きみたちがまだ知らないこと【5】2025創作大賞 #恋愛小説部門
次の日は、すっかり晴れ上がった。
昨夜の荒天がうそのように小屋の窓から青い空が見える。すずなは、ガタガタと小屋の戸を開けた。
「うわぁ、いい天気!」
トタン屋根の波のひとつひとつに、雫がきらきら光っている。
「俊、俊。起きて」
まだ寝ぼけている俊をつついて起こす。うーん、と言って、彼はぐぐっと伸びをした。
空には、雲の波が続いている。二人は、すっかり洗い流されたような空の下を歩いた。昨日はすすけて見えた古い町並みも、雨に洗われて輝いて見えた。港が近づいてくると、海鳥が鳴きながら低く頭をかすめて飛んで行った。
ここには、自分たちのことを知っている人はだれもいない。昨日立ち寄った商店で、再びパンとお茶を買って、島へ渡る始発のフェリーを待った。
とりあえずここから行ける島に行ってみるというのが、二人が出した結論だった。
フェリー乗り場にはぽつぽつと人が集まり始めた。朝出勤する人か、観光客だろう。小さな渡しの鉄板が船から桟橋にかけられ、乗り口にかけられていた鎖が解かれる。
「行こう」
少し離れたところで海をのぞきこんでいた俊に声をかけた。
島に渡る中型のフェリーは二階建てだった。すずなと俊は、迷わず鉄階段を駆け上った。一番奥の手すりへ駆け寄る。ぐわんぐわんとエンジン音を響かせて、船は左右に揺れている。
視界の先に、濃い緑の島が待っている。やがて出発の時はきて、船は大きく旋回し、舳先を島の方へと向けた。どちらが言い出すともなく、二人は進行方向の前のデッキへと移った。
まるで、海の上を飛んでいるみたいだった。風はすずなの髪もシャツも激しく乱暴にはためかせた。今まで通りすぎてきたことのすべてを、追い抜いていくかのような爽快さだった。心の底から嬉しくなってしまい、思わず叫んだ。
「俊‼ わたしたち、自由だよ――‼」
わたしたち、自由だよ。
何にも、恐れてないよ。何にも、おびえてない。
叫びながら、本当に体の底から嬉しくなった。俊は、気持ち手すりから乗り出して、ヤッホー、とかウヮオウ、とか奇声をあげている。それを聞いてすずなは大笑いした。こんな風に笑ったのは久しぶりな気がする。
「ずい分、楽しそうだね」
声をかけられて、はっとした。大人ばかりの乗船客の中で、よっぽど目立ってしまったのだろう。すずなはふいに恥ずかしさを覚え、無意味に髪を押さえた。
声をかけてきたのは、若い男の人だった。無意識のうちに体が硬くなる。知らない若い男の人に話しかけられたことなどなかった。
男の人の、明るい黄緑色のパーカーが、まぶしいほど日の光を受けている。黒地に赤いラインの入ったリュックを背負い、濃い色のジーパンをはいている。どれも真新しい感じがして、全体的にセンスが良い。ぱらぱらと顔にふりかかる長めの髪を払いのけると、彼は言った。
「旅行?」
硬くなった自分の顔に影がささないように。そう願いながら、はい、まぁ、とあいまいに答えた。
「二人で?」
あやしまれているのかもしれない。そう思ったすずなは、とっさにこんなことを言っていた。
「弟とふたりで、おばあちゃんの家へ行くんです」
「へえ。それは、いいな」
男の人は、海の方を見て笑った。
「今の子でも、そんな冒険するんだね」
東京とか、都会から来たひとかもしれない。何となく、そう思った。男の人はそれ以上何か聞く風でもなく、船が島に着くと、じゃ、と軽く手をあげてから降りて行った。
島には、観光地らしいものはおよそないような風情だったが、桟橋の近くに古びた地図の看板が立っていて、宿や神社、それから丘の上の公園などが描かれていた。来たからには、丘の上の公園まで行ってみることにした。
さほど標高は高くないように思ったが、最後は石段の段差が大きくて、息が切れた。上まで登ってみると、ぽっかり緑が途切れて空が見えた。先の方へ行くと、瀬戸内海の島たちが一望できた。わぁ、とつぶやいて、しばらくぼうっとしてしまった。
ここを渡る風は、なんて気持ちいいんだろう。
遠くの海が細かくさざめいて、震えるようにちかちかまたたいている。こんな美しい風景は、初めてだ。すずなは大きく息を吸い込んだ。やっぱり。きらきら輝く遠い海に目をやりながら、すずなは思う。
この世界のどこかに、自分が行きつく場所はあるんじゃないだろうか。
それは、景色が与えた希望だった。
何も持たず、すべてを後ろに置いて飛び出してきてしまった。けれど、こんなにも美しい風景に出会うことができるなんて。世の中捨てたもんじゃない。お金にも変えられない、ポケットに持ち帰ることもできない、けれど、しっかりと心に刻み込まれた大切な宝物。だれも奪うことのできない、わたしだけの景色。
俊も、すげぇ、と言いながら、ぼうっとした様子で海を見ている。来てよかったね。
のど元まで出かけていた言葉は、しかし、次の瞬間ひゅっと奥へ引っ込んでしまった。突然がくっとひざを落として、俊が倒れこんでしまったのだ。 倒れるその直前、目が一瞬白目になった。
「俊!」
慌てて呼びかけても返事がない。意識がもうろうとしてしまっているようだ。
こめかみから一筋、汗が伝ってシャツに吸い込まれた。額に手をあててみると、ものすごく熱かった。どうしよう。すずなは、辺りを見回した。
人っ子一人、見当たらない。意を決したように、すずなは深呼吸した。とにかく丘を降りなくては。俊、しっかり、と肩をゆすると、彼はうっすら目を開いた。
今朝買ったペットボトルのお茶がまだ少しだけあったので、差し出すと、ごくっと一口だけ飲んだ。無理やり立たせて、段差のある石段を注意深く下りる。
時々、俊に手を貸す。何とか公園の入り口まで下りては来たものの、最後の石段を下りると、俊はそのまま地面に座り込んでしまった。
どうしよう、どうしよう。果たして人が住んでいるのかも分からないほど、ひっそりとした町並み。通りかかる人もいない。
すすけた灰色の見知らぬ漁村の屋根屋根は、とても素っ気なく見えた。町の方へ――町と呼べるところがあるのか分からなかったが、船着き場の向こう側には少し店があったような気がする。
すずなは、勘を頼りに道を行こうとした。しかし、俊は道にうずくまったまま、立ち上がる様子もなかった。怒りのような泣きたくなるような気持ちで胸ははち切れそうだった。
けれども、それらの気持ちをぐっと抑え込んで最後に勝ったのは、この子を何とか助けなきゃ、という強い使命感だった。
すずなは、背負っていたリュックを前向きにしょい直すと、俊に背を向けてしゃがみこんだ。
「俊、早く。乗って」
短く、きっぱりと言った。早く。恥ずかしいとか、逃げ出したいとか、私が思うより前に、早く。俊は、ふらふらと腰を浮かせると、おとなしくすずなの背に体を預けてきた。ぐったりと倒れこんできた俊の体は重く、ひどく熱かった。
とにかく、人のいる方へ。だれかいる方へ。
誰か。誰か!
必死に足を運びながら、すずなは念じるように、周囲に目を配った。
バイクの人。通り過ぎてしまった。ベランダで洗濯物を干しているおばさんがいる。あ、と顔を上げたが、バスタオルの影に隠れて中へ入ってしまった。
ようやく船着き場が見えたとき、それだけで泣きそうになってしまった。
フェリーの改札に向かう。ところが、小さな切符売り場の向こうは、無人だった。降りた時、人がいたように思ったのは幻想だったか。
急に力が抜ける気がした。背中の俊が、ずん、と重たくなったように感じた。向こう岸に戻った方がいいんだろうか。滝のように汗をかきながら、ぼう然と桟橋の向こうを見つめた。
ここで初めて、のどがひどく渇いていることに気づいた。このままでは、自分も渇ききってしまう。
すずなは、待ち合いのベンチに俊をおろすと、飲み物買ってくる、とささやいた。俊は横になりながら、かすかにうなずいた。
フェリー乗り場を出て、少し離れた向かいの道路に自動販売機を見つけた。すずなは熱く湿った潮風の中、自動販売機まで急いだ。島の道はアスファルトより白く、目にまぶしかった。少しでもうつむきすぎたら、涙がこぼれそうだった。
ジュースを買う、その行為にこれっぽっちも余裕がなくて、示された金額の小銭が財布からなかなか探し出せなくて戸惑った。
「ああっ」
やっと探し出した五十円玉は、しかし、すずなの指をするりと抜けてどこかへ転がっていってしまった。
販売機の下や周辺の草むらを探していると、後ろで、落としもの? と声がした。
驚いて振り返った。
さっきフェリーで声をかけてきた若い男の人だった。
自転車にまたがっている。すずなは、黙ってうなずいた。そして、お金、落としちゃって、と続けた。
「あの」
胸が妙にどきどきしていた。この人は、信用できる人だろうか。そんな思いも頭をかすめた。けれど今、聞いてくれそうな人は、この人しかいない。すずなは腹をくくってからこう言った。
「俊が……一緒にいた弟が、熱なんです」
男の人は、え、とかすかにまゆをひそめた。しまった、と頭では思っても相手の反応を受け止めている暇はなかった。
「すごく熱くて、歩けないくらいで」
「今、どこにいるの?」
男の人の表情は、真剣なものに変わった。
その表情を目にした途端、すずなは自分が行った判断が間違ってはいなかったと確信した。
©Ai Shimizu
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