きみたちがまだ知らないこと【3】2025創作大賞 #恋愛小説部門
「……ずーっと、しゃべんねぇのな」
彼がそう言ったのは、マンションから歩いて十五分、駅へ通じる歩道橋に足をかけた時だった。
すずなは、マンションを出て初めて、ふり返った。ほとんど、俊の存在を忘れかけていたことに驚いた。早朝、施設を抜け出してからずっと一緒だったのに、まるでそこまでの自分はマンションに置いてきて、代わりに以前の自分――あそこに住んでいた頃の、俊と出会う前の自分――がタッチ交代して亡霊のようにするりと自分の身体に入り込んでいたような感覚にはっとした。俊は、すずなの顔をのぞきこんで言った。
「何か、顔色悪くね?」
ふり払おう、忘れよう、と思っていても、体はそれを覚えているのだ。過去の自分を。
すずなは、急に恐くなった。そして、足をかけようとしていた階段を見上げた。
「グミ・チョコ・パイン」
突然、俊が大きな声で言った。
「え?」
耳のすぐ側ではっきり言われたその言葉が理解できなかったように、すずなは聞き返した。
「だから、グミ・チョコ・パイン。やりながら、上ろうぜ」
俊はそう言うと、すずなが返事をする間もなく、じゃんけんぽん、と言った。慌てて手を出すと、すずなのそれはパーで、俊はグーだった。
「やった。パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」
すずなは、ひと言ひと言区切りながら階段を文字の数だけ上がった。
「ひっきょ! パ・イ・ン、だろ⁉」
「そんなの聞いたことないですよーだ」
一度抜かれて、でも、最初に上にたどりついたのは、すずなだった。
そろそろ通勤時刻を迎える駅は、人で混み始めていた。スーツを着たビジネスマンやきちんとお化粧をしたお姉さんたちが足早に改札に向かっていく。みな一様に、同じ方向へ、同じようなリズムで改札の向こうへ吸い込まれていく。
何だかそこへ混じって向こう側へ行ける気がしない。急にまた何かひるんでしまい、元気がなくなっていく。それと同時に、おなかがぐぅ、となるのに気づいた。施設を抜け出してから、何も口にしていない。おなかはぺこぺこだった。ふと隣を見ると、俊もおなかをへこませて、そこに手を当てている。
「おなか、空いたね」
すずなが言うと、俊は、うん、とうなだれるようにうなずいた。
「あそこで何か買おうか」
改札のすぐ横に売店があって、少し迷ったけれど鮭おにぎりといちごジャムのスナックパン、それからペットボトルの水を買った。
俊は、おかかおにぎりとおまけのシール付きのチョコパンと、牛乳を買った。すずなからお金を受け取るとき、ちょっと嫌そうな、怒ったような顔をした。
一体、瀬戸内海というところまでいくらかかるのか、すずなには見当もつかなかった。果たして、そこまで本当にたどりつけるのかも。駅の切符売り場の窓口に向かってみる。透明のパーテーションの向こうに、駅員さんが座っている。何と言ってたずねたものか逡巡していると、少し後ろに立っていた俊が、すずなを乗り越えるように前へ出て言った。
「どこまでも行ける切符が欲しいんですけど」
パーテーションの向こうの黒ぶち眼鏡の駅員さんは、少し驚いて聞き返した。
「どこまでも、ですか?」
俊は、全くひるまずに答えた。
「はい。どこまでも、どこまでも」
どこまでも行ける切符。なるほど、それは今の自分にも、すごくしっくりくる響きだった。そんな切符があったら、どんなにかいいだろう。何、なかなかいいこというじゃん。現実的にはありえないとしても、すずなはこの響きがすっかり気に入った。けれど、バカ高かったら、買えはしない。
「あの、できるだけ、お得に」
と、すずなはつけ足した。
「青春十八きっぷなどがございますが」
青春十八きっぷ。何、その大人びたくすぐったい響きの切符。にこりともせず、大まじめにパソコン画面に向かっている駅員さんの顔とその名も何だか合っていなくて、それがまた余計おかしく感じた。
それ、本当にどこまでも行けるんですか、と聞くと、駅員さんは簡単に切符について説明してくれた。乗車できるのは普通列車の自由席で、快速や新快速には乗れるが特急料金を払わなくてはならない列車には乗れない。二人分の切符を買って、改札を通る。ホームへ降りて売店を通り過ぎようという時、俊が立ち止まった。何かほしいの、と聞くと、売店の上の本がつめてあるラックを指さして言った。
「あれ、買っていこうぜ」
指の先には、「時刻表」と書かれた妙に分厚い冊子があった。売店のおばちゃんから、それを受け取った俊は、ぱらぱらと冊子をめくり、かすかにほほ笑んだ。
「これで、どこへでも行ける」
そんなものがこの世に存在することも知らなかったすずなは、ちょっとだけ驚いて、隣
のやせた少年を見た。
案外、いや、やっぱりこの子、頼りになるかも。
何か言う前に、ホームに普通列車が滑り込んできた。二人で、それに乗り込んだ。下り列車だからだろう、二人は難なく座ることができた。後から来た上り列車には、人がギュウギュウにつめこまれていた。さっき改札を同じリズムで通った人たちの大半は、あちら側の列車に乗るのだろう。
俊と二人で並んで座った。くもり空の向こうに、見慣れた家々の屋根が見えた。その中に、通っていた水泳教室のプールの丸い屋根が見えた。すずなは反射的に腰を浮かした。一瞬で、それは後ろへ過ぎ去った。売店で買ったパンの入ったビニール袋がひざから落ちた。中に入っていたジャムのスナックパンがのぞいた。そう、これは。おねだりして買ってもらって食べたことがある、ささやかな思い出のパンだった。
あれは、水泳教室の帰りだった。記録会で、自己最長の百メートルを泳ぎきることができた。その日お母さんは何だか気分が良さそうだった。何か、ごほうびに買ってあげようか。少し弾んだ声で言ったお母さんに向かって、じゃあ、売店のいちごジャムのパン、と言ったのだったっけ。初めての百メートルに、初めてのいちごジャムパン。帰り道は、お母さんと並んで、スキップしながら帰った。あれは、本当にわたしだったんだろうか。もう、遠い昔のことみたいに思える。ほんの二年ぐらい前のことなのに。
「なぁ、おれ、もうガマンできねぇ」
ふいに隣で俊が言う。言うが早いか、がざごそと袋に手をつっこみ、おにぎりを取り出す。すずなは、今進んでいる現実に引き戻される。
「お母さーん、見て~。すごい雲」
親と並んで座っている小さな男の子が窓の外を指さす。母親は軽やかなコットンのワンピースを着ている。
つられて見た窓の外に、ちらり、と白い建物が見えた。建物の上の看板には、見覚えがあった。浜北病院。お父さんが、入院している病院だ。一瞬にして通り過ぎた病院の名前を、まだ探すように、すずなはおろおろと窓の外を見続けた。見えるはずがない。もう、通り過ぎてしまったのだから。瞬時に。
その途端、すずなの胸には、取り返しのつかないことをしてしまった、という思いがせり上がってきた。
カバンどころではない。お父さんを置いてきてしまったのだ。
置いてきた?
お父さんは物じゃない。
そう、わたしは、お父さんを捨ててきてしまったんだ。
あんなに頼りなげで、お酒の力を借りなければ自分が保てず、どこまでも強がりで、どこまでも弱いひとりぼっちのお父さんを。
最後に見舞ったときの姿を思い出す。パリパリのシーツの上で、呑気にガーガーといびきをかいて寝ていた。自分の娘がどこに連れていかれたかも、よく分からないままで。そして、連れて行かれた場所も、決して安住の場所ではなく、再びどこかへと飛び出していくとも知らないで。可哀想なお父さん。
お母さんは、わたしとお父さんを捨てた。でも、わたしはお父さんを捨てた。お父さんは、お母さんにもわたしにも捨てられたのだ。
急に、呼吸が早くなってきた。
俊は、隣でぎょっとしたようだった。そして次の駅に停車したとき、突然俊はすずなの腕をつかんで、降りるぞ、と言った。すずなは引っ張られるままに、荷物と共にホームへ転がり出た。俊はすずなの手を引っ張ってホームの先端まで行くと、やっとすずなの手を離した。そして言った。
「思い切り、叫べよ」
荒くなっている呼吸のまま、俊を見つめる。
「言いたいこと、ガマンしてるから、そうなるんだ」
まるで、自分のことのように怒りをたたえて、俊はこぶしをぎゅっと握った。
「全部、叫んで、吐いちまえ」
踏切が、カンカン鳴って降りてくる。次の電車が来るのだ。
「わぁ――――っ」
ホームに滑り込んでくる電車の音にかぶせるように、俊は、叫んだ。わぁ――――っ。気づくと、すずなもつられて叫んでいた。
目をつぶって、のどが破れるくらい、叫んでいた。声の力で、すべてを突破するかのように。
電車が行ってしまっておそるおそる目を開けた。ホームの途切れた先に野草が揺れている。その向こうに、ずっと線路が続いている。夏の日差しに照らされて、線路からぐらぐらとゆげが立っているように見えた。熱風が、吹き抜けていく。
「すっきりしたか」
気づくと、呼吸は自然に治まっていた。
「帰りたかったら、お前だけ帰ってもいいぞ」
過ぎ去った街に、心を残してきたのが分かったんだろうか。俊が、少し離れたところにあるホームのベンチに腰掛けて、そう言った。少し、かすれた声だった。
「お前には、一応帰る家あるもんな。父親だって、いるんだろ」
汚れたスニーカーを立てて、かかとをとんとんアスファルトに打ち付けている。
「おれはほんと、帰るところもないし親もいないから」
俊は、多くのことを語らない。父親はもともといないから知らない。母ちゃんは、死んじゃった。だから八歳のとき施設に来た。それが、すずなが知っている俊のすべてだった。
俊は、ぴょん、とはずみをつけてベンチから立ち上がった。そして、すずなの真正面にすくっと立った。
すずなは、改めてこの男の子を見た。
夏の日に照らされて、俊のツンツンした髪の先は、ほんのり赤く見えた。
目は、透き通って、少し茶色味を帯びていた。
額の汗が、つーっと下りてきて、とがったもみあげの先にしずくを一粒つくった。
サバンナに立つライオンみたい。ふと、そう思った。
この男の子は、何も持たずすべて失っていま、ここに立っている。後戻りはもうしない。ぐずぐずとふり返りもしない。ふり返るものも、ないのだ。
風が俊の匂いを運んできた。汗っぽくて、しょっぱいような、でも少し甘いような男の子の匂い。
「でも」
強い瞳で、俊は言った。
「おれ、お前をあそこから連れ出したこと、後悔してないぜ」
そして、きゅっと強く唇を結んだ。
この子は、わたしに何があったか知っている。
熱風に吹かれながら、すずなはうつむいた。
割られた窓ガラス。血まみれの人形。生きるためには、一度死ななければならなかったほどの、何か。
すずなは震える手でリュックのひもを握りながら、俊を見た。のどが焼け付くようにカラカラだった。
俊は、相変わらず強い瞳ときゅっときつく結んだ口元をゆるめることなく、すずなを見つめていた。その目は、何があったかを知っていながら、自分を軽蔑することなく同情することなく、公平に自分を見つめていた。
それでもただ、生きていくのだ。そんな密やかで確かな決意だけがそこにある。そんな目をしていた。
今ごろ――すっかり日が高くなってしまった駅のホームですずなは思った。今ごろ、施設の人たちは自分たち二人を探しているだろう。
警察に連絡したかもしれない。それらの追手が、もう自分たちに向けてかけられた頃だろう。
こんな、わたしたち子ども二人でどうなることかも分からない。
頭で考えれば分かる。間違っていることも、先がそんなにないことも。
けれども、すずなは答えていた。行けるところまで、行く、と。
じっと緊張の中で汗をしたたらせていた俊の周りの空気が、ふっとゆるんだような気がした。日焼けした顔に、ちらっと真っ白なやえ歯がのぞいた。笑ったのだ。
「次の電車は、七分後に来るよ」
下りのホームの方へ身をひるがえしながら、俊は言った。
©Ai Shimizu
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