【#創作大賞2024】蒼に溶ける 第2章 ④ 本音
「私も? どういうこと? 私はもうこの歳で……」
だが結依はきっぱりと首を振って、沙和子の言葉を遮った。
「そんなの関係ない。年齢とかそういう話じゃない。極端な話、今の時代は熟年離婚なんて、コンビニの数ぐらいありふれたものなんだよ。特にうちの場合、嫌な話だけどお金の心配だけはないじゃない。財産分与とかをきちんと取るだけでも、先々の生活は心配ないはずだよ。これまでにそういうのは考えたことなかったの?」
沙和子は黙ったまま、娘の顔をじっと見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「――長い間に、そういう考えが浮かばなかったわけじゃないわ。仕事を辞めて、だんだん若くはなくなってきて……これは嫌味じゃないんだけど、やっぱりあなたたちも、昔のようなただ可愛いだけの子供じゃなくなってくる。義理の親の世話をして、夫の顔色を窺って、子供たちの反抗期に向き合って……そのうちに、この家の中での自分の存在価値が判らなくなった時期もあったわ」
結依は一転してバツの悪そうな顔で首をすくめた。
「ごめん。私は口が悪いから、あの頃けっこうひどいこと言ったよね。今となってはほんとに悪かったと思ってる。ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げる結依に、沙和子は苦笑いを浮かべて首を振った。
「それはいいの。そんなのはいいのよ。どこの家でも悩む話だし、今はあなたも大樹も、元気でまっすぐに生きててくれるんだから。ただその頃はいろいろ迷いもした、っていうだけの話」
「――今は?」
沙和子は静かな笑みを浮かべて、ゆっくりと首を振った。
「結局のところ、私には勇気がなかったんだと思うの」
「…………」
珍しく結依が口をつぐんでいるのを察した沙和子は、困ったように笑った。
「結依にそんな顔されると調子狂っちゃうけど……つまりね、今あるものを全部捨てて、自分一人で生きていくっていう勇気が、お母さんには欠けてたの。お金のこととかそういう問題じゃなくて、あくまで自分自身の覚悟として」
「なんか判る気はする。私なんかは、思ったら即、ばーっと行動しちゃうけど、お母さんはそういうタイプじゃないもんね」
「そう。だから私は今のままでいることを選んだ。でもこの家で生きていくのなら、その家のルールに従ってかなきゃいけない。たぶんそれが、今ある形なんだと思うの。あなたはそれが嫌だから、早くに家を出たんでしょう? ある意味では離婚みたいなものなのかもしれないわね。夫婦間じゃなくて、家との離婚って言えばいいかしら」
母親の例えが気に入ったのか、結依はおかしそうに手を叩いて破顔した。
「家との離婚、ね。確かにそうかも。上手いこと言うね、お母さん」
屈託のない娘の反応に半ば苦笑しつつも、沙和子はぽつりと呟いた。
「……でもそれは正解だったのかもしれない。少なくとも、あなたにとっては。私はこの家を出たら、もう落ち着いて暮らせるところはないから……」
結依が驚いたように目を見開いた。ここまで踏み込んだ発言を母親から聞くのは初めてだったからだ。
事実、これまでの沙和子は自分の本音らしいことを口にすることもほとんどなく、むしろ何かと刺激的な発言をする結依をやんわりと嗜めるのが役目のようなものだった。
「お母さんの実家はどうなの? 富山だったよね」
結依が探るように問いかけると、沙和子は静かに首を振った。
「富山を出てからもう40年になるのよ。その間ほとんど帰ってもいないんだもの。もう両親もいないし、そんな土地で一人で暮らしていく自信はないわ。もっとも東京だって、お友達らしい人がいるわけでもないんだけどね」
たとえ同じ環境で暮らしていても、社交派で活動的な結依と違って万事において控えめな沙和子では、導き出される結論も自ずと違うのだろう。
「なるほどね。ならとりあえず、この家でもできることをしてみたら?」
「この家でできること?」
唐突な結依の提案に、沙和子は思わず首をかしげた。そんな母親を真正面から見据えた結依は、再びテーブルの上にぐいと身を乗り出した。
「今からだって自分の意見は言えるでしょう。さっきの、えーと何だっけ、水火葬? ……ねえ、なんでそんな話してんの? それこそまだそんな歳じゃないのに」
沙和子は恥ずかしそうに笑った。
「ほんと、そうよね。でもその時はお祖父ちゃんの葬儀のあとだったから、
なんかその流れで……あのね、私、火葬が嫌いなの。小さい頃から」
幼い頃の火事のことは子供たちには話していない。
沙和子は慎重に言葉を選んで話を続けた。
「なんか小さい頃から怖かったの。でも昔は火葬が当たり前だったのよ。だから親戚の葬儀で火葬場へ行くでしょう? あの頃は今よりもっと火葬場も大きかったから、ずらっと炉が並んで……」
さすがの結依も神妙な顔をして頷いた。
「判る気がする。私もこの前、お祖父ちゃんの火葬に立ち会った時、ちょっと怖かった。私は火葬場に行ったのは初めてだったから」
「そうでしょう? だから水火葬っていうものが世の中に出てきた時は、ちょっとほっとしたの。だからその話をお父さんにしたんだけど……」
「――また特権、か」
母と娘は、顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
「自分の仕事にプライド持つのはお父さんの勝手だけど、それを “家全体の話” にしないでほしいんだよね。家族がひとつの家を構成してるのは確かだけど、一人一人は独立した個人なんだから」
若い結依の中では、それはごく自然な考えなのだろう。だが沙和子にとっては、それが自分の中で大きな壁となって立ち塞がっているようだった。
「そうね、お母さんもそう思えたらよかったのかもしれない。『家と個人は別』ってね。水火葬の話も、火葬が怖いっていうだけじゃなくて、最終的に海へ還ることでこの家から離れて、私自身っていう個に戻りたい気持ちがあるのかもしれないわ」
「ああ、そうか。うちの家だとお墓に入ることになるもんね。もうすぐお祖父ちゃんのお骨もそうするんでしょ? 納骨、だっけ」
沙和子は、そうと頷いた。
「誤解しないでね。この家が嫌で仕方ないっていうわけじゃないの。お父さんはちゃんとお母さんのことを大事にしてくれていたと思う。でもどこか私は、この家に馴染めないものがあったの。それがいつも自分の中で重苦しくのしかかってる気がして……ただそれは自分の我儘だと思ってた。今、あなたと話すまでは。いえ、話した今でもそう思ってるかもしれない」
「だけどお父さんに感謝するのと、自分の意見が言えないのは別物だよ」
再び戻ってきた娘の舌鋒の鋭さに苦笑しながらも、沙和子は言葉を続けた。
「言ってはいるのよ。ただ私がモヤモヤするのは、自分の考えを言ってもまったく耳を貸してもらえないことなの。あなたがさっき言ったとおりね」
結依は我が意を得たり、というように強く頷いた。
「そうでしょう? だからお母さんも、もっと自分の意見を強く主張していいと思う。何を言われても『でも私はこう思う』っていうのをしっかり出すようにして。まあお父さんはああいう人だから、それこそ真綿で言いくるめるような真似をするだろうけど、いつまでも大人しくくるまれてちゃだめだよ。そのうち息できなくなっちゃってからじゃ、もう遅いんだから」
「――はい、気をつけます」
神妙に頷いてみせる母親の姿に、娘が手を伸ばしてぽんぽんと肩を叩く。
ようやく母子の顔に、屈託のない笑みが浮かんだ。
結依が帰ったあとも沙和子はダイニングの椅子に座ったまま、しばらく考え込んでいた。
もう子供たちも立派に巣立ち、舅も無事に看取った。姑はまだいるものの、いずれは夫婦二人の生活が始まるのだ。娘のようにきっぱり思い切ることはできないものの、長い間自分の中に揺蕩っていた違和感に、そろそろ向き合う時が来たのかもしれない。自分の考えや希望を言ってはみても、なぜかいつも夫の思うとおりの結論に落ち着いてしまう、予定調和でありながらもどこかいびつな関係……。
離婚だの別居だのの大それた真似などできないし、するつもりもないが、まずは手始めに小さなことから始めてみるのもいいかもしれない。
「――たまにはお夕飯に、自分の食べたいものでも作ってみようかしらね」
ひとりそう呟いてみると、何やら反抗めいた秘密ごころに、ささやかながらも気分が浮き立ってくる。
沙和子は吹っ切れたような笑みを浮かべて立ち上がった。
夕食の買い物に行こうと、沙和子が白い玉砂利の敷かれた踏石を通って門をくぐった時も、6月上旬の陽射しはまだ変わらぬ明るさをたたえていた。
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