きみたちがまだ知らないこと【10】2025創作大賞 #恋愛小説部門
漂うように、近くにやってきた俊が選んだ仕事は、引っ越し屋だった。新しい場所での再スタートを手伝う仕事がいい。
遠くを見るようなまなざしで、俊は言った。新しい場所へ行ったら、人生変わるかもしれないんだぜ。おれが、そうだった。そして少し、神妙な顔つきをしたあと、また急にぱっ、と子どもみたいな顔に戻って俊は言った。それに、いろんな所へ行けるんだぜ。会社のお金で‼
その発想に、すずなは声をあげて笑った。単純だなぁ。じゃあ、遠方へ行ったら、ご当地モノのお土産、買ってきてよ。
俊は、すずなの言葉通り、いろんなちょっとしたものを買ってきてくれた。関西限定のたこ焼き味のポテトチップスとか、みかん味のチューインガムとか。時間がなくてさ、今回はこれ。そう言って、ジャンパーのポケットからゆず味のサイダーを出したりした。短い休憩時間に、自分の飲み物を買うついでに自動販売機で買ったのだろう。すっかりぬるくなったサイダーが、俊が旅した距離を教えてくれた。
いきなり、電話がかかってくることもあった。それはたいてい夜中で、すずなが寝に入るちょっと前だ。スマホが明るく光ると、すずなの心にもぽっとしたものがともる。
「もしもし」
すずなが出ると、かけてきたくせに電話の向こうの俊は、とまどっている。そして、しばらくしたのち、観念したかのような短い息と共に、こう言うのだ。
「おつかれ」
一日が終わってほっとしているので、自分の声も自然とやさしい。
「おつかれ」
ちょっと笑いを含んだ声になってしまう。
「何も、売ってなくてさ」
「うん」
「今日のはめちゃしんどかったわー」
電話の向こうで、俊は急に声の調子を崩して言う。
「服の量がハンパねぇの。あと、キッチン。これ、ゼッタイ使わねぇだろ⁉ っていうプラのスプーンやフォークがわんさか」
すずなは、ころころ笑う。そして俊の声に耳をすます。
話の内容は、実際、どうでもいい。その声の温度、調子、そして色を聞いている。
耳を通して流れこんでくるそれは、すずなを心の底から安心させる。一人暮らしの冷ややかな部屋は、安全な隠れ家かシェルターのように感じる。自分と俊だけのひそやかな空間のように。
時には、彼の声を聞きながら、コーヒーにミルクを入れたりする。ミルクはゆるやかに渦を巻いてやさしい毛布のような色合いになる。そこから立ちこめる、ささやかな湯気。この温度を、俊も感じるといい。そう思う。きっと向こうも、ひとりぼっちなのだから。
初めてすずなから俊に電話をかけたのは、七月の下旬、緑が濃くなる時分だった。
俊が引っ越し屋に就職したのとほぼ同時に、すずなは保育園で働き始めた。
保育補助のアルバイトを見つけたのだ。
去年、俊に本当にやりたい仕事を打ち明けてから、すずなは真剣に将来のことを考え始めた。保育士の資格を取ろう。それがすずなが出した結論だった。保育士の試験を受けるには、二年以上の実務経験が必要だという。焼き肉屋のアルバイトの傍ら、無資格でも働ける保育園の求人を探した。すずなの仕事は、自由遊びのときのおもちゃの準備や片付け、掃除など多岐に渡った。乳幼児の寝かしつけや昼寝の見守りをすることもあった。
六月に入ったばかりのころ、突然園長先生に呼び出された。
「本当に突然で申し訳ないんだけど」
乳幼児担当の保育士が、突然辞めることになった。親が倒れて、地元へ帰らないといけなくなった、と言う。
保育士さんの募集はすぐにかけるから、それまで浜田さんと二人でがんばってもらえないかしら。浜田さんは、五十代のパートの補助さんで、朝の九時から午後三時までいてくれる。二人で乳幼児四人を見る。できるだろうかと不安もよぎったが、一人じゃないし、何とかやるしかない。
しかし、乳幼児の保育はそんなに甘いものではなかった。ひっきりなしに訪れるおむつ替えとミルク、それに泣いたときの対処。目も回る忙しさ、とはこのことか。最初の一週間で、すずなは身も心もぐだぐだに疲れてしまった。そのうち、赤ちゃんの泣き声の夢を見るようになった。
次第に、体が重くなって、出勤するのに体に力が入らない、という日が、ちょくちょくでてきた。
すぐに泣き止む赤ちゃんならいい。いくら抱っこしても、おむつを替えても、ミルクをあげても泣き止まない赤ちゃんもいた。癇が強いとはこのことだろう。次第に、すずなはその子を避けるような気持ちになっていった。表面上は、世話をする。だけど、なるべくその子に関わりたくない。
ある日、激しく泣いて泣いて泣きじゃくるその赤ちゃんを目にしたとき、とっさにすずなは思ってしまった。
もう、この子に触れたくない。
ベビーベッドの中でシーツをくちゃくちゃに蹴とばす赤ちゃんを見つめても、何の感慨もわかなかった。寄り添う気持ちも、何とかしてあげなくては、という義務感も。黒くて、無感動な目をしていたと思う。
「高橋さん?」
浜田さんから声をかけられてはっとした。
見られてしまった、と思った。
今、わたしが思っていることを見られてしまった。感じていることを、見られてしまった。
「……どうしたの? 何か、顔色が、へん」
自分の中の何かが、大きくぐにゃりとゆがんでいくのを感じた。
「すみません……」
凍えるような声で、あえぐようにすずなは言った。
「ちょっと、気分が悪くて」
「まぁ、大丈夫? そうね、慣れない乳幼児保育で、疲れがたまってしまったんじゃない? あとはお昼寝だから」
何とかさとされ、励まされ、その日一日を乗り切った。
帰り道、自転車をこぎながら、すずなは、まるで自分が違ってしまったことを、認めないわけにはいかなかった。
行きたくない。明日から、職場に行きたくない。
泣き叫ぶ赤ちゃんと対面したときの、自分の中のピリッとした緊張感。そしてそのあとわいてくる黒々としたもの。それが、すずなを変えてしまったように思った。目に映る景色すべてが、遠くかすんで見えた。わたしは、赤ちゃんが好きじゃないんだ。
考えてみれば、おかしな話だった。だって、自分は子どもが好きなんじゃなかったのか? 少し前までよく接していた乳幼児以外の子のことを考えてみた。いつも楽しそうに歌っていた、ほら、あの子。顔を思い浮かべて、さらにすずなは愕然とした。
まるで名前を覚えていなかったのである。なつきかけていたと思った子どもたちは、あくまでお手伝いの対象としての集団であって、関心をかたむけられる個々人ではなかったのだ。すずなは、よろよろとした手つきでスマホを手にすると、発信ボタンを押した。
遠く着信音が鳴っている。
早く、でて。俊。早く。
祈るように、すずなはスマホを耳に押し当てた。
「……もしもし?」
少しとまどいの色をにじませて、俊が電話に出た。いつものように、おつかれ、と言うつもりだった。けれど、何か硬い石のようなものがつまったように、のどが苦しくて、ひとことも発することができなかった。
「……どした?」
固まったような息づかいが伝わったのだろう。電話の向こうで、俊が体を固くしたのが分かった。
「すずな?」
「俊」
名前を、呼ぶのが精一杯だった。
「待ってろ。すぐ行くから」
そのとき、やっとつかえた何かは、ぽん、と抜けて、すずなは大きなため息をつくことができた。
言葉通り、ものの三分もしないで俊はやってきた。そう、こんなに近くにいたんだ、と実感せずにはいられなかった。俊は駆け抜けてきた夜の空気をまとったまま、ドタバタと玄関に上がってきた。そして、まるで普通にたたずんでいるすずなを目にすると、全く、おどかすなよ、と言ってその場に四肢を投げ出して座り込んだ。また、過呼吸にでもなるんじゃないかと思って。俊は大きなため息とともに言葉を吐いた。
ごめん、と短くあやまると、いい、と言ってしばらく沈黙したあと、で、どうしたの、と低く、床に言葉を落とした。
「ちょっと……自信、なくしちゃって」
自分でも驚くほどに、素直に言葉が出てきた。俊は、それについては何も言葉を返さずに、あさっての方向を向いてコキコキと首を振りながら言った。どっか、行く? と。
閉館一時間前の市民プールは、さすがに空いていた。中年の男性がひとり、クロールでひたすら泳ぎ続けている。高齢の女性がゆっくりと水中ウォーキングをしている。あとからやってきた年配の女性に手を振り、声をかけている。水泳仲間なのだろう。
どっか行く? とっさに聞かれて思いつかず、しばらく考えて出た言葉が、泳ぎたい、だった。もう、ずっと泳いでいなかった。泳ぎたい、とひと言口に出したら、もう止められなくて、なつかしい消毒漕の匂いやてらてら揺れる水色の水面、そして適度に仄暗い天井の蛍光灯などが浮かんできた。突飛もない要望に、俊はぽかん、と口を開けたが、よし、と意を決したかのようにスマホを取り出し、調べてくれた。
ジムなんてものは高尚すぎた。一回五百円で入れる市民プール。二人はスマホで地図を見つつ、自転車を走らせた。ただ水につかることだけ考えて、何も持たずに行った。市民プールのHPには「販売も行っています。用意が無くても安心です」とうたってあった。何も持たずにってのがいいね! 自転車を走らせながら弾んだ声で言うと、俊は何も言わずグッドサインを出した。
何も持たずに。わたしたちは、いつだってそうだ。俊とふたりで、施設を逃げ出したときも、光の島から巣立ったときも、いつも、わたしたちは何も持っていなかった。
ざぶん、と水に飛び込むと、無数の泡が吹き出して上へと昇っていった。それらは水面近くでキラキラ光り、消えていく。
あぁ、これだ。この気分。
ゆっくりと漕ぎ出して水をかく。初めは、少し苦しい。まだ体が水に慣れていない。けれどだんだん泳ぐうちに、水と肌が溶け合って、自分がどこまでなのかあいまいになって、あるところから急に呼吸が楽になって、魚になったみたい! と思う。するととたんに世界が味方になって、キラキラしだすのだ。自分の吐く息はあぶくになって、それは水の世界と話す言葉みたいになる。
昔、通っていた水泳教室での記録会を思い出す。
クロールで振り返る景色は、後ろに流れ、天井のライトはにじんで見える。頭を水につけると、ぶくぶくっという自分の呼吸の音。ぱっと息継ぎすると、わーわー、というみんなの歓声。
がんばれ、がんばれ、というみんなの応援が、プールいっぱいに響いている。泳いでいるのは、たった独り。苦しさと孤独に闘っている。けれどちゃんと応援してくれるだれかがいる。そう感じることができる。孤独と喧騒の繰り返しにリズムが生まれ、それがだんだん心地良くなってくる。そうなったら、もう怖いものはない。
少々緊張はするけれど、すずなは水泳の記録会が好きだった。
「すっきりした?」
プールから上がってきたすずなに、俊が声をかけた。泳いだのか泳いでないのか、プールサイドに腰かけて、足で水をぱしゃぱしゃやっている。小さい子どもみたいだ。
「うん、やっぱり気持ちいい」
ほっ、と息を吐きながら言うと、俊はよかったな、とつぶやいて少し遠くの水面に目を落とした。
なんか元気ないな。
そう気づいたのは、帰りに立ち寄ったファミリーレストランでだった。すっかりストレスを解消できて、泳いだあとの幸福な疲労感に身を委ねていたすずなは、俊と向かい合ってファミレスのソファにもたれかかった。おれ、チキンステーキとハンバーグね、肉たっぷりのやつ。普段ならそんな風に言いそうなものなのに、いつまでもメニューを眺めて決めあぐねている。俊の様子がいつもと少し違っている。
「おなか、空いてないの?」
と聞くと、そうでもないけど、と言葉少なだ。顔もあげない。
「……どっか具合でも悪い?」
少しむっとしたのか、わざとパタン、とメニューを閉じた。
「べつに。おれ、ナポリタン」
そういった俊は、ほおづえをついて窓の外を見た。暗い街灯に照らされて、青い葉っぱがちろちろと裏返ったり戻ったりしている。
泳げない人にとっては、プールはそんなに楽しい場所じゃなかったのかもしれない。遠くを見ている俊の横顔を眺めつつ、グラスの水を口に含んだとき、ふいに俊が言った。
「プールへ行きたい。そう言った次の日、母ちゃんが死んだ」
思いがけない告白だった。すずなは凍りついたように手をとめた。
「他の子たちがおっきいプールに行ったこと話してて、うらやましくて。プール、プールって騒ぎたてたら、よし、今からプール行くよ、って言って」
過去は、とつとつと語られた。
「毎日、肉体労働で疲れてんのに、夜、プールへ連れてってくれたんだ」
俊は目を合わさない。もう、外は見ていない。もっと、ずっと遠い過去を見つめている。
「ちょうど今日みたいにガラガラでさ。古くて暗い感じのプールだったけど、おれ、嬉しくて、嬉しくて。プールから上がったら、アイスクリーム買ってくれて、母ちゃんと食べた。それから、自転車の後ろに二人乗りして帰ったんだ。おれは荷台に立って、母ちゃんの肩につかまって」
夜の道を、水に濡れた髪のまま自転車で駆け抜けていく親子。きっと、その影は嬉しさで弾んでいたはずだ。
「それが最後になるなんて」
そう言って俊は言葉を閉じた。グラスの入った水の前で、しっかりと組み合わされた手。厚ぼったい手に、短い指。その手は日焼けして、乾いて見える。外の空気が似合う働き者の手だ。語られた話とその手がちぐはぐで、何だか悲しくて、すずなは黙ってうつむいた。
「つらいこと、思い出させちゃったね」
そうつぶやくと、俊は憮然とした表情のまま指をほどいた。
「違うよ。そういう意味で言ったんじゃない。ただ、その思い出が最後で、幸せすぎて」
そのあとに続くもの。その残酷さにふたをするように、そこで俊は言葉を止めた。注文した料理が来た。まるで過去の夢に割って入るかのように。
食べ始めても、それが何なのかしばらく味が分からなかった。やっと、食べものを舌とお腹が受け入れ始めて大分たったころ、ぽつん、と俊が言った。
「プールに連れてって、なんて、言わなければよかった」
まるでブルドーザーのように、俊はナポリタンをかき集め、ごみを収集するように口の中に流しこんだ。そして、ごちそうさま、と言ってガチャン、と皿をテーブルに置いた。すずなはいたたまれない気持ちになって、全く進まない食事のペースを上げようと、懸命にフォークを口に運んだ。ハンバーグだったのだけれど、添えでついてきたソースをかけるのを忘れてしまった。
帰りの自転車は、二人とも無口だった。ふと、去年の五月のことを思い出す。あのときの、しょっぱい後味の再会を。わたしたちは、なぜかいつもこうなってしまう。弾んだ心で出かけたのに、何か暗い影に邪魔されて、最後には悲しくなってしまう。どうしてだろう。くちびるをかみしめながら、夏の夜を漕いでいく。
庭に小さな虹ができている。ホースから勢いよく出るシャワーが、きれいな弧を園庭の空に描いている。何人かの子どもたちは、待ちきれないとばかりに短パンになって庭へ繰り出す。何人かは、先生の言うことを聞いておとなしく服を脱いで水遊びの準備をする。ぐずぐずして、教室の掃き出し窓の所から動かない子もいる。背中を押す先生の手に他意はない。早くみんなそろっての水遊びをさせたいのだ。
久しぶりに泳いだ次の日は、体がだるい。とくにこんなに暑い日は。すずなは、昨日の奇妙な夜の余韻を体のどこかに引きずりながら、プールに水を張った。
乳幼児は、お昼寝タイムに入っていて、水遊びの手が足りないから手伝って、と言われたのだ。
浜田さんも、昨日のすずなの様子を心配して、少し離れるよう促してくれた。確かに、泣き叫ぶ乳幼児から一時離れて、青空の園庭に出るのは、心が少しだけ晴れた。自分の足で自由に走り回る子どもたちを見るのは、なかなか気持ちのいいものだった。子どもが好きじゃないと思った感覚、あれは本当だったのだろうか、とさえ思った。
子どもたちは、上半身はだかになって列を作っている。ほとんどの子どもたちがそうしている中で、何人かの女の子はシャツを脱ぐのを恥ずかしがっている。それでも先生に促され、しぶしぶ脱いでいた。
昨夜の疲れが残ってぼんやりしていたすずなの目に、その嫌がる子どもたちは、妙にくっきりと映り、なぜか目が離せなくなった。
一人、どうしても教室の前から動かない女の子がいた。半べそをかいている。どうしても服を脱ぎたくないのだ。先生がしゃがんで、目線を合わせて何度促しても、その子は服を脱ごうとしない。仕方なく、その子は上の服を着たまま、みんなの列の最後についた。
前に並んだ嫌々服を脱いだ子どもたちは、ちらりちらり、とその子のことを気にしている。いいな、あの子は。どうして脱がなくていいんだろう。そんな小さな声が聞こえてきそうだ。
女の子は、もじもじしながら、手で体を包んだりして、さも居心地悪そうにしている。子どもたちは順番にホースから出る水のシャワーの下をくぐり抜ける。中には、わざとホースの出口に突進していって、水びたしになって喜んでいる子もいる。
子どもたちは、いざ自分の番になったら、両手を放して水のアーチを勢いよくくぐっていく。最後尾の子の番になった。服を着たままの女の子は、じっと水のアーチをにらみつけている。さぁ。先生が背中を押した。女の子は動かない。さぁ。もう一度、先生が背中を押した。それでも、女の子は動かない。何か、かたくななものが彼女の中に根をはっているように見えた。
そのとき、目を疑うようなことがなされた。やさしく背中を押していた先生の手は、すばやく女の子の服のすそをつかみ、一瞬にして脱がせてしまったのだ。女の子の顔は、恐怖で固まった。先生は、服を脱がせた勢いのままに、さぁ、と、女の子の背中を押した――。
体が考えより先に勝手に動く、ということがあるならば。
たぶん、こういう瞬間を言うのだろう。
すずなは手に持っていたバケツを落とし、その子を抱きしめていた。ホースの水は弧を描き、すずなのTシャツとエプロンを背中からじょびじょびと濡らした。すずなにしっかりと抱きしめられた女の子は、身じろぎもせず、しかし小さく震えていた。すずなの腕の中で。
「高橋先生? どうしたの、びっくりするじゃない」
何の悪意もない背中を押した先生の声が、かえって悪意に感じた。
鈍感と言う名の悪意に。
©Ai Shimizu
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