そして誰も恥を引き受けなくなった
文・武智倫太郎
『共感性羞恥』という言葉の謎
その言葉を、私はずっと気味が悪いと思っていた。『共感性羞恥』。最近よく見かける言葉である。テレビでも、SNSでも、心理学記事でも、当たり前のように使われている。だが、当たり前のように流通しているわりに、この言葉はどこか奇妙だ。共感と羞恥という二つの感情が並んでいるのに、そのあいだにいるはずの人間だけがいない。誰が共感し、誰が恥ずかしがっているのかが、きれいに消えているのである。
私は言語の癖を見るのが好きだ。人間は、社会が隠したいものを言葉の省略で処理する。たとえば戦争では、人は『誤爆』『衝突』『事態』と言う。そこから消えているのは、『誰が殺したか』だ。言葉が便利になるとき、たいてい責任も一緒に省略される。では、『共感性羞恥』という言葉では何が省略されているのか。私はずっと、そのことが気になっていた。
この違和感を最初に鋭く言葉にしていたのは、神宮綾の文章だった。神宮綾は『生き恥という沼に咲く紫の新種 Suno歌「ルイジアナ・エモイサ」』の中で、『共感 〇〇 羞恥 のあいだに、なにを入れればいいのか迷う』と書き、さらに『羞恥に共感する存在が、このことばの中には、ない』と指摘している。そして『主体のない共感がぐるぐるまわる令和の世』という一文で、この語の不気味さをほとんど言い当てていた。私のこの文章は、その違和感から出発している。『共感性羞恥』の定義を確定したいのではない。寧ろ、なぜこの奇妙な言葉がここまで自然に流通してしまったのか、その社会の文体そのものを考えてみたい。
私は言語の癖を見るのが好きだ。人間は、社会が隠したいものを言葉の省略で処理する。たとえば戦争である。人は『誤爆』『衝突』『事態』と言う。そこから消えているのは『誰が殺したか』だ。言葉の省略は、そのまま責任の省略でもある。では、『共感性羞恥』という言葉では何が消えているのか。
本来の構造は単純である。私は他人に共感し、羞恥を感じる。しかし『共感性羞恥』という語に圧縮された瞬間、その構造は『共感があり、羞恥が生じる』という自然現象のような形へ変わってしまう。そこに主体がいない。誰が恥ずかしいのか、誰がその感情を引き受けているのかが消える。感情だけが残り、その感情を担う者だけが消えている。
アダム・スミスは『道徳感情論』で、人間の道徳は共感から生まれると書いた。他人の苦痛を想像し、それを自分のもののように感じる能力が社会を成立させる。しかし、その共感は単なる感傷では終わらない。他人の視線を想像し、自らを律する羞恥を伴う。羞恥とは、社会のブレーキだった。人は恥を感じるから踏みとどまり、見られていると知るから自分を整える。つまり本来、共感は羞恥を生み、その羞恥が人を自らの行為へ立ち返らせるはずだった。
ところが現代の共感は少し違う。SNSでは毎日、誰かが晒される。失言、炎上、失敗。人々はそこに集まり、『見てられない』『恥ずかしい』『共感性羞恥』と言う。だが、そこで起きていることは本当に共感なのだろうか。
ルネ・ジラールは、人間は欲望だけでなく感情も模倣すると考えた。怒りも、恐怖も、嫌悪も、群衆の中で増幅し、最後には一人の犠牲者が生まれる。スケープゴートである。そう考えると、『共感性羞恥』とは共感というより、羞恥の感染に近い。誰かの失態を見た群衆が、その恥を共同で消費し、模倣し、増幅する。その瞬間、恥は本人の感情ではなく、群衆の空気になる。
だが、ここで奇妙なことが起きる。恥は拡散するのに、責任は拡散しない。誰も『私は恥ずかしい』とは言わない。人々は『共感性羞恥を感じる』と言う。まるでそれが自然現象であるかのように。つまり、恥は存在する。しかし、それを引き受ける主体がいない。恥だけが空中を漂い、人々はそれを観察しているのである。
そのとき私は、この言葉の正体に気づいた。『共感性羞恥』とは心理現象の名前ではない。社会の状態を示す言葉なのである。この違和感をさらに押し進めて考えると、それが心理学ではなく市場の言葉であることにも気づく。もちろん、ここで言う市場は株式市場ではない。感情の市場である。現代のSNSは、怒り、悲しみ、正義、恐怖、共感を売買する巨大な市場になった。そして、その中でとりわけ回転率の高い感情が羞恥である。人間は自分の失敗にはすぐ慣れるが、他人の失敗には飽きない。誰かが転ぶ。誰かが言い間違える。誰かが社会的に恥をかく。その瞬間、視線が集まる。
これは新しい現象ではない。古代ローマにも公開処刑があり、中世にはさらし台があった。人間は昔から、他人の恥を観ることを娯楽にしてきた。ただ、SNSが登場してから、その構造は決定的に変わった。さらし台には場所が必要だった。公開処刑には国家が必要だった。だがSNSでは、それらはいらない。誰かが失敗すれば、その瞬間に晒され、群衆が集まり『観客席』が完成する。
この構造を半世紀前に見抜いていた人物がいる。寺山修司である。演劇『観客席』では、舞台と客席の境界が崩れ、観る者もまた劇の内部へ巻き込まれていく。観客席とは安全地帯ではなく、劇の内部なのだ。
そしてこの感覚は、ひよさるちゃんの最新記事『螺旋の保存』にも通じている。そこでは寺山修司『観客席』の緊急オーディションに合格し、三十五年越しに舞台へ再接続した経験が語られている。それは単なる公演の記録ではない。長い人生の伏線が回収されるように、その経験が時間の厚みの中で語り直されている。さらに記事は、SNSを『いまこの瞬間を切り売りする場所』とし、noteを『時間をまとめる場所』として捉え直している。つまり『観客席』とは、ただ舞台を見る席ではない。人が長い時間をかけて、自分の位置を引き受け直す場所でもある。
しかしSNSでは、この構造が反転している。私たちは観客席に座っているつもりでいる。だが寺山が示したように、観客席は舞台の外ではない。神宮綾が見抜いた『主体のない共感』は、この観客席の増殖としても読める。人は見ているつもりで、すでに見られている。裁いているつもりで、すでに劇の配役に組み込まれている。『共感性羞恥』という言葉が便利なのは、それが観客席に座ったふりをさせてくれるからだ。だが実際には、その言葉を口にした瞬間、その人もまた照明の中にいる。
ここで、最初の謎に戻る。『共感性羞恥』の犯人は誰なのか。この語を最初に作った人物ではない。心理学でもない。SNSそのものでもない。犯人はもっと単純で、もっとありふれている。責任である。共感と羞恥のあいだに本来あったもの、それが消えたのである。共感はある。羞恥もある。しかし責任がない。そのとき共感は倫理ではなく観劇になり、羞恥は内面のブレーキではなく外部の見世物になる。恥は漂っている。だが、誰も拾わない。誰も所有しない。誰も引き受けない。
ここまで考えてようやく、最初の問いに答えられる。共感と羞恥のあいだにあるべきものは何か。責任である。共感する。羞恥を感じる。そして、その感情を引き受ける。この三つがそろって初めて、社会は倫理を持つ。だが、その橋が落ちたらどうなるのか。共感はある。羞恥もある。しかし、その二つは結びつかず、自己修正へ至らない。恥は出来事になる。商品になる。観客の感情になる。だが、自分を変える力にはならない。
日本語の『恥を知れ』という言葉には、まだ主体がいた。恥を知り、その恥を引き受け、行動を改める者がいた。創世記のアダムとイブもまた、裸であることに気づき、恥を感じ、身を隠した。その瞬間、人間は他人の視線を意識し、社会を始めた。だが現代社会では、人は裸のまま舞台に立ち、群衆はそれを見て『恥ずかしい』と言う。しかも、その恥は誰のものでもない。ここにあるのは羞恥の消滅ではない。羞恥の無主物化である。恥は漂っている。だが、誰も拾わない。誰も所有しない。誰も引き受けない。
『共感性羞恥』という言葉は、だから便利なのだ。感情だけを語り、責任を語らないからだ。共感のふりをしながら、羞恥の引き受けを回避できるからだ。だが、その便利さこそが、この時代の不気味さでもある。この言葉が流通する社会とは、恥が消えた社会ではない。恥が市場に上場され、群衆に回覧され、コンテンツとして消費される社会である。そして、その社会が最後に失うのは、羞恥そのものではない。羞恥を通じて自分を修正する主体である。
結局のところ、『共感性羞恥』とは心理学用語ではない。責任を回避した時代の文体である。感情はある。だが引き受けない。見るが、背負わない。反応するが、関与しない。そのとき、共感は倫理ではなく観劇になり、羞恥は内面のブレーキではなく外部の見世物になる。
寺山修司が見抜いていたように、観客席もまた舞台である。つまり私たちは最初から劇の中にいたのだ。見る者も、笑う者も、恥ずかしいと言う者も、すべて配役である。だが、この劇には奇妙な特徴がある。誰も自分の役を引き受けない。恥だけが舞台をさまよい、責任だけが客席から消える。幕は下りない。観客だけが増え続ける。
そして誰も恥を引き受けなくなった。
参考
