俳優税と観客席
――呼び出される身体、名指される視線
かつて、舞台に立つ役者は『俳優税』を納めなければならなかった。
税を払うという行為は、単に収入への課税ではなく、役者として存在することの登録であった。
役者は、自らの名と居場所を官庁に届け出て、初めて『舞台に立つ資格』を得たのである。
同じ頃、観客もまた『観覧税』『入場税』を通して、鑑賞者として記録される存在だった。
つまり、演者と観客はともに、舞台に関わった瞬間に国家の名簿に書き込まれる身体だった。
舞台とは、いつも自由の場ではなく、『誰がそこにいるか』を常に把握したがる装置である。
表現は、つねに誰かに見られている。
そして重要なのは、見ている者が姿を現さないことだ。
ここに、パノプティコンの構造がある。
監視者は塔の中に姿を見せず、監視される側は『見られているかもしれない』という可能性を内面化する。
その結果、人は自ら振る舞いを調整し始める。
自らが自分を監視する身体として作り替えられてしまうのだ。
寺山修司は、この構造を『劇の内側』に引きずり込んだ作家である。
寺山の劇では、観客はただ『見る者』ではなく、常に指名される者となる。
『六列目、右から五番目』と呼ばれたとき、その番号は、身体と視線と責任を結びつける魔法の地点となる。
寺山の『観客席』は、観客の身体を『座席に固定すること』から始まる。
暗闇の中で、観客は舞台を『見る』のではなく、『見られている可能性』を生き始める。
そして、これは過去の話ではない。
俳優税も観覧税も廃止された。
だが、構造は生き残った。
名前を変えただけで。
いまは『源泉徴収』と『マイナンバー』と『インボイス制度』が、その役割を担っている。
誰が舞台に立ち、誰が公演に関わり、誰がチケット代を支払い、その収益がどこへ流れたかまで、体系的に追跡できる仕組みが整っている。
つまり現代では、『舞台に立つ者』だけでなく、『舞台を成立させる経済行為そのもの』が可視化される世界になった。
見られるのは演者の身体だけではない。
帳簿・請求書・履歴・そして座席番号までもが、ひとつの観客席である。
だから、あなたはもう『観客』ではない。
あなたは、その椅子に座った瞬間、寺山の劇世界に記入される身体である。
あなたは、光が当てられれば浮かび上がり、沈黙すれば共犯となり、笑えば舞台の力になる。
観客は、観客を演じている。
そのことに気づいたとき、演者と観客を分けていたはずの境界線は、静かに溶けてゆく。
ようこそ。
あなた自身の身体が、この劇の一部になる場所へ。

武智倫太郎
