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『オンドル』というもの

朝鮮半島に『オンドル』という家構造は知っているでしょうか?
いわゆる「床暖房」なのですが、これの歴史を紐解いてみましょう。


【『オンドル』というのは】

韓国では「オンドルを発明した」と言っていますが、これは間違いです。
『オンドル』というのは、中国北東地域や黒流江地域での建築暖房技術の一部であり、その「炕」という技術を高麗時代から取り入れて出てきたのが「オンドル(温突)」という名称です。名称自体が中国語で隋唐音で「温突」を「0uənduət」と発音しますが、それが訛ったものです。
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中国北東地域の建築暖房技術はもっと多岐にわたっており、例えば一部屋だけを、壁を、床を、と用途に合わせて複数あるのですが、その中で構造的に簡単だった「炕」、「温突(0uənduət)」だけが取り上げられて作られたものです。

この「炕」を含む建築暖房技術は、その前の形態は「L字形竈」となります。これは、竈から排煙部分が横に伸び、家の暖房も兼ねた構造です。

【今の韓国の『オンドル』】

今の韓国が『現代オンドルだ』と言っている建築暖房技術は、実は高麗時代からの「炕」を起源とする『オンドル』とは関係がありません。今の韓国の『オンドル』は、ヨーロッパの『床暖房』をフランク・ロイド・ライトが持ち込んだものです。
オンドルは、床下に煙道(煙の通り道)を設け、そこで火を焚いて床を暖めるのに対し、ヨーロッパの床暖房はローマの床暖房を起源に持ち、温水や電気を利用して床を暖める方式が一般的です。今の韓国の『オンドル』は後者のもので、朝鮮時代の『オンドル』とは別物で、文化系統としてもまったく関係がありません。

【大倉とライト】

「フランク・ロイド・ライトが大倉喜八郎男爵の家の朝鮮の間でオンドルに出会い、それに感激して……」などとあるが、それはまた、韓国の創作逸話であり、そのような話はない。


- 大倉喜八郎 ―

大倉喜八郎という人物は朝鮮半島の近代化に関係しており、朝鮮半島の近代化の立役者の一人である。

19世紀後半、朝鮮政府は財政上逼迫した状態で、多くの採掘権等の利権を外国人に売り払っていた。その中で京仁鉄道敷設権は、アメリカ合衆国のモーリスが敷設権を獲得して建設を開始したが、労働争議、支払い争議問題で頓挫し、モーリスは建設の半ばで渋沢栄一らの京仁鉄道合資会社に敷設権を売却した。京城から仁川間は、工事を引き継いだ京仁鉄道が1900年7月に全面開通させた。これが朝鮮半島最初の鉄道である。


韓国では「日本が収奪のために鉄道を敷いた」などと言っているが、これも歪曲された嘘なのである。
元はアメリカ実業家の甘言で朝鮮政府と折半して作るはずが、その折半した1/3も払えず、また上記の労働問題により頓挫し朝鮮政府道分の半分を実業家に譲渡。それを既に日本国内で施設運行実績のある日本が朝鮮での施設も請け負っていたが、実業家その日本に売却。結果的に施設権も運行権に日本が持つようになったものなのである。実業家も頓挫し中止になると見込んでいたのを、日本は完了させ運行をし始めたものなのである。
確かに交通網を整えるべきだというのは1894年の甲午改革の前に日本が強く提案したものだが、鉄道施設を決定したのも、そのルートも、日本統治前のものは朝鮮政府が考えたものであるし。それを予算不足で放棄したのも朝鮮政府であり、それに対して朝鮮人もアメリカ人も放棄した計画を、日本が計画通りに施設したのである。

ちなみに更に2つあり。
1つは、アメリカ実業家が出した事業計画予算書は朝鮮人には理解ができなかったので、かなりぼったくられていたようである。その施設権の全権を得て日本に売却するのだが、その際には日本は予算書を読めるので適正範囲内で購入している(それでもアメリカ実業家には十分の利益が出る)。
もう1つは、施設工事に際して日本は現地雇用も積極的にしている事である。責任者や指導者、監督者は日本人だが、その下で朝鮮人は働き、労働争議や支払い争議などなく働き、完成させている。日本人と給与は違ったが、それは労働地位からの話で当然であり、給与も当時の適正価格が支払われている。


これなどの朝鮮近代化事業に大倉が関わっていたりしたのだが、韓国ナショナリズムで想像を膨らませたのが「大倉別邸に"朝鮮の間"がある」という創作逸話がだろう。

この大倉は今は有形文化財になっている別邸を作っており、外観は御殿風の家だが中が瀟洒な作りをしている。屋根が唐破風の造りをしているなどがあるのだが、それがどんなものか分からず「唐」という漢字が入っているからと勘違いしたり、朝鮮半島の近代化に強く貢献している人物というのもあり、想像力を膨らませたのだろう。
ちなみに、「朝鮮の間」なんてものはないし、そもそも作られたのは1920年で、帝国ホテルでスチーム床暖房を採用した設計で建設を着手するより後にできた建物である。


さらに言えば、そもそもだが、『オンドル』の構造は日本の気候風土では相性が悪く、換気を行う日本家屋との相性が悪いのである。
また、どちらかというと世界的に見ても、未開な平屋住宅でしか適用できない欠陥暖房構造なのである。

実は古い時代に日本でも床暖房も試みられたことはあります。
中国に伝わる『温突』をモデルにして床暖房が出来ないかと試行錯誤しており、土で固めた床下に溝を巡らせて温度の高い煙熱を通すといった手法でした(この構造は、朝鮮半島の「オンドル」ではなくよりも中国の「炕」の形式ですね)。
しかし雨の多い日本において、家屋の床下を土で塞いでしまうと、湿気のために土台などが腐りやすくなり、また、土台が歪むなどの問題が多く、結局は普及する事はありませんでした。
乾燥地帯では有効なオンドルも湿潤な日本の気候には向かないのです。

まぁ、朝鮮半島では日本の気候に似ている南側の地域でも使っていたので、そういう「風土に合う建築」というのは考えてなかったのでしょう。実は今の韓国である朝鮮半島南側で、オンドルの使用が適しているのは北部の山岳地域ぐらいで、その他の場所では向いていない。ですので、日本統治前の写真で見た朝鮮建物って歪んだ感じになっているのは、そういう理由(建屋の土台を弱らせている)もある訳です。
まぁ、日本にある大倉の家にオンドルがあるわけがないのですね。

この創作逸話の影響を与えているのは、もう1つは朝鮮王朝の「資善堂」が売られ、それを大倉が買い取って日本に移築したという事実があるからです。ただし、1914年に買い取り移築、そして1916年8月には移築し、1917年にはさらに移動して「朝鮮館」として美術展示品になります。ライトとは1914年頃から新館設計の相談を始めており、日本に「資善堂」が来る前に床暖房の採用は決まっていますし、来日は建築の為に1917年だが、その時は伊地区と中華既に美術館施設になっており「大倉喜八郎男爵の家の朝鮮の間」というのは存在しません(これに辻褄を合わせようとしてか、来日を1914年だと事実歪曲している記事も見かけました)。
また、先述もしていますが、日本でオンドルは合わないので稼働させるなどもしないでしょう(建物自体が美術品としているのに、稼働させると湿気で傷む)。

日本についてもう少し話すと、平安後期から鎌倉にかけての日本の気候は、比較的暖かく冬も凌ぎやすかったそうです。しかし、室町時代以降からしだいに寒冷となって、江戸時代の18世紀後半には小氷期と呼ばれる寒さのピークを迎えています。
火鉢か炬燵(こたつ)行火(あんか)などは元は貴族の暖房器具ですが、江戸時代になり庶民の暖房器具になっていきます。家財道具が発達したのが江戸時代になってからです。木製の長火鉢や、江戸中期以降にもめん綿の蒲団が普及してから、炉の上に櫓をのせて、蒲団をかけた炬燵や行火が登場します。
日本では全体暖房技術より個人暖房技術が発達したわけです。現代のホッカイロも日本の冬では当たり前ですが、世界では珍しがられてましたよね。


- フランク・ロイド・ライト ―

フランク・ロイド・ライトは帝国ホテルのデザイン建築に深くかかわっている人物である。朝鮮半島でヨーロッパ式床暖房を採用した建築をするより前に、大規模ホテルとしては世界で初めて全館に西洋式のスチーム暖房を採用しており、西洋式床暖房の導入は日本の方が朝鮮半島より少しだが古い。この時の経験が、朝鮮半島で西洋式床暖房方式が採用されて広がっていったものなのである。
この帝国ホテルの新館建築にライトが関わっていた時期の会長が大倉喜八郎という関係なのだが、ライトは大倉ではなく当時の総支配人だった林愛作に推薦された人物であり、1914年頃から新館設計の相談を重ね、1916年に契約を結んだ。翌1917年にライトは来日し、1919年9月に着工を開始したというものである。
実は大倉喜八郎との接点は殆ど無い。

西洋式の床暖房は、古代ローマ時代のウィトルウィウス紀元前25年ごろゼルギウス・オラタが考案した構造と運用方式を詳細に記述しているので記録が残っているが、この古代ローマ時代の床暖房技術である「ハイポコースト」という形式の発展形である。1800年には蒸気を燃料とする輻射管を用いた、現代の暖房の形式に通じる形が作られている。1864年頃だと西洋諸国で広く使われ始めており、アメリカの南北戦争時の病院で使用されていた床暖房システムがあり、ドイツの国会議事堂では建物の熱容量を冷暖房に利用している床暖房システムが作られている。
これをフランク・ロイド・ライトは持って来たものであり、朝鮮半島の『オンドル』はまったく関係がない。

実際は、フランク・ロイド・ライトが朝鮮半島に行った際に、朝鮮人はオンドルという建築暖房構造を自慢げに言うのだが、しかし『オンドル』という暖房構造は近代建築と相性が悪い(朝鮮半島のオンドル構造は平屋にしか適用できず、近代というよりもっと前の中世以降で世界でも一般的となる二階建て以上の建築には適用できないので、古代技術といってもいいもの。その上、中国内陸部の乾燥した地域や、せめて今の北朝鮮地域ならともかく、今の韓国である朝鮮半島南側では適していない暖房構造)事にすぐに気付き、日本の帝国ホテルで採用した西洋式の床暖房技術を導入したのである。
朝鮮人に「西洋の床暖房技術でオンドルみたいなもの」と説明としたのが、韓国の国内では歪んで利用されているだけなのである。

【朝鮮半島に長くある『オンドル文化』】

実はそんなものは、ない

正確に言えば、韓国が言っているような朝鮮半島に昔からある文化ではない。

実際、朝鮮半島でも朝鮮時代の前半では常民以下の貧しい家がしていたもので、王族や両班などは利用していないマイナー文化、あるいは庶民建築文化である。
オンドルが韓国文化を象徴するがごとく席を占めたのは比較的最近であって、ソウル大国史学科のソン・ギホ教授は「朝鮮半島全域、すべての階層に普及したのは朝鮮末期」と説明している。朝鮮前期では、オンドルは常民以下(簡単に言えば、王族や裕福な両班以外)だけで使われていた建築様式で、換気は悪いが防寒建築構造ではない建物や防寒家具類などがなかった貧困状態なので、必要とされたものだったのである。

また、「高句麗の壁画にもオンドルは登場しない。丸都山城のような遺跡にもない。『朝鮮王朝実録』にも初期には国王が木製の寝床を使用していたという記録が残っており、支配層は使わなかった」と説明しており、「寝室生活をしていた貴族層はカーテンや屏風で風を防ぎ暖炉と火鉢を使っていたためオンドルが必要なかった」と続けている。結局は朝鮮時代後半になるにつれ王族や両班も貧困になってきたから広がったという暖房建築様式なのである。

日本の同時期(江戸時代)に、火鉢・こたつ・行火・懐炉などの個人暖房文化が庶民に定着したのとようは同じなのですが、日本は夏場の温度と湿気もあるため、冬場の対策として個別暖房が発達したのである(まぁつまり、江戸時代の"おひとり様暖房文化"の方が、創意工夫がある文化的なものだったという事である)。こちらは庶民も余裕ができたから貴族文化が庶民にも広がってきたという個人暖房技術なのである。

また、朝鮮半島は冬の寒気に対する集団暖房として貧民の中で使われていたのがオンドルなのだが、貧民なのでどんどんと技術は劣化して言っており、簡素化していく。その為に夏場は毎日の煮炊きの為に屋内はサウナのような状態になる。結局、紀元前のL字形竃を大きくしただけにまで技術劣化しているのですね。

食事習慣も大きく影響し、日本では1日の飯は朝のみ炊いていた(おかずは別。この朝のみを炊くというので、美味しく保存する為におひつ文化が生まれる)という省エネを心掛けたが、朝鮮半島では朝晩と飯を炊いていたエネルギーの無駄遣い生活(その為、広く使われ始めると木々が次々と切り出され消費されるので、朝鮮半島は荒廃していく)で、毎日の竈仕事の余剰熱が室内に入るので、冬場を除くとは暑くて仕方がない。ですから朝鮮時代の男は屋外をうろついていたのである。
自然と寄り添う生活をしていた日本と、自然を犠牲にした生活をしていた朝鮮半島の差は、ここにもあります。

さらに、儒教文化で身体を綺麗にすると病気になると考えられていたために身体を綺麗にする文化も日本統治時代までなかったので、大変に臭かったそうです(これが高麗時代であれば、仏教文化で身を清めるという沐浴というのがあったので、朝鮮時代より綺麗だったのですが)。まぁ、簡単な話、日頃からサウナ状態の中で暮らしていて沢山汗を流しているのに、身体は洗わないといった生活です(それがおかしいわけでもなく、ヨーロッパでも16世紀頃だと風呂に入らないのが一般的で、身体を清潔にする事は病気になると信じられています)。
水浴びを毎日して身体を綺麗にする文化ではなく、更には女性はあまり外に出れない社会であったので、汗だくな生活の時代だったのである。王族でも1週に1度、両班であれば2週~1ヵ月に1度ぐらい。常民や奴婢などだとまったく身体を洗わない者もいたそうで、朝鮮人は大変に臭かった事が朝鮮時代末に訪れた外国人の手記に記録されています。
その中で、近代化は必要だと考えていた李完用などほんの極一部の朝鮮人は日本の考えを受け入れ毎日のように入浴するようにしていたので、「珍しく臭くない朝鮮人がいる」なんて記録さえあります。

また、『オンドル』というのは平屋以外には適用が出来ない技術なので、高麗時代にはまだあった二階建てなどの建築物も、朝鮮時代にはほぼ見られなくなっていきます。
つまり、建築技術の衰退さえ招いているのが、韓国が誇っており「オンドル」という暖房技術の正体なのですね。

【『オンドル』は病気の元】

さらに、朝鮮時代の記録を見ると、両班はオンドルで寝ると身体が弱くなり骨も弱くなると信じており、病人や老人だけにオンドル部屋で生活させたものであるらしい。
そりゃ、汗だくで脱水症状で寝ている間も身体を疲労させますからね。

オンドルが広く普及するのは朝鮮時代の末期、寒冷期に入り、地球の温度が下がっていった。これがオンドルが全階層に広がった契機になったものらしい。それが17世紀~18世紀という約2世紀の間程度の期間で朝鮮半島全体に流行り広がったものなのであるが、問題も多く、近代化ではヨーロッパ式床暖房に置き換わるのである。
先にも書いたが『オンドル』は燃料となる木材などが大量に必要になるので、急速に朝鮮半島の森林を消費し、朝鮮時代末期では朝鮮半島の森林はあらかた伐採されて、禿山が多い荒れた土地にしていったのである。

ちなみに、朝鮮半島にも温泉はあります。釜山の近郊で。ーーって、その歴史を見ると新羅より前の時代のもの。つまり、温泉大好き日本人の祖先である縄文系民族が掘り当て整備したものなのですよね、あれも。

【『オンドル』の歴史】


物によっては(例えばWikipediaでは)

BC5,000年頃
「焼かれた床」の証拠は、カンとディカン(「暖房された床」)の初期の形、後にそれぞれ満州朝鮮で「暖かい煙突」を意味するオンドルの前兆として発見されました。

BC3,000年頃
韓国の炉は、調理場と暖房ストーブの両方として使われていました。

などと書かれているが、そんな遺構は発見されていない
これが、昔からあったか?などは読み方からも判ります。秦代の音だと「温突」は「·wəndət」と発音します。
音声ファイルへのリンク
発音がまるで違いますね。つまり、この時代には無く、隋唐時代よりも後の時代からのものだという事です。

たぶんですが、この「BC5000年」というのは、「遼寧省瀋陽市の遺跡では、7200年前から床暖房を使用していたことが確認されている。この遺跡のベッドは、床に10cmの粘土を敷き詰めたものである。このベッドは、寝る前に床を火で炙って灰を払うだけの「炙地」で暖められていた」という中国の考古学的内容で、オンドル構造とはまったく無関係な内容を、切り取った上で歪曲し創作した俗説だろう。
またBC3000年というのも何の根拠もない(考古学的にL字形竈が出てくる最古はBC4世紀)。

そもそも、高床式というか、床を上げた住居は作られていない時代である。AD3世紀頃の馬韓あたりの家の構造は三国志東夷伝韓条の馬韓の場所に書かれているが「居處作草屋土室形如塚其戶在上」と、草で作った墓のような家で、戸が上にあるという事は掘り下げ式の家だったわけである。AD3世紀に高床式の建築が弁韓(倭人)の場所で見つかるが、「牢屋のようだ」とも中国北東部の人間から書かれているぐらい、床が高い住居というのは異質だったのである。
韓国人が言っている虚構「半万年の歴史」で作られた、創作物でしかないのだ。

【高麗時代に北から来た技術】

『オンドル』というのは、高麗時代に中国北東地域や黒流江地域の建築暖房技術が伝達してきて広がった物なのだが、極一部、それも主に今の北朝鮮の北側で庶民に広まったものであり、技術的には一番簡単な、そして調整が出来ない暖房装置として定着したのである。
ちなみに、中国北東地域や黒流江地域の建築暖房技術は用途に合わせて複数あり、利用するのは寒気のみと調整ができるし二階建て等も出来る。しかし、竈と一体化させた朝鮮の物は調整が出来ない上に冬季の密閉ばかり気を使った構造の建築で換気が悪い為、夏には室内がサウナになり、その構造上、二階建てが無理で平屋にしか適当できないという、欠陥暖房装置なのである。簡単に言えば、横に寝かせた煙突を土台としてその上に家を建てたという構造で、住居の間(隙間)に煙道を通すという建築的な技術が必要な構造とは少し違うのである。

では、その『オンドル』というのはさらなる前は何処から来たのか?というと、その前身は竈からの発展形である「L字形竈」からであり、竈からの煙をすぐに外に出すのではなく、煙道を横に伸ばして、暖房も兼ねるという機構の遺構がルーツになる。

【源流は『L字形竈』】

この『オンドル』の源流となる『L字形竈』は、BC4世紀頃から朝鮮半島で見つかる遺構である。この『L字形竈』の発展形が、『オンドル』のルーツになる『炕』になる。


黒竜江省の1世紀の建物跡から、このタイプの暖房台の例が出土している。煙道はL字型で、レンガと石で作られ、石板で覆われている。

二重煙道システムを用いた暖房壁は吉林省にある4世紀の古代宮殿の建物から発見された。L字型の日干しレンガの長椅子に二重の煙道がある。構造は単一の煙道システムよりも複雑で、火炕と同様の機能を備えている。こちら複雑だったからだろうか、朝鮮半島では採用されていない。

ちなみに、確かに『炕』のルーツは『L字形竈』になりますが、それ以前でも中国北東地域では床を暖房するものはあり、寝具を置く台の上で火を焚き温めておく、というような暖房はされていたようである。


ところが、この『L字形竈』の遺構が見つかる場所とその遺構の年代を調べると、面白い事が判って来る。

【『L字形竈』の歴史】

魏志伝に書かれている『竈』ですが、遺構としての発掘だと、以下の図のようになります(『石組みの煙道を持つカマド』)。

現在、「竈」は"日本独自説"と"朝鮮半島伝来説"と"中国伝来説"があります。これは、日本には朝鮮半島には無い独自の竈(移動式竈など)もあり、独自の竈文化があるのは考古学的にも判っているからですし、『L字形竈』の分布と時系列でも、朝鮮半島には”竈”は朝鮮半島に在住していた縄文系倭人から伝わっているのはほぼ確実です。
しきりに言われる"朝鮮半島伝来説(三国や三韓が日本に伝えたという説)"はほぼ否定できるのですが、『L字形竈』のさらに原型である、普通の『竈』は由来が判りません。
朝鮮半島を南下してきた雑多な民族の中の技術が伝来した可能性はあり、"中国伝来説"も十分に考えられるので、さらなる考古学調査による発見が期待されます。中国からの伝来は、8000年前には既に交易をしており、三国志(3世紀)の時代や、それ以前でも倭は中国に使者を派遣していたので、そういう所で『竈』という技術に触れて模倣した可能性はあります。

ただ、土器の焼き方の年代ごとの推定変化を考えると、日本は自力で竈を考え使いだしたとしても、なにもおかしくはありません。なにせ、土器をより焼き固めようと燃焼温度を高める工夫をしていくと、自然に竈のような形(密閉しての燃焼)に辿り着いていくからです。

【中国史料に出てくる竈】

『三国志東夷伝韓条』の『弁辰』には、こう書かれています。

弁辰與辰韓雑居亦有城郭衣服居處與辰韓同言語法俗相似祠祭鬼神有異施灶皆在戸西

弁辰は辰韓が共に住むことを許していた。城郭(環濠集落)であり、衣服や住居も辰韓に与えており、言語や法俗(法律や習慣)は似ている。祖霊崇拝や宗教に違いがあり、竈(かまど)はみな家の西側に作る。

馬韓や辰韓には竈は出てこないですが、倭と接している弁韓には竈がある事が明記されています。つまり、「朝鮮半島の大同江より北部の民族、すなわち中国系移民の中では竈というのはまだ一般的ではない」が、「朝鮮半島の南部、縄文系倭人が住んでいた地域では家に竈があるのが一般的だった」という事です。

日本では、福岡県の西新町遺跡からAD3世紀~4世紀の『L字形竈』の遺構が見つかっています。
既に朝鮮半島の南側より古い遺構が確認されており、従来は「『竈』は朝鮮半島から日本に伝わった」と言われていましたが、魏志伝は西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)~297年(陳寿の没年)の間)に書かれたものですから、それより少し前の時代の状況を書かれたものでしょうが、日本には竈があった訳です。
従来の定説だが、今はそうではない可能性がどんどんと高くなってきています。

この時にはまだ馬韓地域や辰韓地域でも見られないが、弁辰地域では竈がある事が書かれており、それと同様の時期に日本に『L字形竈』が既にある事は考古学な発掘から分かっている、という時系列になります。


三国志東夷伝韓条の文章は、縄文系民族である倭人が、南下してきた辰韓の扶余系民族を受け入れた、と考えると整合が取れます(辰韓の濊系民族も受け入れていますが、場所が少し違います。これは、魏や晋の銅印で判ります。辰韓を受け入れたといっても部族ごとで、受け入れた場所がそれぞれ違うのでしょう)。

また「弁辰與辰韓」を、よく「弁韓は辰韓と雑居していた」という訳し方をしているのを見かけますが、これは訳し間違い
です。
文章は「弁辰""辰韓」と書かれており、「與」は「与える」という意味です。この文章は実は主従が明確で、邑の主は「弁韓」であり、そこに住むことを許された従が「辰韓」である事が書かれています。
つまり「弁韓は辰韓が共に暮らすのを許していた」という意味です。
現代の移民問題と同じような感じです。

【最古の『L字形竈』】

現在、最古のL字形竈は朝鮮半島北部ではなく、中部地域のBC4世紀の西屯洞遺跡であるーーそう、見つかった地域というのは倭人の居た地域であり、そこから見つかっているのである。

次に古いのが清川江あたりのBC4~3世紀の細竹里遺跡であり、ドングリ遺体の存在からも、やはり倭人が進出していた場所なのである。これが少し山側にあるのも特徴と言えるかもしれませんが、「寒い」から「必要になった」のでしょうね。

この頃に対岸には北方から女真系など遼河文明系統の民族が南下し定住して来ており、川を挟んでの文化交流をしているのも確かで、遼寧式銅剣などの出土しています(まぁ、その頃には日本には製鉄設備が既にあった事は、日本国内の考古学的な発見で出土しており分かっているのですが。鉄滓やその他、遺構や遺物が淡路島や大分県佐伯で見つかっており、日本の鉄利用はどんどんと古くなってきています。製鉄品に関しては、中国より日本の方が古いのが出土していますしね)。


ドングリ遺体と合わせると、縄文系倭人がどこまで朝鮮半島を北上して進出しており、そして中国北東部の遼河文明の中国系民族が何処まで南下していたかが、おおよそですが分かってきます。

赤い点線が、縄文系倭人のBC15世紀までの進出(鴨緑江の南東岸側まで)と、そこから北進は止めて徐々に南に収束していく様子を表しています。
それに対して青い点線が、中国北東部から遼東半島海岸沿いを通り朝鮮半島に入って来る時期を示しています(遼東半島に入ってくるのをBC20世紀としているが、本当はもう少しだけ古く、遼東半島西端で最古の遺跡がBC22世紀になります。この時期というのは、その前の時代の氷河期遺構、7000年前の時期から海水面が現代より高かったのが引いていった時期です。つまり、遼東半島の海岸線を通る道がやっと出来た時期になります)。
中国系民族は大体ですが、遼東半島西端(BC22世紀)、大洋河(BC15世紀)、鴨緑江(BC12世紀)、清川江(BC3世紀)、大同江(BC1世紀)、漢江(AD4世紀)というように時代と共に移動して南下して来ています。

【中国系民族への伝達】

その次に古い「L字形竈」は、大坪里遺跡のBC2~1世紀です。

この頃の大坪里遺跡が南と北のどちらの勢力下のものなのかは難しい所なので、ようは中国系民族が清川江も越えて南下してきたかどうかなのです。ただ、ほぼ確実に中国系民族は清川江は越えて領域を広げた時期なので、中国系民族の遺跡と思いますし、細竹里遺跡の遺構などを模倣して、大坪里遺跡の遺構になったものだと思われます。

この時期には何があったかは、中国史料に書かれています。
衛氏朝鮮滅亡時に漢の労役から逃れようと移動した民族が逃れて南に行き、雑多な種族が住む馬韓に入ってくるのですが、馬韓でルールを守らないので騒ぎになり(今のクルド人問題のようなものです)、馬韓の地から東に追いやって出来るのが辰韓であり辰韓人です。
この時、辰韓人が監視し戻ってこないように、柵が設置されています。三国志東夷伝韓条に「馬韓割其東界地與之有城柵」と柵を設けているのですね(これを環濠集落のように考えていると見受けられる説明もよく見掛けるのですが、環濠集落は「有城郭」で違います。辰韓の「有城柵」は、ようは関を設けて戻ってこないようにとしたという事です)。
ただ、大坪里遺跡は厳しい山岳付近にある場所ですので、やはり「寒い」から必要になったのでしょうね。
また、BC1世紀頃というと、大同江の北岸に国境関が作られた時期でもあります。

やはりキーワードとして「寒いから」があるのでしょう。だから創意工夫して「煙道を伸ばして暖房器具にした」生活家具が受け入れられていったのでしょうね。

【北方への伝達】

その次に出てくるのが、鴨緑江の上流域の遺構です。

BC1世紀頃で、土城里遺跡や魯南里遺跡になります。
ここでもやはり山の奥、もう長白山に近いぐらいになっている場所で、やはり「寒い」場所です。
BC15~12世紀頃であれば縄文人の痕跡になるのですが、BC1世紀頃のこの地というのは、馬韓という多民族集団がいた地域一部であり、高句麗ではありません。ちなみに、馬韓は漢に従属し、その後に臣従しているという中国系国家の一部です。

【高句麗への伝達と普及】

この『L字形竈』が朝鮮半島に広がるのは、高句麗によるもので、それも「L字形竈」遺構の年代で明らかです。
高句麗がこの技術を手に入れるのは、どうも前燕の内紛により、遼東半島に居た者達が朝鮮半島側に逃げた事による空白状態の場所になった遼東半島南部の馬韓地域に高句麗が進出して支配地域にしたAD340年頃以降、つまりAD4世紀半ばから後半の頃からの事のようです。

その技術を高句麗が利用しはじめ普及し、高句麗の拡大に伴い「L字形竈」は朝鮮半島にも入ってきて広く用いられるようになります。元(もっと古い遺構)が朝鮮半島の中域にありますから、出戻って来た技術なんですね。

「日本の竈」よりも新しいもののうち、百済地域の扶蘇山城と弁韓の月城垓遺跡(つまり朝鮮半島南部の遺構)を除くと、とても分かりやすいです。あと、基本的にはやはり山側、つまり寒い場所での利用が多い遺構です。どこでもかしこでも使っているものではありません。
朝鮮半島の三国時代に広がったAD5世紀頃に高句麗が持ってきた文化という事が明らかです。この「高句麗が南下して持ってきた竈文化」が「朝鮮から日本に竈文化を持ち込んだ」にはなりません。簡単な話、この時には既に日本にはL字形竈が存在するからです(気候的な話で、流行らず広がらなかったですが)。


その他にも新羅地域や伽耶地域では5世紀頃の竈の遺構が出土しており、朝鮮半島南部では5世紀頃には竈が普及していたと考えられます。その当時の朝鮮半島南部は倭の文化の領域であり、それよりも古い時代のL字形竈が九州で発見されているように、朝鮮半島南部の竈は日本から来たものと考えられます。

扶蘇山城はAD6~7世紀です。
これは、百済(前燕の遼東半島地域の人々)が朝鮮半島に逃げ、そして高句麗に圧迫されて南下してきている時期より後です。『百済』の民が朝鮮半島に逃げてきたのは4世紀中頃であり、その時代の竈が百済の地域で見当たりませんので、これも倭からの文化の影響でしょうね。

【終わりに】

結局は、BC4世紀に朝鮮半島に渡った縄文系倭人が「寒さ」から、朝鮮半島中域で竈を改良して工夫して作ったのが「L字形竈」で。更に北に居る縄文人倭人にそれが伝わり寒さをしのいだのでしょうね。その「L字形竈」を見た北から来た中国系移民が模倣し、寒い場所で次々に使いだし始めて徐々に北へと広がり、それを高句麗まで伝わり高句麗では広く使われてその移動(勢力拡大)に合わせて広がり、大同江を越えて朝鮮半島内に戻ってくる形で広がった、という事です。

元に居た場所よりも「寒い」からこそ生活の中の創意工夫して作られたもののであって、既に寒冷地域に適応している生活をしていた毛皮文化の中国北方系民族では思いつかないでしょうね。
ちなみに歴史を見ても判りますが、韓国人は何も関係がありません。どちらかというと、他国の技術を自国の技術だと間違った自慢をしているだけですし、歴史的にも間違った事を誇っているだけです。

ちなみに、『オンドル』構造になるのは、中国北東地域や黒流江地域での「L字形竈」から「炕」への技術進化(技術融合)であり、そこで『L字形竈』という竈兼暖房という生活家具が、より洗練され建築暖房技術となります。その『炕』という技術の一部が、高麗時代に朝鮮半島に伝わってきて貧民が模倣し、冬の寒さ対策の難しい寒い地域の庶民の中で定着していった、というものなのですね。

更に、回帰のように(というより、それまで『L字形竈』を普及していたからでしょうね)建築暖房に竈を兼ねるようになり、その為に夏場でも竈仕事の影響を受けて室内がサウナになってしまう、欠陥構造な建築暖房技術になったわけです。


いや、よく見たら「更に、回帰のように~」からの部分って、建築暖房技術として考えたら劣化してるやん!?

竈と切り離した暖房技術として出来たのを、また竈と一緒にしているし。『炕』は温度調整ができていたし。建物の隙間を利用すのではなく、炭焼き竈のような構造の上に家を建てたような、機構を単純化した感じで拡大解釈した構造になっているから、二階建てとか無理だし。


日本統治前に朝鮮半島に訪れた外国人も、うんざりとした様子を書いている。

大韓帝国末期に訪れたスウェーデンのジャーナリストのアンダーソンは『コレアコレア』で、
「ここの人々は夜には熱々の部屋の床の上でパンのように焼かれることにとても慣れている」。
と記録を残している。

ほぼ同じ時期英国人女性イサベラ・バード・ビショップも『朝鮮紀行』で、
「牛の乾いた糞まで燃料にする旅館の部屋はいつも過度に熱い。私はある恐ろしい夜を部屋の戸の前に座ったまま明かしたことがあるが、その時の部屋の温度は摂氏39度もあった。疲れた体を更に痛めつけるが如く熱するこれくらいの温度を韓国の旅人たちは非常に好む」
と記している。

すこぶる外国人から評判が悪いものだったのである(これが何故か、韓国では意訳して「好まれていた」という具合に説明をしていたが)。


これ、やっぱり「温突(オンドルの語源の中国語)」なんて、名前を付けており、独自の名前を付けていない、つまり模倣でしかないから、韓国では変な歪曲俗説が生まれてきて、おかしくなっているのでしょうね。

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