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きみたちがまだ知らないこと【11】2025創作大賞 #恋愛小説部門

 どうして、あんなこと、したのかしら。

「園長先生にそう言われて、結局、自分は何も言えなかったんだ」
 フライパンの野菜を炒めながら、ひとりごとのように、背中の俊に語りかけた。
 すずなが帰り着くと、ドアの前に俊が座り込んでスマホをいじっていた。どしたの? とこちらが声をかけて初めて顔をあげた。まるで、さも待ってたわけじゃないけどな、と言わんばかりの態度で。言葉少なに、たまたま今日は早く上がったから、と言って、モヤシと肉の入ったビニール袋を突き出してきた。

 どうして、あんなことしたんだろう。
 自分に問うてみる。守りたかった? いや、そんなにたいそうなものじゃない。恐怖で凍りついていた、あの小さな女の子。そう。あの瞬間、自分は無理やり脱がされたあの子になっていた。あの子の本能的な恐怖が、すずなに咄嗟の行動をとらせたのだ。他人の強引な手によって犯されたような恐怖。言葉にすると、それは大げさだ。けれど、あの恐怖は、言葉にならずにあの子の中に長くとどまるだろう。きっと、少女になっても、大人になっても。

「脱ぎたくない子も、いると思うんだよね。どうして、そうやって園長先生に言えなかったんだろう」
 するとそれまで黙って聞いていた俊が、口を開いた。
「分かってもらえない、と思ったからじゃね?」

 子どもにはね、裸の教育ってものが大切なのよ。この、五官で目いっぱい感じる時期にね。明るいお日様のもとで裸になって思い切りかけまわりましょう。自信たっぷりにそう話していた園長先生。子どもたちは、いつも強い力の元に置かれる。ちりぢりに駆け回っていた子どもたち。それはあるものにとっては、歓喜であり、あるものにとっては恐怖でしかないのだろう。脱がされて、水をかけられて恐怖で固まっていたあの女の子。思わず抱きしめていた。

 かつて、そのような子を見たのではなかったか。その発見に、すずなの心臓はひそかにどきっとした。そっと、後ろを振り返る。俊は、さして会話の続きを気にするふうでもなく、漫画雑誌をめくっている。

「どうしてか、わたし」
 その続きを言っていいものか、一瞬、ためらった。でも、言っていた。
「昔いた施設のこと、思い出しちゃった」
 ぺらぺらと漫画をめくっていた俊の手が止まった。彼は、ぽそっと言った。

「そんな保育園、やめちゃえ」
 

 それから、すずなは、だんだん動けなくなっていった。最初に心が。そして、体が。心では、行きたくないと思っている。でも体は行かなくては、と出ていく。それが、だんだん体も行けない、になってきた。朝起きると、頭痛がしたり、吐き気がするようになってきた。遅刻や欠勤が増えてきて、ついには、しばらく休むことになった。
 保育園から、時々電話がきた。最初は必ず出ていた電話も、出たり出なかったりするようになった。
 ベッドに入って横になっている。寝ても寝ても、まだ起き上がれない。また、電話が鳴っている。

 ある夜、電話がなった。こんな時間に、職場からかかってくるはずはない。俊かと思って、着信を見た。光の島 子ども園。即座に出た。

「すずなちゃん?」
 なつかしい園長先生の温かい声。
「先生……」
「元気に、してる?」

 ううん、と首を横に振った。見えるはずはないのに、先生には見えたみたいだ。電話の向こうのほっとした息づかいが、それを伝えている。

「ちょっと、疲れちゃった?」
 声にならないくらいの、小さい声で、うん、と言った。でも、どうして。そう問うと、俊ちゃんと電話したときにね、ちょっと聞いて。と、先生は言った。

「すずなちゃん、がんばり屋さんだから」
 激しく、かぶりを振った。そんなんじゃない。がんばろうとしても、全然、がんばれないのだ。
「具合が悪いときは、まずゆっくり休むこと」
 休んでるよ。休んでるけど、問題は、そこにあるんじゃない。
 それは、きっと、休んでも治るものじゃない。


 すずなちゃんは、泣かないのね。いつか、先生にそう言われた。それはうららかな春の日で、目の前の畑には一面のれんげが揺れていた。園の子たちとお散歩に来ていて、みんなが三々五々、れんげ畑の中に散っていったあとだった。
 なぜ、そのタイミングで先生はそんなことを言ったのだろう。
目の前に広がる陽気な原っぱの風景とそれは、何だか似つかわしくなく、それでいて、その場面はそっとつんだ不格好な四葉のクローバーの押し花みたいに、しっかりとすずなの心に刻み込まれて、忘れたころに開いた本からぱらり、とこぼれ出るように、たびたび記憶にのぼるのだった。


 そうだ。わたしは、声をあげて思い切り泣いたことがない。
 電話の向こうの先生の声を聞いて、なぜかその光景がぼんやり浮かんできた。
「すずなちゃん」
 先生は言った。
「自分に、うそをついちゃだめよ」
 耳の奥で、鼓膜が震えたような気がした。
「どういう道を選んでも」
 これが最後、というように、先生は言った。
「自分の心に、正直に」
 

 二日後の早朝、すずなのアパートのインターホンが鳴り、激しくドアをたたく音がした。びっくりして穴をのぞくと、キャップを深くかぶった男が立っている。ひっ、とドアに背をぴったりくっつけると、おれだよ、おれ、と聞き慣れた声が新聞受けから漏れてきた。俊だ。……何? と新聞受けから、そっと声をかけると、俊は腰をかがめて新聞受けからささやいた。

「朝早く、ごめんな。連れてってやりたいところがあって」
 面食らって、え、と言ってから、今から? と聞き返す。うん、今から。まるで、忍びの者が話すように、新聞受けの向こうから俊は答えた。

「ちょっと遠いから、すぐ準備して。出かけよう」

 何も見えていなかった目が、急に開かれた気がした。
「うん」
 今まで忘れていたような、少し明るい返事が転がり出た。まるで何かつまっていた石が外に飛び出すように。

 この高揚感は、覚えがある。そそくさと顔を洗い、身支度をしながら、思い出す。ここを抜け出そう、そう言ってくれたのは、まぎれもなく、今そのドアの向こうに立っている俊だった。あのときも、まだ町が目覚めていない朝だった。薄青くて透明な朝だった。

「これ。会社の車、借りてきた」
 白い箱型の軽自動車を指さして、俊は言った。薄青い世界の中で、白いやえ歯が光った。


 夜明けのドライブは、静かに始まった。行き交う車はほとんどなくて、見慣れているはずの町なのに、どこか現実の世界じゃないみたいだった。そもそも、こうして俊が運転する車の助手席に乗っていることが、現実味を欠いていた。まだ免許も取り立てなのに、ずい分自信ありげな顔をしている。いつの間に、この子はこんなに大きくなったんだろう。
 体を使って仕事して、知らぬ間に免許まで取って、車まで手配して。もう、一人でもどこへだって行けるじゃないか。

 その言葉が胸に浮かんだとき、鼻の奥がツンとした。きっと、俊は、わたしを追い越して行ってしまうだろう。風に乗って、どこへでも。
 俊が、車のウィンドウを開けた。まだ夜明け前の冷たさを含んだ風が、車内に吹き込んできて、すずなの髪を巻き上げた。
 いつか、彼が自分を追い越して行ってしまっても――。
 すずなは、助手席から少し身を乗り出した。今は、こうして一緒に走っている。わたしたちは、こうやって、いくつもの夜を越えてきたのだ。

 
 連れて行ってやりたいところ、というのはだだっ広い干潟だった。
俊は、海側に突き出た空き地に車を止めた。そして、果てしなく広がる干潟を前に、ここ、と言って歯を見せて笑った。
窓からは、ほんのり潮の匂いが流れ込んできた。二人して外に出ると、朝日がちょうど昇り始めたところだった。
 どちらから言うともなく、遠浅の海へ下りて行った。
空と海の境目は、雲がたなびいてうす紫とピンクのあいだのような色をしている。どこまでも広がる大きな干潟。浅い潮の中に、砂の島がいくつもいくつも続いている。そのふちは海に溶けるようににじんでいる。
 裸足になって、その上を歩いてみる。ぴたぴたと、足の裏に海水をたっぷり含んだ砂が吸いついてくる。それは、とても心地よかった。
素足で、どこまでも歩いていけそうだった。おーい、と呼ばれるまで、自分がどれだけ遠くまで来たか、気づかなかった。
 振り返ると、くつをおいてきた海岸ははるか遠く、小さく見えた。島のかたちが現れては消える、不思議な遠浅の海の中で、すずなはひとりたたずんでいた。

「どこまで行っちゃうつもりだよ」
 追いついてきて、そう言って笑った俊に、すずなは笑い返した。
「どこまでも」
 二人は、ゆるやかで小さな島に立っていた。そのふちは、だんだん広がっていくようだった。すずなは、海の方を見て、目を細めた。潮が、ひいているのだ。

「わたし、仕事辞めるわ」

 俊は、ただ、そうか、と言った。
 まるで潮がひくように、自然に受け入れられたような気がした。その朝の空気が、世界全体が、何かすずなには優しいものに見えた。


 帰りの車から町を眺める。日がすっかり昇ってしまった町は、何の変哲もなく見えた。出勤する人たち。集団で道を渡る子どもたち。けれど、大きな景色の中で、ひとつの決断を下したすずなの目には、それらは何か違って映った。いつもより、きらきらして見えた。それと同時に、何かを失ったようにも、すずなは感じていた。すっきりとした代わりに、失ったもの。それは、自分が好きだ、と思い込んでいたものだった。

「わたし」
 前を見たまま、すずなは口を開いた。
「わたし、ほんとはそんなに子ども、好きじゃない、みたい」
 好きじゃない。そのひと言を言ったら、急に胸のつかえがとれたかのように楽になった。
「それから」
 すずなは、うつむいて、自分の左手をそっと右手で包んだ。

「わたしが赤ちゃんにやさしく触れられなかったのは」
 やさしく触れられたことがないからかもしれない。

 そう、言おうと思った。けれど、何かがそれを言うことを、止めさせた。それが何かは、分からないけれど。黙って聞いていた俊は、急にアクセルを踏むと、左車線の道沿いにあったチェーン店の駐車場にすべり込んで車を急停止した。思いがけない急ブレーキに、すんでのところですずなは助手席から転がり落ちるところだった。先ほどまでの、胸の内を告白しようと思い詰めていた気持ちはすっかり吹き飛んでしまって、すずなは叫んだ。

「ちょっと、何て運転するのよ!」
 ところが、言葉をかぶせるように俊がどなり返してきた。
「何も」
 俊は、興奮した様子でハンドルを強く握りしめている。

「お前は、何も、奪われてないよ」

 ぐっと気持ちを抑えたような声だった。それから、ぽつん、とつぶやくように続けた。
「これから、手に入れていくものばかりだ」

 何のことを言っているのだろう、具体的なことは、何も分からなかった。けれど、俊が懸命に何か言おうとしている、その背景にあるものの大きさを思って、はっとした。何に対して怒っているのかも感じて、胸を突かれた。

 すずなの目に、うっすら涙の膜が張った。
「そうだね」
 これ以上、見つめ合うのを止めるために、すずなはうつむいた。

「わたしたちは、これから手に入れていかなくちゃね」
 俊は、おう、と照れたように短く返事をして、また何ごともなかったかのように、静かにアクセルを踏んだ。

                            ©Ai Shimizu

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