呪願の代償 第五章 地獄 3 バッドエンド・ハッピーエンド分岐
呻きと言うより、嗚咽に聞こえる。声を押し殺して泣く夏生がふすまの向こうにいる。
パパは悲しかったの?
涼々は夏生の嗚咽を聞き、涼々と同じように、一人になってしまったことを嘆いているのだろうかと思った。
夏生と涼々は同じ事で悲しい思いをしている。孤独になるのが泣くほど辛いなら、夏生とこれからうまくやっていけるような気がした。
夏生が殴ってくるのは、体が思うようにならなかったり、昔のように頭が働なくなったりしたせいなのだと思った。殴られるのは嫌だけど、泣いている夏生には同情した。
涼々はこっそりとふすまを少しだけ開けて中を覗いた。
夏生がちゃぶ台に何か破りながら重ねている。遠目から、それが写真か何かに見えた。細かくビリビリと破いている。まるで、遺骨の横に置いていた家族写真を破いたように。
細かく破いてる部分は、もしかすると夏生が写った部分かもしれない。小さく破いて、二度と元に戻せないようにしているのではないか。
もしかすると、夏生は後悔しているのかもしれない。失って初めて必要だったものを知ったのだろうか。
かつて夏生が壊した家族を、取り戻したがっているのか。もう遅いと感じているから、きっと自分の写真を元に戻せないくらいにちぎっているのだ。
涼々は、なんとなくそう感じた。遠慮がちに、小さな声で夏生に声を掛けた。
「パパ?」
夏生がゆっくりと涼々を振り返る。
顔を赤くして、涙を流していた。
やっぱり、パパも寂しいんだ
涼々はふすまを開けて、膝立ちで夏生の寝室に入った。
夏生が泣きながら、四つん這いで涼々に寄ってくる。夏生が両手を広げて膝立ちになった。
もしかしたら、昔の優しかった夏生に戻ったのかもしれない。涼々は夏生の胸に飛び込んだ。
「パパ」
ぎゅっと夏生にしがみつく。涼々の小さな肩に夏生が手を掛けた。大きな手が、肩から首に添えられて、両手で涼々の細い首を絞めた。
え?
気道が塞がれて、涼々は驚いたまま、喘いだ。
夏生がボロボロと涙を流している。
「なんでおまえ達は俺を置いていくんだ。なんで捨てるんだ。月乃も夕季も、俺を置いていった。月乃はおまえ達を俺から奪おうとした。俺が邪魔か。俺がまともに働けなくなったせいか。俺は精一杯頑張った。でも、体が思うようにならない。頭の中がめちゃくちゃだ。昔出来てたことが何にも出来なくなった。月乃が苦労したのは俺のせいか? おまえ達が俺を置いていくのは、腹いせか? 俺はおまえ達がいないと寂しい。寂しいから、おまえを殺して、俺も死ぬ」
嫌だ
涼々は苦しくて足掻いた。夏生の手に爪を立てて引っ掻いた。息が出来ない。血が頭に上る。顔が腫れたように熱く感じる。苦しい。
パパは涼々を殺すんだ。ママと同じように。思い通りにならないから、涼々も殺すんだ
頭の中に言葉でなくて映像が浮かぶ。暴れる夏生。怒鳴る夏生。殴る夏生。変わってしまった夏生の姿が断片的に頭に浮かんで消えていく。
夏生はもう父親ではなかった。涼々は手足をばたつかせて、逃げようともがいた。
もがいている涼々の手に、何か当たった。
冷たくて柔らかな手。なぞるとギザギザに爪先の割れた指の感触があった。その手が冷たくて固いものを涼々の手に握らせた。涼々はそれをぎゅっと摑み、最後に吹き込んだ言葉を思い出す。
パパが死んだら良かったのに
もうろうとする意識の中で、涼々はラムネ瓶の口を夏生に向けた。
パパなんて死んじゃえ!
ラムネ瓶の口から、シュルシュルと渦を巻きながら、灰色のムチムチとした短い腕が生えた。小さな手を夏生の顔にベタベタと当てる。当てながら芋虫のような指が、夏生の肌に食い込んでいった。
夏生の手の力が急に弱まった。その隙に涼々は夏生の体の下から這い出した。ラムネ瓶から無数の手が湧きだし、夏生の顔を覆っていく。
初めて見た時と同じ、灰色の腕の花が、夏生の頭部で咲いて、つぼんだ。
夏生の呻き声が聞こえてくる。頭を押さえて苦しんでいるのが涼々にも分かった。涼々はじりじりと尻餅をついたまま、夏生から離れた。
手が夏生の魂を摑んで引きずり出す。腕の中へ、夏生の魂が吸い込まれていき、やがて足先まで呑み込まれた。灰色の蕾は溶けるように宙に浮いたまま消えた。
残された夏生の肉体がピクピクと痙攣し、うつろな目で涼々を見つめていた。口からダラダラと涎を流して、やがて動かなくなった。
パパが死んじゃった
ラムネ瓶の呪いは、化け物が死んでも活きていた。右手で持った煤けたラムネ瓶を見つめる。
涼々はたくさんお願い事をした。それがもし叶うなら、涼々はもう二度と孤独ではなくなる。
泣き顔をぐいと左手で拭った後、すっくと立ち上がり、自分の部屋に入った。裏庭が見える窓を開けた。
「ママ!」
大きな声で月乃を呼んだ。
闇の中、井戸の上の蠢く黒い蟠りが、涼々に向き直った気がした。
「ママ! パパが死んじゃった。涼々一人になっちゃった」
黒い塊が近づいてくる。微かな月明かりが、暗闇に沈む月乃の姿を浮かび上がらせた。
「ママ」
髪に隠れた顔を涼々に向けて、月乃がか細い声で言った。
『すず』
涼々は窓に足を掛けて、素足で裏庭に降り立った。冬の冷たい地面を足裏に感じる。
「ママ」
涼々は泣き顔で月乃に訴える。
「涼々も連れてって。涼々とずっといっしょにいて」
月乃が黙っている。そのうち月乃の頭がカクンと折れた。
『だめ』
「嫌だ。一人になっちゃった。涼々もママといっしょに行きたい。一人にしないで」
そう言って、月乃に向かって手を差し伸べた。
ゆっくりと、月乃の折れた右手が涼々の手を握った。泥にまみれ、爪が剥がれている無惨な手だ。ラムネ瓶をそっと握らせてくれた冷たくて柔らかな手。
『すずはじゆうだよ』
もう二度と夏生に縛られない。月乃の声はそう言っているようだった。
けれど、涼々は首を振った。
「ママとお姉ちゃんといっしょにいたい」
『どうしても?』
夕季が涼々の隣に立っていた。
『まま すずとゆきを まもれなかった』
いっしょに逃げる前に、夏生に見つかって殺された。
『ゆきを たすけられなかった』
夕季が夏生にが殴られているのに、何も出来なかった。
月乃の声が震えている。
『すず ままといっしょにいくのは だめ』
月乃が沈んだ声音で言った。
『涼々は私達の分も生きなくちゃ』
夕季が涼々の頭を撫でる。
「嫌だよ。ひとりぼっちになりたくない。ママ、もうどこにも行かないで。涼々といっしょにいて。お姉ちゃんと涼々の側にいて!」
しばらく、夕季が口をつぐんだ。おもむろに静かな声音で涼々に話しかけた。
『涼々、私達といっしょにいたいっていう意味を理解してるのか?』
分かってる
涼々は頷いた。
『涼々は寂しがり屋だな』
夕季が困ったような表情で悲しそうに笑った。
涼々は夕季の手を左手で握る。
月乃が井戸の石蓋をずらした。涼々の足元に群がる黒い猫のようなものは、初めて近くで見ると手足のない赤ん坊だった。
『いいのね?』
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