きみたちがまだ知らないこと【7】2025創作大賞 #恋愛小説部門
五日目の朝の食卓は、何だか始まりから、しーんとしていた。昨夜の事情を知らない俊だけが、何だかいつもと違う雰囲気に落ち着かない様子だった。
わたしたちのうそが、ばれた。それだけでも俊に言っておきたかったのだけれども、別々の部屋に寝ている二人には、意思疎通のひまがなかった。
少々重たい空気の中、最初に口を開いたのは佑さんで、何も疑わずに、すずなたちをここに置いてしまったことの責任を軽く詫びた。
やっぱり、ちゃんとした大人だったんだな。
軽やかな旅する青年ぐらいの印象だった佑さんが、急に遠い人に感じた。もともと会話の少ない圭太さんは初めから近しいとは感じていなかったが、ますます別の世界の人みたいに思えた。一番親身になってくれた有里さんを裏切ったみたいで、胸がぎゅっと苦しくなった。
すずなと俊は、とつとつと代わる代わるに、ここまで逃げてきたことを話した。
その理由については、決して言わなかった。どうして逃げ出したの? と有里さんが聞いたとき、俊が手をぎゅっと握ってきたことに、はっとした。彼の手は、決してそれを口にしない、という強い決意を伝えていた。それは、お前のこともゼッタイ言わないから、という意志も、伝えているように感じた。
心強かった。ここに、同士がいる。わたしだけじゃない。自分たちの仄暗いはずかしめを隠して、生きるために死ぬことから始めるんだ、と言ってくれた同士が。
「ゼッタイに、同じとこには帰りたくないんだ」
俊はうつむきながら、歯をくいしばるように言った。
それから、きっ、と顔を上げた。彼の横顔は、燃えているみたいだった。あぁ、あのときの。すずなは、強く手を握られたまま、彼の横顔を瞬きもせずに見つめた。
あのときと、おんなじだ。ホームで見たときの、あの印象と。
燃えるような野生のライオン。
「おれには、家族はいないんだ。だから、もう、どこへ行ったっていいんだ」
そのとき、本当に彼のバックに草原を見た気がした。広い広い地平線。さびしいほどに、果てしない大地の向こう。彼は、その向こうへ行きたがっている。
「でも、じゃあ何で、この島へ来たの?」
緊張を破って、最も素朴な質問をしたのは、有里さんだった。
「それは……」
俊が、自分の頭の中の遠い記憶を見るように、視線をさまよわせた。
「ほんとにちっちゃいころ、母ちゃんと来たことがあるから」
でもその島は、ここだという確実性はまるでないのだ。どこにあるかも分からない、思い出の中の島。それを、俊の口から言わせるのは、何だか残酷な気がして、すずなは、その思い出の島が何というのか、立ち寄ったみかん農家の名が何というのか、手がかりらしいものは何もないことを告げた。
その場にいる全員が、途方に暮れていた。柱の鳩時計だけが、いつもと変わらず時を刻んでいた。
とりあえず、この島にあるみかん農家を回ってみる。それが、途方に暮れてしまったみんなに対して出した、佑さんの案だった。
仕事が休みだった佑さんが、つきあってくれることになった。みかん農家は、その島に五軒ほどあった。佑さんが自転車を引いて、その横を俊とすずながとぼとぼ歩いた。坂道を上ったり下りたり。
けれど、どのみかん農家を訪ねてみても、俊の目の色は変わらなかった。最初の三軒は、ここ? とおそるおそる聞いていたすずなも、あとの二軒を訪ねるころには段々あきらめが入って、聞かなかった。一応、ここがこの島最後のみかん農家だけど、と佑さんが言ったが、俊は何か怒ったような表情のまま、黙っていた。夏の日は照りつけて、みかんの葉はぎらぎらしている。
宿に帰る道の途中で、佑さんが古い商店に寄ってアイスを買ってくれた。そこでやっと、俊は、ありがと、と短く言って顔をあげた。
「そんな簡単には見つからないもんだな。でも、小さい時の記憶をたよりに、ある場所を探すなんて、何だかいいね」
ふわっとした風が起こった気がした。佑さんの方から吹いてくる。それは今、こうしていることを肯定してくれている優しい風だ。
そう、出会ったときから。佑さんは、楽しそうだね、それはいいね、と言ってくれたのだった。
改めて、この風の中一緒に歩いている佑さんを見た。世の中の大人が、みんなこんなだったらいいのに。ソーダアイスの冷たさと爽やかさがのどを下りていく。
それとともに、すーっと心の中の雲が晴れていくような気分に見舞われた。俊は、ただ黙ってもくもくとアイスを食べていた。最後、棒までなめきったとき、突然、大声で叫んだ。
「あっ! 当たり‼」
一瞬立ち止まった佑さんは、びっくりしたあと、急に相好を崩して言った。
「そりゃ、ラッキーだな。いいこと、あるよ」
明日、一緒に、児童相談所に行こう。
それが、佑さんがすずなと俊に出した答えだった。きっと、そうなるんだろう、と心のどこかでは思っていた。佑さんの中ではもうそう決めていて、だから最後の冒険につきあってくれた。すずなにはそう思えた。
きっと、いい方向に進むよ。民泊に帰ってきてすぐ、玄関で靴を脱ぎながら、佑さんは言った。すずなは黙って、佑さんの顔を見た。どこにもうそのない、穏やかで優しい顔だった。
その日の夕ご飯は、ちょっと特別だった。有里さんが集落の魚屋で新鮮な魚介を買ってきてくれて、フライにしてくれた。島でとれたレモンが、食卓を彩った。獲れたてのスズキとキスのフライは、身がぷりぷりしていて、今まで食べたどんな魚よりも美味しかった。
夕食後、圭太さんが自分の部屋からノートパソコンを持ってきて、食卓で開いた。圭太さんは、カタカタとキーボードをたたいている。隣で佑さんが画面をのぞきこむ。
「前、頼まれて作った自治体のホームページなんだけど」
マウスを操作する圭太さんの隣で、佑さんが画面をにらむように見つめる。
「ここ」
クリックしてから圭太さんがつぶやいた。
「すずなちゃんみたいな子どもたちが暮らす場所なんじゃないかな」
その夜、すずなはなかなか寝付かれなかった。下では、まだ圭太さんと佑さん、有里さんが、ネットで調べたり、話し合ったりしてくれている。
時々、電話の声も聞こえた。階下が静かになって、夜が深まるころ、有里さんが部屋にやってきた。そっとふすまを開け、メイク道具のポーチを取り出して、肌のお手入れをしている。暗い中で、ぴたぴたと肌を軽くたたく音が響く。すずなは寝返りを打った。
「……眠れないの?」
静かな有里さんの声がした。すずなは返事をしないまま、体を少し丸めた。いろんなことが不安だった。これから自分は、どんな所へ行くのだろうか。聞こえるはずのない波音が、聞こえるようだった。波に押されて、不安定に揺れる小さな舟。自分一人で、そこに丸まって目を閉じている。そんな風に感じた。帰ったほうがいいのかも。遠く離れてしまった自宅のマンションも思った。けれど、誰もいないあそこに帰るのも、何かぞっとした。今は、とにかく誰かといたかったのだ。居心地のいい誰かと。ここでのつかずはなれずの感じで。
有里さんが、隣の布団に仰向けに寝転んだ。
「良さそうなところ。二人が見つけてくれたから、大丈夫だよ」
有里さんは、すずなの方へごろんと向きを変えた。すずなは、有里さんの顔と反対側を向いていた。後ろから、そっと優しく、髪をなでられた。
「きっと、大丈夫だよ」
暗い、かすかに波の音がする中で、有里さんの声は月の光みたいに優しくすずなに届いた。ふいに、胸の奥の方にたまっていた重くてかたくなな何かが砕けた。そして、すずなの口からこぼれ出た。
「さわられたの」
有里さんの手が、止まった。
声がつまって、続きは言えなかった。そんな、優しい手じゃなかった。もっとなまめかしくて、悪い意志を持った手だった。すごく、怖かった。怖かったんだ。そう今、はっきりと自覚した。
お父さんに殴られる怖さは、嵐の中に放り込まれるようなものだった。でも、過ぎ去れば、何もなかったかのように日常が戻ってきた。
けれど、職員の男の人にさわられた怖さはもっと違った。まるで自分の肌にどす黒い毒が刻まれて、じわじわと体全体をむしばんでいくような怖さだった。
それは、決して、消えない。消えないどころか、体の奥深くで、増殖していくのだ。もう、今までの自分とは、体が変質してしまった。醜く、みじめな体に変わってしまった。
そう思ったら、自分がみじめで可哀想で、ぎゅっとつぶった目から涙が出てきた。こんなに優しくだれかに触れられたことが、あっただろうか。思い出せない。
「よしよし」
暗闇の中で、有里さんが言った。そして、一たん止めた手を再び動かした。
「よしよし、いい子、いい子」
ゆっくり、丁寧に、愛おしむように、ずっと黙ってすずなの髪をなでていてくれた。
次の日、朝ごはんを食べたらすぐ、佑さんと有里さんに付き添ってもらって本州にある児童相談所へ向かった。元いた児童養護施設に児童相談所が連絡をとり、何か複雑な話し合いが行われていたようだ。佑さんが付き添ってくれたのは児童相談所までで、病院の勤務があるから、と駅で別れた。
「元気でね」
佑さんは、二人の肩を両側からしっかりと抱いてくれた。思わぬ強い力に、すずなは少しよろめいて俊と肩が重なってしまった。駅の反対側のホームから、佑さんが大きく手を振った。きっと、もう、二度と会うことはないんだろう。その姿を、くっきり目に焼きつけておこう、と思った。
三人は、佑さんとは反対方向の電車に乗った。そしてまた、船に乗った。海は少し荒れていた。
「すごい風‼」
有里さんが髪を押さえながら大声で言った。「光の島 こども園」。それが、これから向かう場所の名だった。近づいてくる島は、今までいた島より少しだけ大きかった。濃い緑の中に、灰色や赤茶の家が転々と見える。
船を降りて丘を登っていくと、ぽっと開けた土地に出た。三人は、思わずそこで立ち止まった。広いなだらかな土地に、薄茶色のつんつんした草がどこまでも続いている。
「わぁ、これ、何」
俊が、目の前の景色にぼうぜんとしたようにつぶやいた。
「麦だね、刈り入れ後の麦畑だよ」
日に照らされて、少ししなびて、でも黄金色に続く丘。
「あの、こんもりした森の向こうみたいだよ」
先を行く有里さんが、振り返りつつ言った。森の中の石段を上ると、建物の屋根が見えてきた。三角に尖った、風変わりな屋根だ。
その建物の全貌が目に入ったとき、すずなは思わず、大きなため息をついた。そして、こうつぶやいた。船みたい。心の中だけで言ったと思ったのに、その声は一緒にいた二人にも届いていた。うん、そうだね。船みたいだ。俊が言った。
ざわざわと暗い葉が揺れる森を背景に、その建物は船の舳先のように天へとその屋根を突き上げている。白いシンプルな壁は、曲線を描いて後方に続き、まるで本物の船体そのものだ。正面のごく低い所に木の扉があり、そこが入り口となっているようだ。
「入っても、いいのかな」
ん、と有里さんが短く言った。ううん、とも、うん、とも聞き取れる言い方で。そっと、扉を押してみた。木のドアは、ぎいっと音を立てて開いた。暗い中を進みゆくと、両側に並ぶ長椅子の奥に祭壇が現れた。十字架がかかげられている。
「教会だったんだ」
有里さんの声が内部に響いた。外から見るよりも、天井はずっと高く見えた。有里さんの声が空気に溶けて四方八方に散らばった。その広々とした空間は、静けさの中に余韻をたたえていた。三角形に尖った屋根は高くて遠く、天国への入り口みたいに見えた。カビのような匂いと、ひんやりした冷気が辺りを包んでいた。反り返るように天井を見上げていたので首が痛くなってしまい、ガクッとうなだれてから隣を見ると、有里さんが手を組んでお祈りをしていた。何を祈っているんだろう。すると、有里さんは手を解いてすずなを見て、にっこり笑った。
「こういう場所に来ると、敬けんな気持ちになるね」
「けいけん……?」
そう問い直したとき、後ろでギイッと戸が開く音がした。年老いて少し腰の曲がったおばあさんが入ってきた。手にはほうきとちりとりを持っている。
有里さんが「光の島 子ども園」を探し訪ねて来た旨を話すと、おばあさんは外へ出て道を教えてくれた。教会の裏手の道を少し下ったところにあるという。
砂利道を行くと、赤茶色の屋根の建物が見えてきた。門の前まで来ると、有里さんは立ち止まって、すずなと俊に向き合った。リュックから紙袋を取り出すと、二人にそれぞれ手渡した。
「これ」
ペラペラの紙袋に、そっと手を入れて中身を出すと、写真が何枚か入っていた。
夢中でスイカを食べる顔。お風呂上がりの少しびっくりした姿。俊と二人で和室でごろごろしている姿。そして髪を少しつまんで、じっとその先を見つめている斜め横の顔。
「その写真、嫌がってたけど、どうしても入れたくて」
有里さんがうつむいて、声をしぼり出すように言った。
「ごめんね、でも、私が撮った中では、一番だ、って思ったから」
少しだけ声が震えて、勇気を振りしぼっているのが分かる。
「私、その写真、好きだよ」
有里さんは顔を上げて、すずなを見た。
もわもわっと盛り上がった有里さんの髪が、ぼうぼうと風をはらんだ。
くせっ毛が嫌いだから。
写真を消して、と騒いだ後、その言葉をぽつん、と言ったのは、いつだったか。有里さんは、その言葉を肯定も否定もしなかった。そのかわり、わたしもそうだったな、と言ったのだった。自分より、ずっと強いくせっ毛の有里さんは、そう言ったあとも今も、ただ黙ってすずなを包み込むように見つめていた。きっと、どこかでふわりとその壁を乗り越えた、そんなさり気ない強さをたたえて。
有里さんは、すずなと俊に一歩近寄ると、二人の頭に手を置いた。そして、照れを隠すように、くしゃくしゃっと、なでた。
「幸せに。幸せに、なるんだよ」
出会うはずのなかったような行きずりの人に、思いがけず魔法をかけられることがある。
幸せに。幸せに、なるんだよ。
その言葉と、くりくりと頭をなでられたことは、すずなが最初にかけられた魔法だった。
たぶん、俊にとっても。
一通りの手続きを終えて、有里さんはひとり丘を下っていった。佑さんみたいに、手を振ったりしなかった。
人知れず、涙をこらえていたのかもしれない。手続きを進める彼女の手が、時折り不自然に止まり、かすかに鼻をすすったような気がしたから。
俊は、やたらしおらしく、神妙な顔をしていた。有里さんが、丁寧に自分たちのために書類を書いてくれている。それは、幸せに一歩一歩道を開いていくための書面のように思えた。
幸せに。幸せになるんだよ。
そういう思いをこめて書いたよ。
そんな有里さんの心の声を、すずなは聞いたような気がした。
何かを言いたかったが、言葉が見つからなかった。
事務的な作業が進められる中、まるで自分の心も身体も準備ができていない。そんな別れだった。そして、それは今気づいても、すべて遅い気がした。
もうすぐ丘を下りきってしまって、その姿が見えなくなる。見えなくなるその前に。すずなは祈るように、心の中でつぶやいた。
有里さん。
わたし、幸せになるからね。
©Ai Shimizu
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