きみたちがまだ知らないこと【12】2025創作大賞 #恋愛小説部門
第三章 魔法の手
ひたひたと、水をたたえた干潟。
あの夏の朝から、すずなの中には、ずっと干潟の気分というのが続いている。
毎日行くところを失った。けれど、すずなの中には、焦りや絶望感みたいなものが湧いてこなかった。
もちろん、わたしは今、こんなところで何してるんだろう、とぽつん、と思うことはあった。そんなとき、目をつぶって深呼吸をする。すると、あの潮に満ちた広い干潟が目に浮かぶ。今日も、海は毎日静かに満ちたり、引いたりしているのだ。だれかが足でかきまぜても、その跡をすーっとならして。自分にも、そういう風に波というものがあるのかもしれない。そして、今は自然に任せてただ癒されていくのを待つときなんだ。
思えば、ずっと必死に何かから逃げ続けていた気がする。眼を見開いて、探し続けていた気も。裸足で立っていた島の足の感触を思い出す。決して、いやじゃなかった泥の触感。同じように泥に足を浸して立っていた、俊の足。
干潟の夢も見た。
夢の中で、すずなは小さな子どもだった。遠くに、お父さんとお母さんがいた。時おりふく風が強くて、お父さんのポロシャツのえりが音もなく風に立ったりしていた。お母さんは、ふちにレースのついた白い日傘を差していた。ふたりの影が、ぬるくなった干潟に落ちていた。こっちよ、とお母さんが呼んだ。早くおいで、とお父さんが笑った。すずなは、そちらへ向かって駆け出そうとした。けれど、潮がどんどん満ちてきて、足はすっぽり泥にはまって動けない。
お父さんとお母さんは、にこにこしながら、どんどん遠ざかり、しまいにはその姿は消えてしまった。すずなは、二人を呼んで泣いた。けれど、干潟には、熱い風が吹き抜けるばかりで、すずなはひとりぽっちで干潟の真ん中に立っていた。遠くに灯台が見えた。二人は、星のように遠い所へ、行ってしまった。
そこで目が覚めた。
甘いような悲しいような妙な夢だった。ひどく孤独な気がしたのに、最後に目にした灯台だけが、かすかな希望の余韻を心に残した。
お父さん、お母さんはどうしているんだろうな。
なかなか起きだせない布団の中で、久しぶりに、自分の人生から遠のいてしまった父と母のことを思った。このまま、起きたくない気がした。危険、そう思ったとき、スマホが鳴った。
俊のモーニングコールだった。すずなが仕事を辞めてから、毎日かかってくる。俊の朝は、すずなより一歩も二歩も早く始まっていて、その規則正しい健やかさが、すずなを助けた。おはよ、と俊の声が言った。助かった、と思わずすずなはつぶやく。何が? 電話の向こうで、俊がおかしそうに言った。そのまま泥にのまれるとこだったよ、と言うと、またヘンな夢見たのか、と軽く鼻で笑って、さっさと顔洗えよ、と言う。こういう軽さが、すずなを日常へと呼び戻す。わかりましたよー、だ。見えていないけれど、ベロをべーっと出す。すずなの朝も、動き出す。
一人での朝ごはんは、たいてい卵かけご飯が多い。そのあと、晴れている日は近所を散歩する。マラソンしている人とすれ違ったり、犬の散歩をしている人とすれ違うだけで、一日が動き出す気がする。
朝一の図書館に寄ることもある。本を読むということを、これまであまりしてこなかった。島には図書館はなかったし、施設の図書コーナーも小さなもので、絵本や児童書が中心だった。すずながまず手にとったのは、写真集や画集だった。字が多い小説などは、読み通せる自信がなくて、手にとる気にならなかった。外国の風景、日本の城、路地裏ばかりとったモノクローム。それらを見ているだけで、どこか行ったことのない世界を旅している気分になれた。
「また脳内旅行してたの?」
仕事から帰ってきて、俊はたいていすずなのアパートに立ち寄る。夕ご飯は、すずなが作るときもあるし、俊が作るときもある。俊の仕事の移動先が遠いときは、たいていすずなが作った。肉と野菜の炒め物とか、親子丼とか。俊は、圧倒的にラーメンが多かった。
「またラーメン?」
少々あきれて言うと、トッピングが違うんだよ、と得意気に言う。そのトッピングは、ちくわ、卵、キャベツ、もしくはもやし、のローテーションだった。
ほとんど毎日、一緒に夕ご飯を食べるのに、俊は決してすずなのところへ泊っていったりしなかった。泊っていくどころか、食後、ゆっくりすることもほとんどなかった。なるべく距離をとろうと気を遣っている様だった。何かのタイミングで、一緒にキッチンに並びそうになると、ふい、と途中でテーブルをふきに行ったり、トイレに向かったりした。それも、ごくさり気なく。
まるで、磁石のマイナスとマイナスのように、同質でありながら、密かに身体は反発し合ってるみたいだった。俊が来ると、すずなは大抵、窓を開けた。外の空気を入れるように。窓を閉めていると、密室にふたりの空気が充満してしまい、息苦しくなるような気がした。狭いアパートは、俊の匂いでいっぱいになってしまう。それを薄めるために、外の空気を入れるのだ。町ですれ違う、普通の人同士のように。ちょっと、心を許せるけれど親密すぎないように。
きっと、俊もそれを分かっていて、いたたまれなくなって部屋をあとにするのだろう。俊が出ていったあと、一抹の寂しさを感じながらも、どこかほっとする。今日も近づき過ぎなかったことに。これで、明日もあさっても、わたしたちは安定して同士でいられる。
俊が休みの日には、よく港まで散歩した。海岸までは遠かったが、新しい店に立ち寄ってひやかしたり、買い食いしたりした。散歩のバリエーションが多いのが、二人の気に入った。
「あの船はどこへ行くんだろう」
遠くに、巨大な黒い建物のような貨物船が見えた。
「アフリカには行かねえだろうな」
俊が言うので、すずなはちょっとムキになって、分かんないよ、と言い返した。言い返しながら、いつかアフリカへ行ってみたい、と言ったことを、覚えてたんだ、と内心驚いた。
その帰りに、偶然にもアフリカのお面ばかりを売っているお店を見つけたときには、思わず、あっと二人で顔を見合わせてしまった。ショーウインドウの向こうには、おそろしく顔の長い面や、白く刺青の入った目の細い面が、ずらりと並んでこっちを見ていた。ほらね、あるじゃん! あれはみんなアフリカから船に乗ってきたんだ、きっと、と言ったら、俊は、ああいうのを見たかったのか! と言ってゲラゲラ笑ったので、ちがう、と反論した。
砂漠にあこがれていたのだ。さらさらと波打つ砂漠。
それは、泥と違ってまとわりつかない。風によって美しい模様を描き出す砂漠があることを、すずなはどこかの写真で見て知っていた。
また、小学生か中学生のころ読んだ「星の王子さま」の風景も淡い印象と共に心に残っていた。
けれど、小さな子どもの頃からずうっとすずなの心をつかんでいたのは、真っ赤な朝日だった。テレビでアフリカを舞台にしたミュージカルのCMを見て、その太陽の鮮やかさに、すっかり魅了されてしまったのだ。もっとも、それは本物の太陽ではない。けれど、本物を想起させる迫力があった。
同じ太陽でも、あんな風に見える場所があるのだ。あんな朝日を、自分もこの目で見てみたい。そう思った。そして、そう思うとき、ほのかにすずなの頭をかすめるのが、俊と抜け出したときに目にした朝日だった。
あそこから、自分は始まったんだ。
そこからずい分いろんなことがあっても、何かそこが自分の出発点だ、と思うことで、少し勇気が持てた。あの景色の美しさと、駆け抜けた朝。自分の体にみなぎっていた生命力。そして前を駆けていく俊の背中。
ふと前を見ると、そのときよりずい分大きくなった俊の背中に、夕日が当たっている。振り返ると、港の向こうにオレンジ色の夕日が少しつぶれてにじんでいた。
ここでみる夕日も、悪くないな。
立ち止まっていると、大分進んだ俊が振り返った。
「おーい、置いていくぞ」
穏やかに、幸せだった。
そういう何でもない日々が、ずっと続くのだ、とぼんやり思っていた。しかし、二人の間に一つの波紋が投げかけられた。
ちょうど、心も身体も大分落ち着いてきていて、そろそろ働かなくちゃ、と思い始めていた頃だった。俊が休みの日の夜だった。すずなと俊は、繁華街の裏通りにある安い食堂で外食をした。帰り道に突然、俊が、ちょっと回り道をしていこう、と言った。あまりに唐突で、何かぎこちない声色に聞こえて、俊の顔を見た。
「いや、ほら、あっち曲がったコンビニに、別のアルバイト情報誌とかあるかな、と思って」
「そんなの、日中に自分で探すからいいよ」
怪訝そうに俊の顔を見ると、彼ははっとした顔をして歩みを止めた。それと同時に、あ、という甲高い女の子の声が耳に届いた。俊は、咄嗟に近くにあったスナックの看板の陰に身を隠した。とはいっても、看板は低く、とても隠れたとは言えなかったが。女の子は、ずかずかとこちらへ歩み寄ってきた。頭にうさぎの耳をつけている。メイドのような水色のフリフリのミニスカートを身に着けて、手にはうさぎのぬいぐるみ。
「隠れるなんて、ずるーい」
アニメから飛び出てきたみたいな女の子だな。そう思った。俊は、えーっと、と言ってわざとらしく頭をかいてから、観念したように、こんちわ、と言った。女の子は、ちょっとむすっとした顔をして俊とすずなを見比べると、なんだ、と言った。
そのあとの帰り道の気まずさといったらなかった。胸がどきどきしていた。すずなは、短い一瞬の出来事を頭の中で思い巡らせた。自分が、なぜどきどきしなくちゃならないのか、すぐに分からず、でもその理由を探ろうとした。あの子は、なんだ、と言った。ただひと言。すごく、不機嫌そうに。あれは嫉妬の顔だ。もしかして、わたし、嫉妬されてる? いや、嫉妬されているのは、わたしじゃなく、俊だろう。すずなは、恐る恐る隣の俊の顔を見た。俊は、むっつりと黙りこんでいる。視線を感じたのか、心なしか早足になった。
「あの子」
俊に歩調を合わせながら、すずなは言った。
「俊に気があるね、たぶん」
俊は、ぴたっと止まって、すずなを見た。
「んなわけ、ねぇだろ」
怒ったことで、余計、確信に変わった。もう、間違いない。
「ね、だれ? あれ。ヘンな耳つけてたけど。まさか、風俗?」
最後のひと言は余分だ、と思った。けれど、そう思ったのは口から出てしまったあとだった。
「お前には関係ないだろ」
俊は、そのまま足を速めると、ずんずん先を行ってしまった。
そうか。
肩をいからせて歩く俊の背中を見つめて、すずなは口角を少しあげた。
そういう日が、来るんだな。
急に、俊が遠く感じた。
そうか、そうか。
ひとり港へ来て、海を眺める。今日は、俊は一緒じゃなかった。あの日から、何となくケンカしたみたいな空気になってしまい、お互い連絡を取っていなかった。といっても、それはたった二日くらいのことだったのだけれど。たった二日だけど、俊が出入りしないすずなの生活は、しん、としたものに感じられた。風にふかれて海を見ていても、ぼんやりかすんで見えた。なんだか、自分だけ急に年をとってしまったみたい。コンクリートの壁に腰掛けて、すずなは思った。
近くのベンチに、女子大生だろうか、二人連れの女の子たちが座って、きゃっきゃと笑いながらアイスクリームを食べている。俊が、あの子と二人並んで、繁華街へと消えていく。目を閉じなくても、そんな光景が浮かんできて、振り払うことができなかった。そっと、手を青空に伸ばしてみた。
手に入れるものなんて。
ひとり、心の中でつぶやいた。
そもそも、手が届かないよ。
量販店で買ったジーパンとトレーナー。そんなものしか身に着けたことのないすずなにとって、カップルで誰かと歩くことどころか、同年代の女の子たちとはしゃぐことさえ、遠い世界のことに思えた。カップル。カップルかぁ。あの子には、わたしと俊はどう見えたんだろう。そんな風に見えたんだろうか。
いや、ちがう。
帰路につく道の真ん中で、すずなははた、と立ち止まる。
なんだ。そのレベルなら、わたしの方が上よ。
発せられなかった続きの言葉が閃光のようにひらめいた。だってあの子は、むすっとして、でも決して負けない、という闘志の目をしていたではないか。
それは、今になって効いてきた毒のようだった。
嫉妬されている、と一瞬でも思ったのはあるはずのない優越感からだったのではなかったか。いつも一緒に過ごしているのは、自分だから。けれどあの子は、ちっともしょんぼりした顔などしていなかったではないか。むしろ、瞬時に自分を見下したのかもしれない。
女の子としての勝負には、勝った、と。
すずなは、すっかり当てられた気分に陥って、ふらふらと街を歩いた。
何か。髪でも、ファッションでもいい、自分に何か、女の子として誇れるものがあったら、よかった。
魂を抜かれた幽霊のように、ふらふらと道を行くすずなの目の端で、何かが揺れた。
それは、アンティークなビルのショーウインドウに飾られた、細かい花柄のワンピースだった。それは、控えめで、ぱっと見、地味な感じがした。けれど、そのときのすずなの心境には、何かささやきかけるものがあった。そのまま、そのワンピースに導かれるように店に入った。
たとえば、豪華なバラよりも、かすみ草や野菊が好きなひともいるように。そのお店に置かれている服も靴も小物も、さりげない上品さがあった。数は多くないのだけれど、一つ一つ丁寧に並べられて、誰かが手に取ってくれるのを静かに待っている。そんな感じだった。店内には、かすかにヴァイオリンのメロディが流れていて、そこに置かれている服たちと調和しているように感じた。すずなは、静かに歩を進めると、ウィンドウに飾られているワンピースのところまで行った。目的のものを目指して進むのではなく、まるでひっそり会いに行く、みたいな胸の高鳴りを感じた。そっとワンピースのすそを手ですくい上げると、さらさらと砂のように手からこぼれ落ちた。
「ご試着できますよ」
鈴の鳴るような声に、はっと振り向いた。小柄でゆるやかなパーマの店員さんがにっこり笑っていた。
「いえ、ちょっと見ていただけなんで」
店員さんは、それ以上すすめてくることはなく、静かにその場をはなれた。
あんなだったら、よかったのに。
すずなはうつむいて店から出た。
あのワンピースみたいに、軽やかで、ふわふわしていて、華美ではなくとも、しっとり優しくて。あのワンピースが似合うのは、きっとそんな女の子だろう。
そういう風に生まれていたら、よかった。自分とはあまりに違いすぎる。ただそのことに、すずなは傷ついた。自分が育ってきたどの瞬間にも、そんな風に扱われた優しい気配などなかった。
呼び止められたのは、まさにその時、すずながそのレトロな建物から一歩外に出ようという時だった。
「ちょっと、きみ」
声は、上から降ってきた。
©Ai Shimizu
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