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きみたちがまだ知らないこと【8】2025創作大賞 #恋愛小説部門

   

第二章 寄港、それから砂の島


  時計の針は十一時。もうすぐ、あの子がやってくる。

 すずなは軽やかに外に飛び出して、自転車に乗る。五月の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、目を閉じる。
こぎ始めは、いつも少しペダルが重い。リサイクルショップで買ったそれは、時々、変な音を立てる。
 バイト先でいやなことがあった時は、ギィギィきしんで悲鳴をあげているように聞こえる。でも、よく晴れて、風が気持ち良くって、今日みたいにちょっぴり心が浮き立っている時には、キィキィと、うれしくって鳴いているみたいに聞こえる。
 心の奥が、きゅきゅっとくすぐったがっているように。

 キラキラした港の海が見える頃、ふっと鼻に潮の香りが届く。とたんに、空腹であることに気づいて、帰りに新しく見つけたパン屋さんでバゲットを買おう、と思う。初めてそこのパンを食べたとき、おいしーい、とひとり小さく叫んでしまった。バイト代が初めて入った日の、それは自分へのごほうびだった。香ばしい小麦の香りが鼻の奥に広がって、思わず目を閉じた。

 あの島で最初に見た麦畑。すずなたちが島にやって来た時分は、ちょうど麦の刈り入れが終わってほどなく経った頃だった。秋から冬に種まきが行われた麦は、初夏の頃に収穫を迎える。五月、さわやかな風が島々の上空を吹き渡るころ、島の麦畑は美しい金色に輝く。そして、穂は重たくその実を風に揺らすのだ。

 光の島子ども園も小さな麦畑を借りていて、初夏には職員や子どもたちみんなで麦の刈り入れをするのが習わしだった。
雨の降りそぼる六月、子ども園のキッチンでは、ひかれたばかりの小麦粉でパン作りが行われる。世間一般にはうっとうしい梅雨の季節も、すずなにとっては楽しみな季節だった。
 雨音を聞きながら、パンの粉をこねたりくるみを刻んだりするのは、心が落ち着いてふくよかな気持ちになった。園内には、香ばしいパンの匂いが立ちこめて、その匂いをかぐだけで、心にぽっかり灯がともった。永遠にこの場所に居たいような、温かい雨の日がこのまま続いてほしいような幸福感が、その季節の園には漂っていた。

 なつかしいな。そう胸の中でつぶやいてから、ふふっと笑う。
なつかしいなんて、ずい分昔のことみたい。つい一年前までやっていたことなのに。
 しかし、その言葉は、すずなの心に言葉以上の熱い何かをこみあげさせる。先生たちの張りのある声、一緒に暮らした仲間たちのわいわい騒ぐ声、笑い声、時々のケンカや下の子たちの涙。そういった様々な感情の渦の中にいた。
 そして、そこからひとり外に出て、まるで宇宙空間に放り出されたみたいにぽっかりとした。

 静かだ。

 ひとり暮らしのアパートに入居したとき、最初に感じたのがそれだった。段ボールが数個積まれた部屋に、明るい春の陽ざしが差し込んでいた。ぐぅ、とお腹がなった。自分のお腹が鳴る音なんて、初めて聞いた気がした。こんなに静かだと、お腹の音も聞こえるんだ! ちょっぴり感心しつつも、次に思ったのが、空腹を埋めるためには、自分一人でどうにかしなければならないということだった。

 自立への意気込みは満タンだった。光の島で六年間過ごしたあと、すずなは働くことを選んだ。勤め先は神戸の焼き肉屋だった。アルバイトでの採用だったが、神戸というおしゃれな町に住むことにもあこがれていた。

 本当は、やりたいことのために進学も考えたが、学費など経済面が難しそうだった。川崎にいる父親とはほとんど縁が切れていた。入退院を繰り返し、やっと生きながらえている。そんな様子だった。
 卒業前に、職員の先生につきそってもらい一度父親に会いに行ったが、神戸で働くことを告げると、そうか、よかったな、とだけ言った。目は遠くをぼんやり見ていて、まるで他人事を聞いているかのように見えた。心が全く揺れなかったかというとうそになるが、今さら父の近くに住むという選択肢は、すずなの中になかった。

 光の島という家庭のような存在がなかったら。そう思うと、ぞっとする。そこでの生活のおかげで、すずなは次第に安定を取り戻したのだ。それが、まだ不完全なものであったとしても、年相応には成長することができた。

 けれど。すずなはペダルに力を込めながら、心の内で叫ぶ。卒業して、こんなにさびしいとは知らなかったよー‼ 
 俗に言う五月病、その五月を迎えるよりずっと早く、四月の半ば過ぎにはひどく落ち込んでしまった。できることなら、またあの場所に帰りたい。それが〝ホームシック〟というものだ、とずい分あとから聞くまで知らなかった。

「それ、持って帰れ」
 昨日、バイト先の焼き肉屋の店長が、帰り支度をするすずなの前に、ビニール袋いっぱいの余り肉をどさっと置いて言った。
「〝弟〟が来るんだろ」
「あ、ありがとうございます!」
 思わずお客に言うよりも大きな声が出てしまい、店長は声をあげて笑った。

 今夜は、俊と一緒にたらふく焼き肉を食べるんだ。島にいたときだって、こんなに肉を食べたことはなかった。すずなの勤める焼き肉店は、ガイドブックにも載るような店だった。肉の美味しさにだって定評がある店なのだ。俊、きっと喜ぶだろうなぁ。彼のわしゃわしゃっとした笑顔を思い浮かべると、思わず頬がゆるむ。

 腹だけは空くのにさ。ちっともでかくなんないんだよ。俊は自分のお腹をたたいたり、腕で力こぶを作っては、よくぼやいていた。高校でラグビー部に入ったものの、周りの子たちに比べて華奢な彼は、普段の練習からして苦労している様子だった。陸上部にすればいいのに。同じ高校に入って来たとき、足が速かった俊にそう言うと、あからさまにぎょっとした顔をして、そのあと嫌な顔をされた。
 おれは、強くなりたいんだ。相手を打ちのめすくらいにな。走って逃げろ、っていうのかよ。何と戦うつもりなのか知らないが、闘争心むき出しの、いかにも男の子っぽい発想に思わず笑ってしまった。俊は、そんなすずなには目もくれず、空に向けてパンチを繰り返す。ボクシング部でもあれば、よかったのにな。そんなこと言うので、顔ボコボコにされたら、モテないよ。そう言うと、ふと真顔になって言った。
いいんだよ、おれは。そーゆーの。
 照れているのではない。自分は、そういう世界には縁がないのだ。うっすらとした膜のようなあきらめの匂いが、彼全体を覆うとき、すずなの心の中の何かがにじむ。音にならない、しん、としたものが、すずなの中にも広がるのだ。

 すずなは、島の施設から学校に通っていることを隠していた。多分、俊も。
 勉強や部活、バイトなどで忙しく日常を埋めつつも、どこかでは彼氏がほしい、彼女ができたらな、と淡く熱い期待を隠し持っている同級生たちとは、温度が違う。彼らは、自分とは、そもそも立ち位置が違うのだ。出生や生活している場所に秘密を抱えている、というのは、こういうことなんだ。そんな思いがしのびよってくるとき、すずなは自分の手が固く冷たくなっていることに気づく。そんなときは、とっさに手を組み合わせている。自分で、自分を助けるように。そして、何か祈るように。
 島では、いつも祈りと共に日常があった。朝の礼拝と、夕食前のお祈りと。きっと、今夜も温かい光のもとでの晩さんが待っている。コルクボードにはられたメニューを見て、今日はかぼちゃのグラタンだ、と小さい子たちは喜んでいた。そんな光景を想像すると、次第に心が落ち着いてくる。お腹の底が温まってくる。そして、思うのだ。わたしは、きっと大丈夫、と。

 一学年下に俊が入学してからは、よく放課後、グランドでラグビー部の彼を探した。すずなは水泳部だったので、それができたのは夏以外だったが。基礎体力づくりで学校の外周を走ったり、校庭前のアスファルトで腹筋や腕立てをやっているとき。遠くに見える縞々のユニフォームの中から、俊を見つける。体が小さめなので、わりとすぐ見つかる。

 がんばってるな。
 ただ、遠くから、そう思う。

 同じ場所に帰る家族のようなものなのに、学校では、ひと言も話さない。接する機会もない。自分たちが同じ場所に帰るとは、たぶん自分の同級生も、彼の同級生も知らない。
 もしかして――知っているかもしれないけれど、そういう扱いはされない。息を潜めるようにして淡々と高校生活を送ってきた。同級生たちが、光の輪を帯びてまぶしく見えることがある。あぁ、自分とはまるで違う輪の中にいるんだな。この、にぎやかな女の子たちは。そう思う。青春、なんて言葉があるけれど、それはだれのためのものなのか。少なくとも自分にとっては、縁のない言葉にしか思えなかった。

 今回、ゴールデンウィークを利用して俊が神戸にやって来たのは、単なる遊びではなく、来年卒業したらどうするか、どこに住むのか、を調べるためだと先生から聞いた。十一時半くらいには着くから。俊本人からは、そんな簡単な連絡しかなかった。彼らしい。


 久しぶりに会った俊は、何か妙な感じがした。制服姿でもない、みんなといるわけでもない。思えば、俊とこうして二人で会うことなんて、島を出るまで一度もなかったことに気づいた。
 俊は、いつも着ているパーカーに破れたジーパン、お気に入りのコンバース、という見慣れた格好だったが、何か落ち着かないそわそわした雰囲気で、駅の出口に立っていた。
 軽く手をあげると、よぉ、と照れくさそうに言ってから、近づいてきた。気をまぎらわすためだろうか。ガムをくちゃくちゃかんでいる。元気だった? と聞くと、まぁな、とそっけなく答えた。こっちは、久しぶりに慣れた顔に会えて嬉しくってたまらないのに、こうもテンションが違ってはがっくりしたが、すずなは大人しく、彼の歩調に合わせてペダルを逆こぎした。
そっちも元気そうじゃん。しばらく歩いたところで、俊が言った。少し耳から頬が赤く染まっている。怒ってるように、顔を染めて何か言うとき。それは、俊が何か相手にとって良いことを言おう、とがんばっているしるしだ。

 子どものときから、そうだ。そんな表情を目にすると、くすぐったいような、すっぱいような何とも言えない気持ちになる。そして、その気持ちがもれ出ないように、つい、口を引き結んでしまう。先生たち、心配してたぞ。ぽつん、とそんなことを言うので、はっとする。そうだった。激しく落ち込んだ四月半ば、あまりにさみしくって、夜中に子ども園に電話したのだった。
 自分は何もできない、この先やっていけるか分からない、そう不安をぶちまけてしまった。電話を受けた克子先生は、ひどく心配して、その後二、三回電話をくれた。最後の電話のとき、俊ちゃんを遊びに行かせるから、と言った。何か、神戸の町を見てみたいんですって、と。

 
 すずなの部屋に一歩入ったとき、俊はさらっと部屋を見回して、こざっぱりしてんな、と言った。なるほど、すずなの部屋は、その年の子の部屋にしては殺風景だったかもしれない。うすい水色とベージュのストライプのカーテンに、百円均一で買ったモノトーンのプラスチック製品が基本。彩りがやたら少なかった。
 俊が、特に深い意味で言ったわけではないことぐらい分かっていた。けれど、寮の続きのようなこの空間に、すずなは急に気恥ずかしさを覚えた。自分の部屋があったのは、はるか昔。そこだって、どんな彩りのものがあったのか、はっきりと覚えていない。

「パン食べたら、どっか行こ」
 話題を変えるように、すずなは部屋にあがって冷蔵庫へ向かうと、牛乳とオレンジジュースを取り出した。どっちがいい、と聞くと、俊は少し迷ってから、牛乳、と言った。
「どっか行きたいとこ、ある?」
 すずなは、買って間もない小さなガイドブックを俊に手渡すと、バゲットをごりごりと切る。香ばしい匂いが鼻まで届く。
 俊は、ぱらぱらとガイドブックをめくっていたが、あるページで目を止めた。じっと見入っている。
のぞいて見ると、南京町のページだった。


 ゴールデンウィークの初日、晴天の下の南京町は、人でいっぱいだった。南京町は、すずなも来るのは初めてだった。神戸に移り住んでから、おしゃれなショップは行ってみた。
 雑貨屋や洋服店などは一人でも入りやすくて、何を買うわけでもなく、目で楽しんだ。さみしくなると、港の方も時々行った。青空に抜けるような海洋博物館やポートタワーの美しさに感動して、あの海の向こうには島がある、と自分をなぐさめた。
 けれど、南京町は、一人で来るところとはちがう、となぜか初めから思っていた。わいわいと修学旅行生や若者たちが、楽しそうに買い食いする町。チャイナのようににぎやかで極彩色の町。
 実際目にした町は、人の多さとむせ返るような熱気で、すずなは気おされた。屋台からは、ちまきや団子を蒸す湯気が立ち込めて、食べ物の匂いが充満していた。町自体が、生命力を持っているようだった。
 俊とすずなは半ば口を開け、つかず離れず、時には肩をくっつけあって、人混みの中を歩いた。セーラー服を着た少女たちが、タピオカジュースを片手に、きゃっきゃと通りすぎる。カップルが肉まんをほおばりながら、肩を寄せ合って笑ってる。最初は気おくれしていたすずなも、次第に気持ちが乗ってきた。そして、思った。俊がいてくれてよかった、と。やっぱりここは一人で来るところじゃない。
 様々な匂いに誘惑されて、彷徨うように町を行く。すべては極彩色の中に流れていく。何て楽しいんだろう。

「ね、何か食べようよ」
 少し鼻を上に向けて俊に言うと、おぅ、と乗り気の返事をもらった。ごま団子かなぁ、いや、でもあの肉まんみたいなの、気になる。皮がふかふかと厚く、てっぺんに向かってかわいいしわ模様が寄っている。カゴの蒸し器の中に、ひよこのようにびっしりと並んでいる。看板には、包子という表記の隣に、カタカナでパオズ、とある。
「それ、二つください」
 まとめてお金を払おうとすると、俊は、黙って割り込むように自分の分を出してきた。

 アジア雑貨屋をひやかして、おもちゃと本がごちゃまぜに置いてある本屋で遊んで、アパートに帰る頃には、何だかおなかいっぱいな気分だった。俊は、人とモノに酔った、と言って、すずなの部屋の真ん中にごろんと大の字になって寝ころんだ。

 わたしたちには、自分の部屋もなかった。家もなかった。本物の家族とショッピングセンターへ行ったこともなかった。つつましく、十二、三人そこそこと先生二人で、麦畑と小さな集落しかない島で暮らしてきたのだ。人混みにも、目まぐるしく瞬くビルのネオンや看板にも、慣れていなかった。
 次々飛びこんでくる景色に目が追いついていかなかったよ、全く。俊は、両手をだらん、と頭の上にあげてそんなことをいうので、思わず声をあげて笑ってしまった。ひと息入れようと、コーヒーを沸かしに小さなキッチンに向かった。

「おっ。ロフトがあるじゃん」
 後ろで声がする。
「上ってもいい?」
 一応、ひとの部屋だと思っている。こういうところは礼儀正しい。いいよ、と言ってふり返ったときには、もうはしごに半分足をかけていたが。

 六畳間に小さなキッチン、それからロフト。洗濯機置き場はベランダにある。それが、港から二キロ以上離れた山際にあるすずなのアパートだった。ロフトには、海に向けて小さな窓があった。俊は、そこの窓を開けて外を見た。
「なに、思わぬいい景色じゃん」
「見つかったか」

 その四角い小さな窓からは、遠くに神戸の町と港が見える。ちょうど壁にかけた絵のように。家賃が高くてとても町中には住めない、と物件探しはどんどん山へ山へと近寄っていってしまった。せっかくキラキラした町に住めると思ったのに、とため息をついたが、この物件のロフトの窓を目にしたとき、すずなは思わず小さく息をのんだ。ちょうど夕暮れ時で、うす紅色やだいだいに染まっていく神戸の町が、一枚の絵のように見えたのだ。ここにします。その窓から目を離さないまま、答えていた。暮れなずんでいく町は、初めて見る町なのに、なぜかなつかしさを含んでいた。実際住んでみると、近所には大学があるらしく、学生も多く住んでいるようで何だか安心できた。同じような年の子たちとすれ違うだけでも、少しほっとする気がした。

「すずな、すごい町に住んでんのな」
 ちょうど、日が暮れかけるころで、俊の横顔には西日が当たっていた。コーヒー入ったよ、と言いつつ、自分もはしごを上った。今日はよく晴れていたので、夕焼けもきれいだ。遠くたなびく雲が、金色にふちどられている。俊は素直にその景色に感動しているみたいだった。同時に、少しおそれているようにも見えた。それは、すごい町という言葉にもこめられていた。
ふと一年前の自分を思う。まさか、こんな所に一人で住むなんて想像もしていなかった頃。明らかに、自分は今ここにこうしている俊とは違う場所にいる。よちよち歩きだけど、何とか自立への一歩を踏み出している。俊がちょっと眉間にしわを寄せてふり返った。どうしたの? 少し驚いて聞くと、すごく難しそうな顔をして、腹減った、というので、また声を出して笑ってしまった。
 南京町から店をひやかし、駅から離れたこのアパートまで、ものすごくたくさん歩いたのだ。無理もなかった。

 焼き肉をしながら、俊は島の様子を話してくれた。相変わらず下の子たちは元気で、先生たちを笑わせたり、時には怒らせたりしていること。
「そう、新しい子が来たよ」
 俊は、肉に舌鼓を打ちながら続ける。
「小学五年生の男の子でさ。これがまた、ちっともしゃべんないの」
 小学五年生。自分に出会ったときの俊と、同じ年だ。
「なんか漢字とかもあんまり書けなくてさ。時々、先生に頼まれて見てやってんだけどさ、二年生の漢字? もちょっとあやしい」
 話しながらも、俊はごはんをおかわりした。これで三杯目。
「でも、この間やっと笑ってくれたんだ」
 俊は、ここでやっとはしを止めた。すずなも思わずはしを止める。
「一緒にサッカーやってるとき」

 運動場で、下の子たちとサッカーをやっている俊が、ありありとよみがえってくる。男の子たちはみな、俊をお兄ちゃんのように慕っていて、ヒマさえあればサッカーだ、ドッヂボールだとまとわりついていた。どこへ行ってもやっぱり下の子に好かれるたちなのだ。二人きりで島へ来たすずなと俊には、たくさんのきょうだいができた。お兄ちゃんもお姉ちゃんも、弟も妹も。
「それは心を開いたね」
 すずなが言うと、俊は黙って深くうなずいてから、ごはんを飲みこんだ。
「そうだといいけど」
「大丈夫だって。今まで俊になつかなかった子、見たことないもん」

 実際、その見えない能力はうらやましくなるほどだった。男の子ばかりか、女の子も気づくと俊に寄っていく。頼りにもされたりする。
「なに、妬いてんの」
 にやにやしながらそんなこと言うので、べつにそんなんじゃないよ、と言い返す。思わずムキになった声になってしまい、それが少々図星であることに、自身も初めて気づく。焼き肉は、二人で食べきれるのかな、と思うくらいあったが、気が付けばもう残り少ない。俊が最後の牛タンにはしを伸ばしたので、慌てて差し押さえる。わたしまだ、それ一枚しか食べてないから。ハイハイ、と言って少ししょんぼりしたので、粗びきソーセージを俊の方へ転がした。

「すずなだって」
 俊は、ソーセージをつまみながら言う。
「慕われてたじゃん」
 思いのほか優しい響きが耳に届いて、うつむく。島のかわいい子どもたちの笑顔が浮かび、ふと涙腺がゆるみそうになる。

「煙たっ。ちょっと、窓開けるね」
 煙のせいだ。そう言い訳をしながら、ベランダへと続く窓を開ける。
「ずっと、焼き肉屋でアルバイトすんの?」

 俊は、目線を上げずにキャベツをひっくり返している。その言葉が何を意味するのかは分かっている。本当にやりたいことは何なの、と言いたいのだ、たぶん。すずなは、観念したように、ほっとひとつため息を吐く。

「ほんとはね。やりたいことあるんだ」
 ここでやっと、俊は目を上げた。
「子どもに関わる仕事がしたくて」
 すずなはホットプレートの所に戻る。
「公務員しながら保育士の資格取ろうと思ったんだけど」
 肉を焼く音がジュウジュウ、と部屋に響く。
「落ちたの。公務員」
 何となく、受かる気がしなかったからだろうか。公務員試験を受けることは、ほぼ直前まで、先生にさえ打ち明けなかった。もうちょっと早く言ってくれたらよかったのに。克子先生は、少し困ったような、でもそんなこと考えてたのね、と感心したような反応を示した。自分は、いつも、何となくそうだ。本当にやりたいこと、好きなことを、ばしっと言うことができない。それが遠慮からくるものなのか、自分の中で定まっていないからなのか、自分でもよく分からない。

「育ちが悪いの、ばれたからかな」
 一瞬、空気が凍りついたのを感じた。

「ばか言うなよ。んなわけねぇだろ」
 びっくりした。すごく、怒った声だったから。冗談で言ったつもりだったのに。俊は、顔を真っ赤にして、体全体が熱を帯びているように見えた。
 育ちが悪いから。

 すずなは、思わず手を口に当てた。それは、自分に向けてのつもりだったのに、同時に俊にも当てはまることだったのだ、と。

「そんなことで、落とすかな」
 イライラした様子で俊は続けた。

「大体、そもそも育ちが悪いのかよ。あんなに毎日お祈りして、みんなと仲良く助け合って暮らしてたじゃん」

 だんだん、口がとがってきた。
「やましいことなんて、何もない」
 はっとした。俊の目に、うっすら涙がにじんでいる。

「ごめん」
 慌てて言った。
「謝んな」
「ごめんごめん」

 自分も涙目になっていた。俊を、傷つけてしまった。
「謝んなくていいから、もう、そんな自分をおとしめるようなこと、二度と言うな」
 胸をどん、とつかれた気がした。
「もう、自分を傷つけるようなこと、言うな」

 俊の顔をまともに見ることができなかった。傷つけたのは、俊だけじゃなく、自分のことだったんだ――。
 軽やかで、楽しい再会だったはずなのに、たったひとつの言葉がきっかけで、すっかり空気が変わってしまった。何となく気まずいムードで時は過ぎ、そろそろ限界かも、というとき、俊は突然立ち上がり、帰り支度を始めた。
「おれ、もうそろそろ行かないと」
「えっ?」
 まるで今までの空気を断ち切るような声が出てしまった。
「西宮のユースホステルに予約取ってんだった」
 そういえば、泊まるとこどうするんだろう、と密かに思っていたのだが、聞きそびれていた。

 パーカーを羽織ってナップザックを背負った彼は、もういつもの彼だった。きりっとした顔つきですずなを見る瞳には、先ほどまでの怒りや陰りは、みじんもなかった。
「焼き肉うまかった。ありがと」
 そう言うと、玄関に向かった。
「片付け、できなくてごめんな。じゃあな」
 返事をする間もないほど、さっそうと行ってしまった。

 旅人みたい。
 心の中でつぶやいて、ふと思い返す。昔も、どこかでそう思った気がする。あれは、いつのことだっただろう。

 道の向こうには、神戸の町の灯がろうそくのともしびのようにまたたいていた。

                            ©Ai Shimizu

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#創作大賞2025 #恋愛小説部門

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