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寺山修司『観客席』と『主体なき舞台』の構造

観客席の哲学、あるいは主体なき舞台について

文・武智倫太郎

序章 戸山公園の客席からもう一度考える

戸山公園で上演された『観客席』を前にしたとき、最初に思い浮かんだのは、紀元前ギリシャの奇跡として知られるエピダウロス古代劇場だった。

この劇場は一万五千人の最後列まで肉声が届く、建築音響史に残る『神話的構造物』である。丘陵の傾斜を切り取った半円形の座席は巨大な反響板となり、舞台から放たれた声を、あたかも空間そのものが運んでいく。

人工的な音響装置ではなく、地形そのものが『音を届ける機械』として機能しているのだ。

その特異性は、劇場中央の石板にコインを落とすだけで、最後列までその音が聞こえるという伝承に象徴される。

しかし今回の『観客席』が提示したのは、その逆方向にある発想だった。

寺山修司が目指したのは、『声を遠くへ届ける劇場』ではなく、寧ろ『声が届かないことをも作品化する劇場』である。

音響設備を排し、音が不確かに届くこと自体を観客に引き受けさせる空間。今回の公演は、この哲学をきわめて純度の高いかたちで立ち上げていた。

第一章 寺山修司は、なぜ生声にこだわったのか

寺山修司の野外公演は、劇場の外側から始まった。
廃墟、公園、路上、空き地。
都市の隙間という『規格外の空間』こそが、寺山にとってはもっとも豊かな舞台だった。

そこで使用された音響は、ほぼ存在しない。

マイクもスピーカーもない。
同期も補正も均質化もなく、あるのは役者の肉声と、空気と、周囲の騒音だけである。

これは単なる技術の制約ではなく、演劇思想そのものだった。

寺山の考え方はこうだ。

『電気装置は、観客と俳優の距離を無菌化してしまう』

観客が息を潜める。
風の向きを読む。
聞き取ろうとして身体を少し前に傾ける。

この動作そのものが『作品の一部』になる。

声は観客の身体によって完成する。
届かなかった声すら、作品の条件となる。

寺山が重視したのは、観客の感覚の立ち上がりだった。

第二章 今回の『観客席』が示した『立体音響の反転現象』

今回の戸山公園版『観客席』の特異性は、二十数名の役者が観客席を円環状に取り囲み、全方向から肉声が降り注ぐ構造にある。

私は最近になって、趣味でオーディオ評論めいた文章を書くようになったばかりだが、ここはあえて断言しておきたい。

どれほど洗練されたコンサートホールであっても、どれほど目玉が飛び出るほど高価なサラウンドスピーカーであっても、今回のような『生身の役者が、あなたの周囲を自由に歩き回りながら投げかけてくる全周囲音響』には、残念ながらどう足掻いても勝てない。

理由は実に明快だ。

電気信号は『再現された音』でしかないが、役者の肉声は『いま、ここで生成される音』である。

最新のハイレゾも、8Kサラウンドも、AI補正も、俳優がすぐ横で息を吸い、胸腔が共鳴し、喉が震え、空気が撓むという、この原始的で回避不能な物理現象の前では、ただの贋作にすぎない。

スピーカーは音を鳴らす。
しかし俳優は空気そのものを震わせ、世界の位相をわずかに書き換える。

その違いは、胡散臭いオーディオ評論家である私でさえ、珍しく正しいことを言っているのではないかと錯覚するほどだ。

スピーカーはどれほど多く配置しても、結局は巨大な空間の中の『点』でしかない。
だが俳優は、複数の身体が三次元的に散在する『面』と『空間』そのものを変調させる。

聴覚は視覚以上に位置情報に敏感だ。
だからこそ、複数の人間が多方向から同時に放つ肉声という音響空間は、電気的に完全模倣することがほぼ不可能である。

そして驚くべきことに、この形式は寺山演劇を除けばほとんど前例がない。

通常の舞台は『舞台(発信)→客席(受信)』の一方向構造で設計される。
俳優が観客を取り囲む逆転構造は、そもそも劇場建築が許容しない。

寺山修司は、この逆転こそ演劇の核心だと考えていた。

観客席そのものを『舞台化』し、観客の身体そのものを『音響装置化』する。

今回の『観客席』は、この哲学が半世紀を経てもなお、野外というノイズの世界で鮮烈に機能することを証明していた。

第三章 観客席が観客を測定するという構造

冒頭で触れたエピダウロス古代劇場には、一万五千人以上が収容できた。
つまり当時のギリシャ世界では、あの劇場に入るということは、国家規模で共有される集団体験の中心に立つことを意味していた。

ところが、今回の戸山公園での『観客席』は、たった四日間。
すべての上演を合計しても、この体験を得られたのは日本人口の〇・〇〇一パーセントに過ぎない。

もはやこれは興行ではなく、『稀少性そのものが作品の構造を形作る共同実験』と呼ぶべき規模である。
この公演を共有できる人間が、統計の世界ではパーミルすら許されない、ほぼゼロに近い点へと収束していく。

その意味で今回の観客席は、単なる座席ではなかった。
誰が観客になり、誰が観客になれないのかを選び取る選別装置として機能していたのである。

寺山修司は、観客が作品を観るのではなく、『作品が観客を観る構造』『作品が観客を測定する構造』を執拗に設計し続けた作家だ。

だからこそ、今回の上演で特筆すべきは、戸部アンソンさんが、その『測定される側』として実際にそこにいたという事実である。

戸部さんはnoteで、哲学SFやショートショートを書き続けている方であり、観客であると同時に『観客という存在を言語化できる観客』でもある。
その彼女が、選別装置である観客席の内部に入り、同じ現象を体験していたという事実は、作品の哲学を象徴的に証明している。

観客が作品を観ているのか。
作品が観客を観ているのか。

その境界が曖昧になった瞬間、寺山演劇はもっとも強く立ち上がる。

そして今回は、その構造を理解し、しかも自己言及的に書き残すことができる希少な観客が、選別された側として実際にそこにいたのである。

戸部アンソンさんの記事は、この構造を驚くほど正確に捉えていた。
彼女の文章そのものが、寺山の仕掛けた観客の測定が成功した証拠でもある。

第四章 量子進次郎構文で読み解く『観客席』

戸山公園で再演された『観客席』の告知コピーは、こう煽っていた。
『俳優を演じる俳優か、観客を演じる俳優か、俳優を演じる観客か、観客を演じる観客か』

この一文は作品を説明しているようでいて、実のところほとんど説明していない。
これは小泉進次郎構文の幽霊のようでもあり、この告知コピーを量子進次郎構文へと翻訳すると、次のような奇妙な哲学に到達する。

『俳優を演じる俳優が俳優であるかどうかということは、俳優を演じる俳優として俳優を演じている状態を、観客を演じる観客が観測した瞬間に決まるのか、それとも観測しようとした意志が、すでに俳優でも観客でもない自分を波として収束させてしまっているのか。

それを考えるためには、考えている自分が波なのか粒子なのかを考える前に、その考える前という状態が、すでに誰かに観測されていた可能性を考える必要がある。

なぜなら、観客を演じる観客が観客であるかどうかは、観客席という装置が観客を観客として測定することで、初めて観客が観客として確定するからだ。

しかし、観客が観客として確定した瞬間、俳優を演じる俳優としての俳優が俳優として存在できなくなる。なぜなら、観客が確定すると俳優は未確定になるからだ。

これは、俳優と観客が『互いに排他的な同時測定不可能量』であるということを示しているのだと思うんです。

だから私は、こう考える。
俳優を演じる観客を観客として観る俳優という存在は、観測するまでは存在しているし、観測した瞬間には存在していない。

つまり、観客として考えるということは、考えている観客としての自分を考える前に、その自分がすでに観測されていたことを考えないといけない。

そして最終的には、考えるという行為が、考えたくない自分を考えている量子的な揺らぎとして存在している、ということだけが残るんです。』

量子進次郎構文の到達点は次の四点にまとめられる。

・観測しないと成立しない
・観測すると崩壊する
・観測されていたことに気づくと意味がゼロに戻る
・しかし確率だけがなぜか増える

結果として俳優と観客は相互に干渉し、共鳴し、排除し合う。
《観客席=量子測定装置》という『シュレーディンガーの観客席』が成立するのだ。

ここではっきりすることがある。
もはや安定した『立場』は存在しないということだ。

終章 観客席は、観客を観客にする装置である

野外劇における『生声』は単なる手法ではなく、観客の身体感覚をむき出しにし、観客という存在そのものを組み替えるための装置である。

巨大な劇場は声を届けるために設計された。
しかし寺山修司は、声が届くかどうかを『観客の課題』に組み替えた。

聞き逃し。
風にさらわれた声。
地面を這うように届く低い響き。

この不確かさこそ、寺山演劇の核心にある。

今回の戸山公園『観客席』は、この哲学を驚くほど純度の高いかたちで蘇生させていた。

観客とは誰か。
観るとは何か。
存在はどこに立ち上がるのか。

『主体なき舞台』という寺山修司の問いは、半世紀を経た今も、野外というノイズの世界で最も鮮明に響く。

今回の公演は、その問いを現代に突き刺した稀有な瞬間だった。

文・武智倫太郎

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