きみたちがまだ知らないこと【2】2025創作大賞 #恋愛小説部門
抜け出したら、瀬戸内海の島へ行く、と俊は話していた。
それは、ある夜の消灯時間前のひとときだった。何で? ずい分遠いよ、と言ったら、母ちゃんの親戚がいるはずだ、と言った。昔、一度行った覚えがある、と。
木がたくさん植わっている畑で、ひとりで迷路をして遊んだ。右も左も同じような木ばかりで、本当に迷って心細くなったところに、お母さんが、みいつけた、と言って顔をのぞかせた。敷地内にある古民家で冷たいみかんジュースをもらって、お土産にごたごたしたみかんやレモンをたくさんもらった。
また、おいで。そこの家のおばさんは、そう言ったんだ。
二人で見ていた地図帳から顔をあげた俊は、遠い空を見るような目で天井を仰いだ。
旅人みたい。
はるか先を見ているような光をその目に認めて、自分もどこかじわじわと熱くなった。
そういえば、今日。自由時間も終わり、夕食のため食堂へ向かっていたとき。トイレを済ませて、手を洗っているすずなの耳に、奇妙な喚声が聞こえた。やめろ、やめろよ‼ という激しい抵抗の叫び声。男子トイレから聞こえる下品な笑い声。ばさっ、と音がして、すずなは思わず振り向いた。男児用のズボンとパンツが、重なって脱がされたままの形で、廊下に投げ捨てられていた。
奇声と共に、いく人かの足音が去っていき、辺りはまたしんとした。おそるおそる壁で仕切られた男子トイレをのぞいてみる。そこで、身を低くして男子トイレから這い出してきた俊に気づき、ぎょっとしたのだった。下半身に何も身につけていない俊は、慌てて個室に逃げ込み、バタン、と乱暴にドアを閉めた。
俊の顔と上半身は濡れていて、髪や耳から水がぽとぽとしたたり落ちていた。心臓がどきっとして、止まるかと思った。何か、今まで出くわしたこともないものに出くわしたような鮮やかな衝撃だった。まだ、心臓がどきどきしている。すずなは、両手で胸を押さえたまま、そっと視線をトイレ前の廊下に移した。そこに放られたズボンとパンツは、まだ体温を放っているように見える。困ってるだろうな。
「俊」
男子トイレに向かって、小声で呼んでみた。返事はない。
「俊」
もう一度、呼んでみた。やはり、返事はなかった。すずなはしゃがんで、おそるおそる投げ捨てられたズボンとパンツに触れてみた。着古されて、ズボンはゴムのふちのところがすり切れている。すずなは、意を決して重なったままのズボンとパンツを折りたたんで、そっと男子トイレの中に入った。 そして、個室に一番近い床の上に置いた。
「ここに置いとくね」
それから、辺りをさっと見回してからこう言った。
「もう、だれもいないから」
すずなは静かにその場を立ち去ったのだった。
ここを抜け出して、どこか遠くへ行きたい。きっと、俊は本気でそう思っている。瀬戸内海に限らず。すずなはそう確信したのだった。
「ね、もしもどこへでも行けるなら、どこ行きたい?」
地図帳をぱらぱらめくりながら聞くと、彼は即座に答えた。
「アメリカ‼」
「わたしは、アフリカ‼」
「……正反対だな」
「一字違いだけどね」
ここで、二人は声を立てて笑った。給湯室の蛇口から、ぽとりとひとつしずくが落ちた。
「ねぇ、ちょっと、待ってよ」
もう一度、と思って背中に向かって声をかけた。振り向かない。すずなは駆け寄って、黙って後ろを歩いた。
「ねぇってば」
俊の肩は、だんだん上がってくる。振り向かない、振り向かないぞ、という意固地な気持ちが伝わってくる。
ついに、すずなは意を決して俊の前に通せんぼするように躍り出た。
「で、どうやって、瀬戸内海まで、行くつもり?」
きょとんとした表情の俊に、すずなは、わざとらしいほどの笑顔を作った。
「お金、ないんでしょ」
お金などの貴重品は、施設の先生に預けているか、持っていたとしてもごくわずか。
すずなは、最後の切り札とでもいうように、えいっとポケットから鍵を取り出し、俊の目の前にぶら下げた。
「……何、それ」
「家の、鍵」
俊は、ちょっとすねたような、ひるんだような顔になった。
「行くよ」
「どこへ」
「もちろん、わたしの家よ」
お前は家へ帰れ、と言った。お前を守る自信がない、と言った。だったら、家へ帰って必要なものを持ち出して、自分で自分を守れるぐらいの気負いで行けばいい。自分は、この男の子より年上なのだ。自分を無理して奮い立たせるように、すずなは、家の方角と思われる方へと向かった。最初は見知らぬ風景に、冷や汗がにじんだが、やっと見覚えのある交差点と店を見つけて、ほっと息をついた。
「わたし、あんたと一緒に、瀬戸内海へ行く」
抜け出してきたという興奮が、まだ胸の奥に体のそこここに残っていた。これから始まる夏の冒険。そんな気分がすずなの心を大きくしていた。ぐらぐら昇ってくる朝日の残像もその気分を強く後押ししていた。言葉に出してしまえば、何でもできそうな気になった。大丈夫。自分の家にちょっと寄るだけだもん。住んでいたマンションがどんどん近づいてくる。
ほら、見えた。あぁ、変わりない。見慣れていた街にだんだん自分がなじんでいく。すずなは俊の先を歩いた。気づくと、足取りも楽しげになっている。そう、簡単な荷づくりをして、修学旅行に出かけるようなもんだから。修学旅行。その言葉と共に、すずなは家の鍵を開けた。
何か、ひやっとした感覚がすずなを包んだ。しまった。その修学旅行用のバッグは、あの施設に置いてきてしまったんだった。気づくと同時に、薄暗い廊下の床がすーっと目に入った。お父さんが、最後にわたしに買ってくれたもの。ふいをつかれて、すずなの中に、熱いものがこみ上げてきた。そのあまりの突然さにとまどい、どうしていいか分からない感情に襲われて、すずなはその場に立ち尽くした。
しーん、としていた。
しーんとしている久しぶりの廊下に、お父さんのぐだぐだ叫ぶ声や、振り向かないで出て行ったお母さんのうなじや、通り過ぎて行った様々な場面が幽霊のようにすずなの横をかすめ去っていったような気がした。今年は修学旅行か。そう言って買ってきたカバンをぽん、と置いたお父さんの骨ばった大きい手も。
「……どした? 入らねえの?」
拍子抜けするほど、ケロッとした俊の声を耳にするまで、いく千秒もの時が過ぎたみたいに思った。
「……うん。入ろう」
すずなは、まるで何も感じなかったかのように、靴を抜いで廊下に上がった。
人が暮らしてない家、というのは、何と冷たいんだろう。お父さんが入院してしまったあと、誰か人の手が入ったと見える。布団はきれいにたたまれ、食器や生活雑貨などはすべて収まるべきところに収まっていて、整然としていた。まるで、他人みたいな気がした。家全体が。冷蔵庫の隣に貼ってあるすずなの作品はそのままあった。お母さんいつもありがとうございます、という言葉とともに描かれた母の似顔絵と、折り紙で作ったカーネーション。いつしか何でもない風景のひとつとして溶け込んでしまっていた、色あせた画用紙。だけど、そこだけが自分が生きてここで生活していたことの証に見えた。そこだけ、ほんのり温度を保っているかのように。わたしたち三人の家族が、まだ穏やかに暮らしていた頃の、かすかに温かな温度を。
これ以上ぐずぐずしていたら、ここから飛び立って行けなくなる。
すずなは、自分の中にほのかにうごめいた湿った感情をけちらすように、少し乱暴な足音を立てて自分の部屋へ入っていった。そして、ハート形にくり抜かれた引き出しの取っ手に手をかけてひくと、下着、Tシャツなど二、三枚ずつ引き抜いた。できる限り、淡々と。これはお気に入り、とか思っている暇はなかった。その時点で、すずなはうっすら気づいていた。
これは決して気楽な修学旅行なんかではないことを。夏の冒険なんかではないことを。何か、すぐにでも出発しなければいけない、逃亡なんだ、と。
実際、自分がしていることは、自分の家であっても泥棒のような行為に思えた。逃亡に必要なもの、それは、生活必需品はもちろんのこと、お金も含まれていたのだから。でも。と、すずなはじわじわとしのび寄ってくる罪悪感を消しつぶすように、父親の寝室のクローゼットを開け、貴重品がしまわれているレターケースに手をかける。見つけた茶色い封筒から、現金を数万円取り出す。
うちは、普通じゃなくなってしまったんだから。すべて、バラバラになってしまった。お父さんは、アルコール依存症が治るまでは当分病院を出られない、と聞いた。
今手に持っている数万円が、この家との手切れ金のように思えた。
いやなことばかりじゃなかった。
楽しいときだって、あった。
でも、もうその時は戻ってこないのだ。
お酒の匂いがかすかに残る父親のスーツ。その微香を封じ込めるように、すずなはクローゼットを閉じた。
© Ai Shimizu
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