「生成AI」利活用は児童を思考させたのか─認知オフローディングと授業の観点
はじめに
以前、「こういう試みもあるのか」と興味深い授業について、記事を書いた。
同じ教員が、マイクロソフトも絡んだイベントで、授業公開をしたらしいレポート記事を見つけた。
本来、私は1回の授業公開で、その授業価値や実践者の授業方法を判断はしたくない。
単元計画、その授業へ至るためのレディネスなど、背景を知らないと、授業の評価などできるものではないからだ。
ましてや、実際に授業や録画を見たわけでもなく、第三者のレポート記事によるものでの評価などは。
あえて、授業実践での生成AIと思考の関連には違和感しか感じなかったので、疑問点と、私なりの見方を記しておく。
動機は、一番最後に記しておいた。
この授業が「思考」を育てたように見えた理由
結論から申せば、「慎重に捉えよ」でしかない。
(レポート記事中のスライド)およびレポート記事は、授業が高度に成立した印象を与える。
しかし、生成AIが児童の思考の発露にどう寄与したかは慎重に見極める必要がある。
子どもが「自然の厳しさ/優しさ」「希望」などの抽象語を語る
生成AIで創作した別月と5月・12月を比較する
創作→比較→核心質問への回収が既に生成AI抜きで巧妙に授業デザインされている
そのため、外形的には「思考力が発揮された」ように見える。
しかし、
「学習心理学・認知科学・教育方法論を踏まえると、これは生成AIが本質的な『思考力発揮』に寄与したとは言い難い構造を内包していないか」
という疑問しか浮かばなかった。
以下、その疑問を四点に整理する。
1.疑問点1 AIが「問いの生成」を奪っており、思考の出発点が外部委託されている
スライドp.3の「三つの道」のうち、第二ルートは
生成AIの質問に答えながら考える
である。これは、子どもが本来行うべき
どこに違和感を持つか
何を問題として立てるか
どの点を深掘りしたいか
という「思考の第一歩=問いの生成」を、生成AIが提供してしまう構造。
これは典型的な
認知オフローディング(cognitive offloading)
である。
Risko & Gilbert (2016) の定義に照らせば、
認知オフローディングとは
「課題の認知処理を外部に委ねる行為」であり、
「自前の認知能力が使われない状態が形成」される。
この授業(単体だけで見れば。それ以前の単元での学習や経過は不明)だけでは、
児童の「内発的な問いの生成」の経験を著しく減少させる可能性が高い。
結果として、
思考の核心部が育たない構造的危険を抱える。
原著だが、Abstractしか公開されていないことに注意。
Risko & Gilbert (2016) Cognitive Offloading
https://www.cell.com/trends/cognitive-sciences/abstract/S1364-6613(16)30098-5
簡単な説明がされたレビュー論文。
Poonam Malik(2020)Cognitive offloading : an emerging concept A review
https://www.researchgate.net/publication/342077294_Cognitive_offloading_an_emerging_concept_A_review_study
2.疑問点② AI創作物が「比較思考」を代替し、思考プロセスを浅層化している
第三ルートの
AIによる別月創作
は、一見、比較の材料を豊かにするように見える(例:8月・6月・9月など。スライドp.5–8)。
しかしこれは、
本来自分で構成し比較すべき素材を外部生成物に「置き換えている」
ため、次の問題が生じる。
1 比較対象の「生成」自体が外部化
比較は、本来二段階で成立する。
(1) 材料(調べるもの)を自力で構成する
(2) その材料を分析する
生成AIは (1) を完全に代替してしまう。
つまり
比較という高次思考の半分が生成AIに外注されている
ことになる。
2 「生成AIが作った差異」に思考を誘導される
生成AIが生成した物語は、必然的に「生成AIの解釈のクセ」を反映する。
すると、児童の思考は
生成AIが生んだ差異
生成AIが提示した構造
に引きずられる/乗っ取られる形で進む。
これは教員にとってはコントロールしやすいが、
学習者にとっては「与えられた差異を評価する」だけの活動に化けやすい。
結果として、
比較の深まりは「生成AIの生成物が持つ構造の深さ」に依存することになり、思考力発露の本質を外す。
3.疑問点③ この「三つの道」は“浅層インクルージョン(inclusion in appearance)”であり、質的公平性を破壊していないか
スライドでは「どの道を選んでもよい」(p.3)と書かれ、
レポート記事でも「救い」とされている。
しかし、この三ルートには構造的不均衡がある。
1 AIルートは『低負荷・高成果』
AIの質問に答える
AIが創作した文章を比較する
→ 認知負荷が劇的に軽い。
2 自力ルートは『高負荷・低成果になりやすい』
自分で問いを作る
自分で創作する
自力で比較の視点を探す
→ 深い思考が必要で、時間もかかり、アウトプットは不安定。
3 発表や文章の「見え方」は生成AIルートの方が有利
レポートによれば、AIルートの子ほど
「自然の厳しさ」「希望」といった抽象語を語る傾向がある(p.3–4)。
しかしこれは
生成AIが生成した差異を利用すれば表面上「深い発言」がしやすいから
であって、認知的労力を児童自身で負った結果ではないのではないか。
4 「負荷の非対称性」が包摂性を破壊している
本来のインクルーシブ教育とはなにかを、ある一面で捉えれば、
条件を整えて、
誰もが「同等の認知経験」にアクセスできるようにする
ことである。
しかしこの三ルートは、
認知負荷の差
外部委託の量の差
思考プロセスの深さの差
をむしろ拡大する。いわゆる『生成AIのマタイ効果』の裏返しである。
(以前にも、大学入試の話で記事を書いたが)
したがって、
これはインクルーシブではなく、
「外形的な寛容を装った学習経験の不均質化」
とみなすことができないか。
4.疑問点④ 認知不協和(学習の核)が、生成AIによって「消されている」
『やまなし』の読解は、本来、
クラムボンとは何か
5月と12月の構造的差異は何か
語り手の視点はどう動くか
といった「認知的不一致」を通して深まるものだと考える。
しかしこの授業では、
生成AIが質問で道筋を与え
生成AIが別月の情景を作り
生成AIの生成物に沿って比較が進み
教員が最終的に核心へ回収する
この連鎖によって、
本来の不協和たる「フラストレーションの位相」が抜け落ちることになる。
認知科学的に言えば、
「思考のストレッチを促すべき不協和が、外部システム(=生成AI)によって平滑化された」
状態である。
これは、
学習者がつまずくべき地点でつまずかない
悩むべき地点で悩まなくて済む
再構成すべき概念を自力で作らない
という、学習の核を削り取る構造を意味するのではないか。
まとめ:この授業は生成AIが「思考力」を発露させたのではなく、「思考したかのように演出した」に近い
深い思考とは:
問いを自ら立て
材料を自ら構成し
不一致を経験し
再構成し
言語化する
という「認知プロセスの自力循環」である。
しかしこの授業では、
そのプロセスのうち 「最も負荷が高い部分」 が教員の発問と生成AIに外部化されている。
結果として、
表面的には深い発言
実質的には浅い認知サイクル
子どもによって負荷が異なる不公平
依存発生のリスク
認知不協和の喪失
が同時に存在している。
したがって、
この授業は「思考力が発露した授業」ではなく、
生成AIによる認知オフローディングによって
「思考がなされたように見える状態」を教師が巧みに演出した授業
と位置づける方が、理論的には妥当でないか。
リポート記事の作者は、どうも極端な「ICT、生成AI推進派」の有能なベテラン教員であるようだ。
しかし、「推進派」のバイアスを抜いてすら、有能なベテランの教員を欺くかもしれない、ということは、おそらくは教員経験の無い者や、教員でもまともに学んでいない者、にとっては、
「生成AIを利活用した思考を発露させるとんでも無く凄い授業」
と価値づけてしまうかもしれない危険性を孕む。
おそらく、授業者も、レポート記事執筆者も、私も、同じ山頂を目指しているとは思う。しかし、その登攀ルートは異なると感じる。
私は、「生成AI」という未知なる道具が、使い方によっては、人類の、もう少し専門領域に寄せれば、子どもの成長、学校教育にどのような影響を与えるのか、複合的に眺めたいのだ。
できるだけバイアスを抜いて。
大人がさまざまな角度や領域、専門性から、持てるものを検討して、
「いかに有益に使うか」
「いかに走りながら熟慮をしながら最適解を導くか」
ということは、教育に携わる者の責務だろうと考えるからだ。
生成AIで、「批判的思考力が減じられる/より必要性がある」という割には、批判なく賛同している教員や教員以外の人、生成AI関係者が多いようであるが、私の記事で、「批判的視点」が提供できれば、幸いである。
追記:結局、本丸は鈴木教諭や所属組織の「ICTとインクルージョン」が主眼であって、インクルージョンの文脈に沿っての生成AI利活用の必然性を意味付けている。故に、次の記事で述べるが、生成AI利活用がなくても、十分に授業の中に、思考ができるように埋め込まれていることは見抜かねばならないように感じた。
