、すずなは帰り道を急ぎ、次の日の勤務に備えて最短で寝床にすべりこむことに注力するのだった。

 麻里也さんは、自分のことをほとんど話さなかった。仕事帰り、食事をしながら話すことと言えば、たいてい仕事のことで、美容師としての意識とか男性客と女性客の違い、など勤務の続きのような内容が主だった。穏やかな中にも、時々熱くなる口調を横目に、このひとは本当に美容師という仕事が好きなんだな、と思った。そんな話を聞きながら、時々、ふっと彼への個人的な疑問がわいてくる。

 麻里也さんって、結婚してるんだろうか。そんな基本的なことも、すずなは知らなかった。そして、それを聞く勇気もなかった。一度聞いたら最後、〝仕事帰りのひと風呂〟の関係は崩れてしまう。なぜだか分からないけれど、今の関係を保つんだ、保たなければ、という頑なな気持ちが働いていた。

 
 事件が起きたのは、十月も終わりごろのことだった。
 開店前の、店の電話が鳴った。美容室の名を名乗ってすずなが出ると、電話の向こうで奏苗さんが言った。

「すずなちゃん? あの、急用ができて、今日はお休みしたいんだけど」
 店長、と麻里也さんを呼んで受話器を渡したら、もう電話は切れていたようだ。ツー、ツー、という不通音が、麻里也さんの握った受話器から漏れ聞こえてきた。麻里也さんは、黙って受話器を置いた。

 その日は、秋の長雨も三日目のことで、朝、少し雨が上がったものの、開店の頃には、またしのつく雨が降り出した。
 一日も終わりを迎える頃、突然、一人の男が店内に転がるように走りこんできた。雨に濡れて、傘も持っていなかった。男は、血相を変えて店の奥にいた麻里也さんへ一直線に向かっていった。

「奏苗は。奏苗はどこだ」
 客がすべて引き払った後だったのは、幸いだった。ナイフこそ持っていなかったが、誰かを刺しそうな勢いの男に恐れおののいて、千絵ちゃんは悲鳴をあげてすずなに抱きついた。すずなは、全身が凍りついたように動けなかった。麻里也さんは、冷静かつ堂々と、男と対面した。どうやら、男は奏苗さんと同居していた元彼らしかった。その事情を、麻里也さんも知っていたのだろう。奏苗さんの行き先は自分も知らない、住所も知らない、と麻里也さんは言い通した。激しい言い争いに決着をつけたのは、麻里也さんの言葉だった。
「警察にストーカー被害を出しますよ。これ以上、彼女につきまとわないでください」
 警察、という言葉が出て、初めて男はひるんだ。それから、急に今度は別の顔になって、麻里也さんにくってかかった。
「お前、奏苗の何なんだ」
 麻里也さんは、ひとつ深く呼吸をすると、顔色一つ変えずに答えた。
「上司です。それから、仲間だ」

 
「びっくりしたね」
 スペイン居酒屋でムール貝をつまみながら、麻里也さんが言った。
 まだ、どこか心臓がばくばくしていた。殺気だった男の顔がちらついて、無意識のうちに指先が震えている。すっかりおびえてしまった千絵ちゃんとすずなを気遣って、麻里也さんが軽く食事に行こう、と誘ってくれた。奏苗さんは、今頃どこでどうしているのだろう。あの優しい鼻にかかった声を思い出すと、もう彼女には会えないんじゃないかと思えて急に悲しくなった。

「大丈夫。奏苗さんは戻ってくるよ」
 そんなすずなの心を見透かしたように、麻里也さんが言った。
「でも、同棲してたのは知ってたけど、奏苗さんがあんな男につかまってたなんて」
 千絵ちゃんは今にも泣きだしそうな顔でうつむいた。
「店長は知ってたんですか」
 麻里也さんは、それには直接答えずに、ワインを口に運んだ。
「引っ越した、とは聞いてた」
 きっと、多くを聞かなくても、奏苗さんの様子から何か事情がありそうだと分かったのだろう。
 千絵ちゃんが大きくため息をついた。
「仕事もできて、一緒に暮らすような彼氏もいて、奏苗さんは私にとって完璧な憧れのひとだったのに」
 そういう千絵ちゃんに麻里也さんが返した。
「完璧なんて人はこの世にいないよ」
「でも、じゃあ奏苗さんは男を見る目がなかったってことですか」
「うん、まぁ……」
 さすがに困って、麻里也さんは言葉につまった。
「彼が全面的に悪い人間かどうかは分からないけど……支配的な関係を強いられるのなら、逃げるべきだ」
 未だ、男女としての深い関係を結んだことがないすずなは(おそらく千絵ちゃんも)、神妙な顔をしてとして麻里也さんを見た。
「いいかい。二人とも、ちゃんと公平な関係でいられる相手を選ぶこと‼」
 まるで何かの講義をしめるかのように、麻里也さんが言ったので、二人ともピン、と背筋を伸ばして、はい、と口々に返事した。

 ひとりで帰るのが何だかこわい、というので、千絵ちゃんを家まで送っていくことになった。三人並んで繁華街を歩く。話という話もしないまま、千絵ちゃんの家に着いた。昔ながらの一軒家で、台所と思われる小さな窓から温かい色の灯が見える。今日はどうもありがとうございました、と丁寧に頭を下げて、千絵ちゃんは玄関の中へ消えていった。
「さ、行こうか」
 そこで別れるのかと思ったら、麻里也さんは、すずなも家まで送っていく、と言う。え、悪いですよ、と断ろうとすると、それは公平じゃないからなぁ、と言ってわざと気難しい顔をしたので笑ってしまった。麻里也さん。マリア。今日の麻里也さんのすべての行動、そして言動に対する感動が今さらながらじわじわと胸に広がってきた。

「麻里也さんて、マリア様みたい」
 麻里也。最初名前を聞いたとき、何だか、島にいたころ慣れ親しんだマリア様にも似た響きを持つ名だなぁ、とぼんやり思っていたのだ。彼は一瞬目を丸くしたのち、爆笑した。そして、ちょっとうつむいてから、こう言った。
「そんな風にいわれるのなら、この名前も悪くないな」
「麻里也さん、って名前、どうしてつけられたんですか?」
 麻里也さんは、少し首をかしげてすずなを見ると、すずなちゃん、ヘンな質問するね、と言ってから、前に向き直って言った。母が、つけたんだ。キリスト教徒でね。続きがあるのか、と思ったが、麻里也さんはそのまま口をつぐんだ。何か、いけないことを聞いてしまったのかもしれない。そのあとの彼の横顔が妙にしん、としたものに見えたから。すずなは酔いが覚めるような心持ちがした。
「いい名前ですね」
 フォローしたつもりで言ったのだが、逆効果だったようだ。だって、男なのに麻里也ってどーよ。少し自嘲気味に笑って、そのあと、しばらく沈黙が続いた。少しだけ、麻里也さんの仄暗い部分に触れた気がした。すずなは、それ以上何かを思うことをやめて、下を向いた。

 雨上がりの夜は、やわらかい匂いがした。街灯や町の灯りが、所々の水たまりに光って、足元も周りも光に包まれているように目に映った。こわいこともあったけどすべてが帳消しになるような光景に思えた。マリア様の名を口にしたことで、すずなは昔、といってもさほど遠くない前、島で守られていた頃の気持ちを思い出した。やわらかい光に包まれていた礼拝堂。温かい食卓。わたしは、そんな所で育ったんだ。麻里也さんのお母さんも、キリスト教徒だといった。自分の過去を打ち明けてしまいたい。たぶん、麻里也さんなら、受け入れてくれるだろう。気持ちが大きくふくらんだそのとき、すずなは意外な告白を聞いた。

「おれ、昔、いじめられてたんだよね」

 聞きまちがいかと思った。

 周りの灯りが、一段、暗くなったように感じた。繁華街を抜けたからかもしれない。にぎやかな通りを抜けて、やっとここで息ができる、とでもいうように、麻里也さんはゆっくりと長いため息を漏らした。

「くるくるパーマのくせっ毛で。おまけに麻里也なんていう名前のせいで」
 きっと、美少年だっただろう小さな子どもの麻里也さんが、黙って大きな目にいっぱい涙をためて耐えている。そんな姿が頭に浮かんで、すずなは思わず目を閉じた。
「女みたい、って」
 どれだけ探しても、フォローの言葉は見つからなかった。
「それで、必死に勉強して、みんなが行かない私立の中学校へ行った」

 千絵ちゃんが麻里也さんの経歴に触れたとき、話題をそらすように受け流したことを覚えている。誇りでも謙遜でもなく、隠したかった本当の理由。耐えがたい場から逃げ出すための理由が、そこにはあったのだ。

「どうしてだろう」
 突然、本当に突然、立ち止まって麻里也さんは言った。
「今まで、人に言ったことがないのに。君には言っちゃった」

 ほとんど、独り言のようなつぶやきだった。再び歩き出す麻里也さんの背中を、すずなは穴が開くほど見つめた。
麻里也さんの波うった茶色い髪が、横に流されて、荒野に吹かれる枯れ草のように固まったまま細かく震えていた。いつもの美しい立ち姿がうそのように、うらぶれて見えた。
 何かが、自分の中で音もなくはらはらと散っていくのが分かった。すずなは、思わず顔を覆った。
 聞かなければよかった。
 どうして、麻里也さんは、わたしにそんなこと言ったのだろう。何も知らなければ、このままずっと、あこがれの人でいられたのに。聞かなければよかった。かっこつけたい相手には、そんな告白はしないだろう。自分の弱い過去をみせるということは、女として意識されていない証拠だ。

 自分の過去を打ち明けてみたら。そう思えるほど、心を許しかけていたのに、ふいに扉を閉ざされてしまった。彼の暗い過去という重たい鉄の扉で。人当たりはいいのに、麻里也さんが何となくプライベートでは人を寄せつけない真の理由に触れた気がして、胸の奥は暗くざわざわした。

 もう、聞かなくても分かる。彼もひとりぼっちに違いない。
 

                            ©Ai Shimizu

【1】から読む
【12】へもどる                 【14】へつづく

#創作大賞2025 #恋愛小説部門


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
コメントなどで感想いただけたら、嬉しいです。

いいなと思ったら応援しよう!

清水愛 読んでくださって、本当にありがとうございます! 感想など、お気軽にコメントください(^^)お待ちしています!