きみたちがまだ知らないこと【4】2025創作大賞 #恋愛小説部門
列車は、よどみなくリズムを刻んだ。
途中下車のホームに、後ろ暗い気持ちはおいてきてしまった。前へ、前へ。空も雲も、先ほどより明るく見える。トンネルをいくつも越えて、そのたびに空は青く、雲はまぶしく光っている。
「……あ、海」
並んで座っていた俊が、少し身を乗り出した。
はるか遠くに、深い藍の太平洋が見えた。進むごとに山にかくれたり、また見えた時には薄青に変わったりする海を、二人はただ黙って眺めた。
「海も、色が変わるんだね」
だれにともなくつぶやいて、ふと隣を見ると、俊はまばたきも忘れたように窓の外を見つめている。まるで一瞬も見逃すまいとしているかのように。
瀬戸内海は、どんな色をしているんだろう。内陸に入って海から遠ざかると急に不安になる。そのたび、何度も時刻表を見て、大丈夫、ぼくらは確実に目的地に向かっている、とうなずきあった。乗り継ぎの駅ではおにぎりとサンドイッチを買った。駅弁は高くて買うのがためらわれた。
なんとなくうきうきしていたのは昼頃までで、さすがに午後は飽きてきた。何しろ、ずっと座っていてお尻が痛い。かといって立っているのもつらい。一駅ごとに座席を交代したり、体を横たえて座ったりしてみたが、体のあちこちが痛くなってきた。乗り継ぎ駅は天の助けみたいに思えた。日が傾きかけて、再び海が見えてきたとき、思わずすずなは叫んでいた。
「わぁ、これ、瀬戸内海じゃない?」
リュックから地図帳を出して、今通り過ぎた駅を地図にたどる。行く手に広がるのは、確かに瀬戸内海だった。遠くに大きな島がうっすら浮かんでいる。
うーん、と伸びをしながら、すずなは聞いた。
「で、どこの駅で降りるんだっけ」
隣の俊を見ると、何だか元気がない。どうしたのか、と顔をのぞきこむと、とにかくこの電車の終点まで行こう、と言う。
終点で降りると、すずなは俊がどこの駅まで行くかどころか、目的の島がどこなのか、住所も、その民家の人の名前さえも記憶していないことを知って、愕然とした。
ひと呼吸の大きな間を置いてから、すずなは叫んだ。
「ええ――っ⁉ 何も知らないの?」
その声は夕日の差し込む駅構内に響き渡り、見て見ぬふりをして通り過ぎる人の足を速めた。逆に好奇心からか、もったりと首を傾げてこちらを遠くから伺い見る人もいた。すずなは、慌てて俊の手を引っ張って駅の外へ出る。
「……どうすんの」
俊は、ますますうつむいた。
「まさか、これから瀬戸内海のみかん畑のある島を、ひとつひとつ探し歩くわけじゃないでしょうね」
すごみをきかせて言ったつもりが、震え声になってしまった。目の前の俊は、どんどん背中が曲がって首を垂れていく。夕日の当たる髪は金髪に輝いているが、とても朝目にした燃えるような赤とは違い、黄昏の中でわびしく見える。こんなところまで来て――。
すずなは行けるところまで行く、と断言した朝の心持ちを半ば恨めしく思い起こす。
やっぱり、こんな年下の男の子を信じてここまで一緒に来てしまった自分が馬鹿だった。
俊を責める気には、なぜかならなかった。どこにも居場所を見つけられなくて、夜、眠るのさえ怖くって、わらにもすがるような思いで彼の手をとったのは――実際には、手にも触れていないのだけれど――すずな自身だったのだから。
施設に入ることを、学校の友達にも打ち明けていなかった。水泳教室の仲間には、さよならも言えなかった。虫の居所の悪かったお父さんが、教室からかかってきた電話で、やめる、と一方的に告げてしまったから。何より――自分の家族が壊れてしまったことを他人に知られることが、怖かった。
ある朝、それまでとは違う方向から登校して友達にばったり会う。あれ、すずなちゃんの家、こっちだったっけ。友達は内心、いぶかしがるだろう。引っ越したの? そう聞かれればまだいいかもしれない。けれど、こっそり後でもつけられたら? 施設に帰っていく後姿を見られたら? そんな場面を想像するだけで、ぞっとした。
すずなは、ここまで来てしまったどうしようもない流れの先を思って、はぁーっ、と深いため息をついた。瀬戸内海の島に行く、ときっぱり自信をもって言い切っていた俊の顔を思い出す。
「とりあえず、行こうか。瀬戸内海の島へ」
夕暮れの港は人気がなく、ひっそりとさびしげだった。島へ渡ろうと思ったものの、今日は、もう最終のフェリーは出てしまったという。
うっすら残る夕焼けに、濃い灰色の雲が乱れ飛んでいる。
風は強い。桟橋に掲げられた吹き流しが、急にバタバタっと風を受けて躍り上がったかと思うと、また静まる。
停泊している船は、時折り舳先と舳先がぶつかり合って、ごんごんと鈍い音を立てている。
二人は桟橋に腰掛けて、袋からパンを取り出してかじった。
ローカル線の列車を降りて、港へ来るまでにあった商店で買ったのだ。足の下で、波がたぷたぷゆれている。桟橋に打ちつける波は荒く、ふじつぼがびっしりついた杭を時々あらわにする。
食べたらさっさとここを離れよう。何だか心の中がぞわぞわした。乱れ騒ぐ黒雲が、とても不気味なものに感じた。急いでパンを食べ終わるや否や、不吉な予感は的中して、大粒の雨が降ってきた。
「雨!」
短く言うと、すずなと俊は荷物を持って駆け出した。
こんな店も少ない港町の外れに、逃げ込めそうな所はどこにもなかった。一歩、裏通りに入ると、その感はますます強まった。舗装されていない道に、びしゃびしゃと大粒の雨が打ちつける。とりあえず、資材置き場になっているトタン屋根の下へ逃げ込んだ。雨は激しく、屋根を打っている。
「すっげー雨だな」
やっと、ひと息ついて俊が言った。
「小屋がある」
資材置き場の脇に、小さな小屋があるのが目に入った。
この雨と今日の夜を、どのようにやり過ごしたらいいか分からなかった。つなぎつなぎでもどこかに居られたら、それでいい。そんな気持ちでつぶやいた。
「行ってみよう」
俊が、その気持ちに応えるように言った。言うが早いか、彼は雨の中、大股で飛び出していった。
小屋に、鍵はかかっていなかった。すべりの悪い戸を開けると、中にはロープやセメントを運ぶ時の手押し車などが、雑然と置かれていた。土ぼこりの匂いのする小屋の中、二人は隅の方で丸まってひざを抱えた。雨は止む気配がない。遠くで雷が鳴っている。
何だか分からないけどぞくぞくする。
雷が鳴ると、いつもそんな気分になる。低く、ごろごろと空が轟くと、さぁ、始まるぞ、と悪い誘惑をささやかれているような妙な気分になるのだ。こわいとも違う、楽しいとも違う、ただどうしようもなく不穏な予感。不穏だ、と分かっているのに、どうしようもなくひかれてしまう。
そして、ただ陶然とその音に耳を澄ましてしまう。
ひときわ大きく雷が轟き、窓の外がぴかっと光った。隣に座る俊の体が熱っぽい。走って雨に濡れたから、熱がからだから蒸発しているのだろう。
「おれは、雷、嫌いじゃないな」
ほとんど何も見えない暗闇の中に溶け込むような、やわらかい声だった。雨の音は、それに呼応するかのように少し静まり、先ほどまでは感じなかった雨の匂いがあたりを包み込んだ。
「雷が鳴ると、タオルケットに飛び込んで、わざときゃーって叫んでた。母ちゃんもそこに割り込んできて、二人してキャー、とか言って」
昔をなつかしむように、嬉しそうに話している。
「そのうち、タオルケットでおばけごっことか始めんの」
二人だけど、にぎやか。俊の弾んだ口調には、その頃の俊の暮らしの雰囲気までもが織り込まれているような気がした。
わたしと、全然違うんだな。
咄嗟にすずなが感じたのは、自分とお母さんとの感じが、俊のそれとは全く違っているということだった。
再び、稲妻が光った。
「わたしは」
窓の外に映った光を目にして、ぼんやりした気持ちですずなは口を開いた。
「お母さんのこと知らないなぁ。そんな風には」
暗い中で俊が、え、というようにこちらを見たのが分かった。白目がやたら光ったように見えたから。
「お母さん、って、どんな風?」
すずなが漏らすと、俊は、軽く頭を傾げて、すずなの顔をのぞきこんだ。
「お前……お母さん、いなかったの」
「ううん。いたよ」
雷が、おさまってきた。雨は続いている。
「いたけど……よく、分からなかった」
俊は、それはそれで納得した、という風に、ふーん、と言って前を向いた。そして、じゃ聞くけど、と区切ってからこう言った。
「お父さん、って、どんな風?」
これは、また、すずなにとって答えるのに難しい問いだった。
昔は優しい普通のお父さんだったけど、お母さんが出ていってから酒癖が悪くなって、などと説明したくなかった。それらの説明は、表面的な変化であって、お父さん、というものの本質を言い当てる言葉じゃない気がした。
俊が求めている答えは、もっと大きくて万人が納得するようなもの、お父さんという存在の性質や在り様みたいなものを知りたがっている気がした。
けれど、そんなものを表す言葉を、すずなは思いつかなかった。
ただやっとひと言、優しくて、でも怖い、と言った。
それ、ムジュンしてね? 俊は少しだけ得意気に言った。きっと覚えたての言葉を使いたかったのだろう。優しくてコワイ、なんて、どっちだよ。そうつぶやいてから、あぁ、怒るとコワイってこと? と聞いた。
そうじゃなくて。次の言葉を用意できているわけではないのに、否定していた。
お父さんの怖さは――すずなは、懸命に言葉を探した。
しかし、一向に思いつかない。
言葉では、簡単に言い表せないような怖さ。それが、お父さんの持つ怖さだった。
いつ機嫌が悪くなるのか分からない。どんな瞬間に、絶望がお父さんを襲って、あおるようにお酒を飲みたくなるのか分からない。急に心を入れ替えたぞ、みたいに優しくなるのも何だか不安定で、そんなお父さんの状態が恐い。
あれ、でも、とすずなは思考を止める。それってやっぱり、外に表れる状態であって、お父さんそれ自体が怖い、ということじゃないんじゃないか。そんなことを考え出すと、もうすずなの頭はぐちゃぐちゃになってしまう。
じゃあ、お父さんを怖くさせてしまったものは、何なんだろう。
まぎれもなく、お母さんが他の男の人を好きになったことは関係がある。 じゃあ、どうしてお母さんはお父さんより他の男の人を好きになってしまったんだろう。
そこにもお父さんの怖さは関係しているんだろうか。
そうなると、もうどうどう巡りだ。すずなは、さじを投げたように、がっくり首を落とした。
ひざから地面に、ぴちゃん、ぴちゃんとしずくが垂れる。自分の体も、発熱している。何だか頭がぼおっとしてきた。
すっかり暮れた雨の町に埋もれるように、二人はそれぞれのひざに頭を埋めて泥のように眠った。自分が土人形のようになって、どろどろ溶けて、地面に溶け出してしまう。すずなはそんな夢を見た。
©Ai Shimizu
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