豆豉と未醤(味噌)
発酵食品として「美蘇(高麗醤)」について書いているので、同時期に中国から来ている「豆豉」についても説明を加えます。
「豆豉」とは、蒸した大豆に人為的にカビを付着させて発酵させる食品であり、日本における寺納豆の源流です。旨味が強く、当時の貴族に下げ渡したという話しもある、希少な一品ですね。今でも寺納豆として作られており、この作り方は日本にある種の衝撃を与えています。
――ですが、「味噌・醤油の源流」ではありません。
通説では「高麗醤」と同じように「味噌の源流ではないか?」というのがありますが、明らかに「作り方」が違うのですね。「高麗醤」に関しては『美”蘇(チーズ)”』なので、そもそもが違うのですが。
”豆豉”は中国の発祥
”豆豉”自体は、中国発祥で間違いがありません。というか、「中国の大陸内陸性気候の中でこそ生まれる食品」です。
というのも、カビ(麹菌:アスペルギルス・オリゼー)は乾燥には極端に弱く、少しでも湿度が下がると活動を停止する性質のものだからですね
ただし、です。
”豆豉”のルーツとなる”豆醤”は中国に外来でやってきた食品です。
中国の”豆醤”は外来文化
そもそもが『醤』というのが、中国の大陸内陸性気候の中では自然発祥が難しい食品だからです。乾燥した大陸内陸性気候は、微生物(カビや細菌)が活動するために必要な「湿度」が決定的に不足しています。
そのため、中国内陸部における「醤」などの発酵食品は、自然発生に任せるのではなく、人為的に「高温多湿」を作り出す工学的な工夫によって成立しています。つまり「どこかの環境を真似した」という外来食品であり、その元の環境を模擬しようと人為的に工夫して、初めて作れるようになった加工食品です。
漢代(紀元前2世紀〜紀元2世紀頃)の記録や考古学的知見から、当時の人々がいかにして微生物をコントロールしていたかがわかります。
漢代の農政書である『氾勝之書』や後の『斉民要術』には、乾燥した気候下で発酵を成功させるための具体的な技法が記されています。
まず、発酵に不可欠な「麹」を作るため、断熱性の高い土壁の小部屋(麹室)を作りました。ここで炭を焚くなどして、外気から独立した「人工的に温暖な環境」を作っています。
さらに煮た豆にカビを定着させる際、筵やヨシ、あるいは特定の葉(クワの葉など)を厚く被せます。これにより、豆自体の熱(呼吸熱)と水分を逃がさず、カビが繁殖しやすい蒸し暑い環境を維持しています。また塩水に漬けて発酵させる「湿式発酵」を多用することで、乾燥による腐敗(干からび)を防ぎ、微生物が活動できる液中環境を確保しています。
この農政書にある環境が自然にあり、それ以前から大豆を栽培している場所が源流になります。
この時代、それらが当てはまるのは東夷地域ではなく、日本しかありませんね。ここら辺については『発酵文化』で説明をしています。
中国での大豆利用は遅い
中国だと新石器時代後期(約5,000年前)の遺跡から大豆の炭化粒が発見されていますが、日本よりも利用が遅く、そして古層の縄文系民族の場所から見つかり始めるものです。
中国の大豆の栽培の最古の記録は『詩経』(紀元前1027~453年)で、「3000年前には」というのと合致しますね。中国は古くは濊の地で大豆が作られており、それを周の時代に中国北東部に持ってきて、それを漢の時代に持ってきた事も書かれており、大豆食が一般的になるのは、紀元元年前後ぐらいからになります。

この”大豆利用”も、北縄文系が北縄文→アムール→遼東地域という拡散ルートにある定住文化パッケージの中の1つとして出土しているものですね。
古層の中国沿岸に定住していた縄文系民族、彼らが去った後から中原に入って来た漢民族の祖先は、夏・殷などの時代では大豆利用が無かったという事です。
より古い時代には大豆自体の痕跡はあるのですが、それを西から来た漢民族系統は引き継いでおらず、一度廃れた事を指しています。これは、後で書いている「石臼」にも関係しているとは思いますが、石臼も古層ではその前身の石皿・磨石は見つかっているのですが、民族が入れ替わっている後古層では消えている調理道具であり、これが再び現れるのは2,300年前以降と、秦代末~漢代初に入ってからという時代になってからになり、大豆の利用とリンクしています。
たぶん、大豆と言うのは水を吸わせないと硬い種でしかないので、食べ方が分からなかったのでしょうね。
周代になり”濊の地”ですから沿海州~アムールでの東夷征伐の際に、その地域にあった大豆の栽培・利用を持って来たという事が記録されています。中原に持ってくるのは漢代なので、中国系民族による”大豆を使った醤”というのは、西暦元年前後と2000年ぐらいしか経っていないのですね。
どちらかと言うと、中国と取引をしていた海洋民族である日本系民族が教えたのだと考えられます。
”醤”でも大豆と限らない肉醤・魚醤や穀醤などはまた別です。
ただ、これもまた古アムール系の方が古く漢民族が中国に入って来るより前からあり、そしてそれよりも古くから縄文人は作っています。
そもそもが、『醤』自体が発祥する土壌として、
北に行けば寒すぎて発酵が起こりにくい。かといって南に行けば過剰発酵しやすい。氷河期後でもすぐに気温が上がっているわけでもなくいので、その中でも温暖さを持っていた地域は限られています。
かといって、温暖すぎると簡単に過発酵してしまい腐ります。初めに偶然に作られる為には「温暖でありながら寒冷さもある」という環境が必要になります。
さらに、内陸になると一部を除き乾燥しており、やはり発酵しにくい。考えられる地域は、暖流が近くを流れる沿岸沿いに大体絞られる。
そして、発酵には時間が掛かるものですから、基本的に定住している必要があります。そして作る為には器となる土器が必要であり、それを持っていた民族も限られています。
また、保存に必要な塩が必要な量を得られる地域である必要もあります。

12,000年以上前の環境と地形では、発祥する条件が合う場所自体が日本の太平洋側全域と、あとは今は海の底の東シナ海の平原部ぐらいしかないのですね。
範囲に入れていますが、南西諸島を入れていいかもまだ検討しないといけないところではありますが、これより南に行くと、
・温度が強くなりすぎて過発酵になりやすい
・雑菌による発酵が強くなり、穀物麹は負ける
・過発酵を抑える為に塩が必要になる
という地域になります。
『味噌・醤油』の源流となる食品、それが自然発生するような適切な湿度・温度があるとなると日本一択になります。それ以外は何某かの人為的な工夫が必要になってくるのですね。
そもそも、中国が大豆加工食品(大豆発酵文化)を持てるようになったのはいつか?というのは史料にもはっきりと書かれており、2,300年前以降の話です。
東夷から大豆栽培を手に入れた周代の3,000年前から前漢代になる2,300年前の間、大豆というのは『救荒作物』であり、「貧者の不味い食物」として扱われています。
加工食品や大豆食としての地位はないのですね。
日本の大豆利用は古い
「大豆は大陸からの伝来」という通説は、日本列島における最新の考古学的・遺伝学的エビデンスによって完全に塗り替えられています。
朝寝鼻貝塚や、最近の研究で注目される山梨県の酒呑場遺跡などのデータは、日本列島が「大豆栽培の起源地」であることを証明しています。
日本列島における大豆(ツルマメからの大型化)の変遷は、大陸よりも古くから行われています。
縄文早期(約8,000年前〜)には朝寝鼻貝塚(岡山県)などで見つかる大豆は、野生種のツルマメと比べて明らかに「粒の大型化」が始まっており、意図的な選別・管理がされていた事を示しています。また、これは「栽培される事による起こる事」なので、野生種の栽培はそれ以前から行われていた、という事です。
縄文中期(約5,000年前〜)には山梨県・長野県を中心とした中部地方の遺跡群では、土器に付着した「圧痕」から、すでに現代の栽培種に近いサイズの大豆が確認されています。
更に新しい発見では、琵琶湖の南の瀬田川の河口付近に沈む「粟津湖底遺跡」において、炭化した豆類が見つかっています。これは約9,000年前(縄文時代早期)の遺跡で、ダイズ属、アズキ属の種子が出土しています。これらの種子は野生種(ツルマメなど)に比べて明らかに「大型化」しており、9,000年前にすでに大型化の兆候があるということは、それ以前から栽培・管理が行われていたことを示しています。
この遺跡には”水路”や”畔”などの栽培痕跡もあり、「縄文時代」でも早期の時代には農業をしていたのは確実なのですね。ただし、他に”狩猟”も”漁撈”も”採取”もしているので「自然を破壊する農耕文化ではなく、自然と共生する様々な食料原がある総合バランス文化である」というだけです。「農耕社会」ではありませんが、「農耕をしていた社会」なのですね。
9,000年前で既に大型化している栽培種であるということは、つまり、栽培の開始はさらに遡り、10,000年以上前(縄文草創期)にまで達していたことになります。これが外来なら、日本以外の場所に大豆を利用していた文化社会が周辺にあるはずなのですが、それがありません。
さらには、日本では12,000年以上前から既に『混作(農業の一種)』をしていた痕跡もあります。
中国では『混作』の痕跡の形跡は9,000年前から。単一作物になるのはそれよりも新しい時代からです(それも、縄文系民族が定住していた当時の沿岸地域の場所で見つかるものです)。
中近東(肥沃な三日月地帯)だと小麦・大麦・レンズ豆が約10,000年〜11,000年前。
中南米(メキシコ等)ではトウモロコシ・カボチャが約7,000年〜9,000年前から。
これが人工管理的な”栽培”=世界各地での”農業”の開始の時期となっています。
しかし、日本はそれよりも古くから人工管理的な”栽培”=”農業”をしていた痕跡があり、中近東や中南米、中国よりも古い『世界最古級の「農耕もしていた文化」』なのですね。
さらに中国では「粉食文化」が2,300年前ほどからと秦末~漢初期以降になって初めて出てくるものですが、日本ではそれより遥かに古い時代、ドングリ食している12,000年前には既に「粉食文化」があります。
これは、ドングリ食をしていたから必然で、実は中国でも民族が入れ替わる前の古層文化時代(つまり縄文系列文化時代)では粉食する土台があります。しかし民族が入れ替わった後古層文化時代(つまり大陸内陸系列文化時代)に消え、漢が始まる時代ぐらいまで穀物も粒食文化(単純に”煮る”調理文化)のみになります。
更に中国では「蒸す」という調理方法は1,700年前ほどからのものです。
しかし日本では、調理器具としても5,000年前から既に存在している調理法ですね。
これは丁度、中国では古層文化が終わる時代で、民族が入れ替わっていく時期ですので、日本からの文化伝播がなかったのでしょうね。
『豆醤』を作れる条件が、環境だけでなく食文化としても日本では揃い過ぎているのですね。そして中国は環境だけでなく食文化としてもまったく揃っていないのです。
この「日本に古くから大豆があった」という事実は、発酵技術(醤・味噌)の文脈において決定的な意味を持ちます。それも、中国よりも数千年古くから栽培をしていた事が既に判っています。
通説では「日本は大豆がないから、大豆発酵技術も大陸から入るまで待つしかなかった」と言われていますが、まるで逆です。
日本は中国より古くから大豆を食品利用しており管理的に”栽培”しており、”醤”文化も中国より古くからあった。「中国は大豆を食品利用していなかったから、大豆発酵技術も日本から入って来るまで待つしかなかった」と、単純に『逆だ』となっているのですね。
自分たちが採取・栽培している大豆を使って、縄文以来の「粉砕・混合・発酵」の技術(縄文味噌の系譜)を適用するのは、極めて自然な流れだったと言えます。
様々な事を調べれば調べる程、
・中国から日本に文化が伝播した
ではなく。
・人が文化的な生活する為の技術が日本から中国に伝播した
という「生活全般の基盤インフラ」は日本で発祥して大陸に伝わったという構図が見えてきます。
そして身分・差別や威信的な文化という「支配のための文化」が中国から来た、という感じになっていますね。
”豆豉”の作り方
”豆醤の発祥”と”豆豉の発祥”は違う、というのが大事な点です。
「豉」は、蒸した大豆を単体でカビ(麹菌)付けし、その後に塩水に漬け込む、あるいは乾燥させるものです。豆の粒の形が残り、強い旨味と独特の風味を持ちます。日本では「浜納豆」や「大徳寺納豆」「寺納豆」と定着し呼ばれている手法であり、これは明らかに中国からのものです。「豆を粒のまま発酵させる」技術であり、どちらかというと日本での呼び名の通り「納豆」の系譜で、「醤」の系譜ではありません。
納豆は”茹でた豆”に自然にある「細菌」を利用して発酵させるものですが、豉は”茹でた豆”に「カビを人為的・選択的に付着させて」発酵させたものです。どちらも「豆の形」そのままで発酵させます。
”豉”は古代中国の『斉民要術』などの記録にもありますが、蒸した豆を「ヨモギ(蓬)」や「シバ」、あるいは「カグマ(シダ類)」などの葉で覆い、温度と湿度を保ちます。これらの植物の表面には野生のカビが豊富に付着しており、それが豆へと飛び火して繁殖します。
「豉」の製法は大きく二つの特徴に分かれます。
・湿豉(塩豉)
カビを付けた豆を塩水に漬けて熟成させるもの。これが日本の「浜納豆(寺納豆)」のルーツになります。
・干豉(淡豉)
塩を使わず、あるいは少量で発酵させた後に乾燥させるもので、保存性が極めて高く、生薬(香豉)としても扱われました。この『干豉』の作り方、工程を見ると現代の納豆の作り方とそっくりなのですね。違うのは細菌かカビか、というものです。
また、一度成功した「豉」の表面に付いたカビ(麹)を乾燥させて保存し、それを新しい豆に振りかけることで、良い菌を安定して引き継がせます。この『カビを乾燥させて保存』というのは乾燥させやすい大陸性気候だからこそ成立するものです。
この「人為的に環境を作り麹を作る」そして「保存できる麹」というのこそが、周囲に海洋で囲まれ基本的に湿度が高く、”麹”が自然に出来る日本にとっては”目から鱗”な新しい技術だったのだと思います。
この「人為的に環境を作り麹を作る」「乾燥させて麹を保存」というのは「種麹」に繋がりますね。そして、「自然選択的に出来る麹」ではなく「人為的に選別して作る麹」というのは、『”麹”の品種改良』を可能とし、”醤”の味の安定や向上につながっていくのです。
ただし、日本の場合は中国とは逆で、この「保存できるカビ」をを作る、乾燥させるという部分に人為的な工夫が必要になります。
日本では発祥がむずかしい技術
中国だと「断熱性の高い土壁の小部屋(麹室)を作り炭を焚くなどして温度を上げ」「葉で覆い温度と湿度を保つ」としています。これは”発酵しやすい温度”と”発酵させる為に必要な湿度”の確保するためです。「ルーツとなる作り方を真似ようとする」からこその人為的な工夫ですね。
しかし、日本で同じ様に作ろうとした場合、多くは”納豆”になります。これは日本列島の温暖湿潤な環境のせいでして、蒸し豆を放置した場合、納豆菌が大抵の場合は勝ってしまい十中八九は”糸引き納豆”になってしまいます。
納豆菌は「芽胞」を形成するため、煮沸しても死にません。また40°C前後の高温下では数時間で爆発的に増殖し、他の菌を寄せ付けないバリア(ネバネバ)を作ります。対してカビ(麹)は30°C前後を好み増殖には数日かかります。酸素が十分に必要で納豆菌に先を越されると増殖できないのです。
『斉民要術』に記されたような製法が、納豆化を避けて「豉」になれたのには”大陸ならでは”と言えます。大陸性気候は日本に比べて乾燥しています。納豆菌は湿度を好みますが、乾燥気候下ではカビの方が糸を伸ばしやすく、相対的にカビが有利な環境になります。
ただし、カビといっても日本のような穀物カビではなく、クモノスカビなどの日本で言えば雑菌になります。中国の大陸性気候ではタフで成長の早い雑菌(クモノスカビやケカビ)が跋扈する環境下であり、繊細な「穀物カビ(アスペルギルス属)」はのようなデリケートな菌は負けて単独では一瞬で駆逐されるという環境ですので、そもそも穀物カビが少ない環境なんですね。
日本の様に自然に「コウジカビ」が繁殖する環境ではありません。
ですので、穀物麹ではなく、大豆麹になります。
ただし、それを作る為の”麹”を作るには、中国では日本とは逆に人為的な工夫が必要なのは、先に説明している通りです。
納豆自体は、”茹でた大豆”をほっておくと日本では高い確率で枯草菌が付いて出来るものですので、とても早い段階から日本での加工食品になっていたのは、まず間違いがありません。”茹でる道具”である土器は20,000年前には既にあります。そしては大豆利用をし始めた年代は9,000年前には栽培種に変わっていっているので、それ以前から利用を始めているのです。
縄文早期(約8,000年前〜)の朝寝鼻貝塚(岡山県)などで見つかる大豆は、野生種のツルマメと比べて明らかに「粒の大型化」が始まっており、意図的な選別・管理(栽培化)の初期段階を示しています。縄文中期(約5,000年前〜)だと山梨県・長野県を中心とした中部地方の遺跡群では、土器に付着した「圧痕」から、すでに現代の栽培種に近いサイズの大豆が確認されています。
琵琶湖の「粟津湖底遺跡」では、畔や水路と言った「農耕の痕跡」と共に、炭化した豆類が見つかっています。これは約9,000年前(縄文時代早期)の時点で栽培種の大豆を農耕して作っていた、という事です。
すなわち日本では利用を始めた9,000年前には既に”納豆”があったのは確実なのです。
『豉』という加工食品が日本で発祥するのは環境的に難しいのと同様ですが、『豉』の前身である『納豆』や『醤』は、大陸内陸側から来た後古層から中国に定住を始めた今の中国人の祖先である者達では、その民族性や定住した土地の環境的に発祥が無理な加工食品なのです。
ここで面白いのが、『納豆』の「大豆を菌で発酵させる」というのが。「大豆をカビで発酵させる」と、「納豆」と「豆醤」の合いの子のような発酵食品を作った、という部分ですね。
これが日本に持ち込まれた時は、2つの要素に分かれます。
1つは「豆豉」をそのまま継ぐ形の「寺納豆」なのですが、日本の環境では長期保存食品にはなりませんし、作るのに人為的な工夫が必要です。
もう1つが「種麹」という「人為的に選別して保存できる麹」という存在です。これは日本の「豆醤」を発展させ「味噌」「醤油」という新しい調味料にまで押し上げる事になります(中国では「醤」のまま、近年まで続きます)。
”麹”自体は逆に、それより昔に日本から中国に伝わったものなのですけどね。あくまで中国からの要素は「人為的な閉鎖環境で作る選別的”麹”」と「乾燥させて保管できるようにした”麹”」という技術部分の話です。
日本の人為的工夫
日本の場合は中国から”豆豉”を伝えられた際に、逆の事をしています。
日本の多湿環境はコウジカビの増殖には最適です。そのため、あえて種麹を作らなくても麹ができるので、それまでの”豆醤”などを作るには問題がありません。
しかし、その「麹」を保存しようとしても、日本では温暖で湿度がある為に、そのままでは他の有害な菌(腐敗菌や納豆菌など)も同時に爆発的に増えてしまいます。そこで重要になるのが「人為的な選別と乾燥」です。
中国では大陸性内陸気候のため、「麹を作るのには人為的工夫が必要」でしたが、「種麹を作るのは外に出して乾燥させればいい」といいわけです。しかし、日本の場合は逆でコウジカビを保存できる「種麹」にするには、胞子を大量に発生させた上で、水分を飛ばして菌を「休眠状態」にする必要があります。乾燥させることで水活性を下げ、多湿を好む腐敗菌の活動を停止させるのですが、その前段階でコウジカビの胞子だけを安定して生き残らせる「選別」をしないといけないのですね。
そこで奈良・平安時代ではどうやって「乾燥と純化」というと、当時の「麹戸」などの専門職能集団は、以下のような手段で環境をコントロールしていました。
・灰の利用
これが日本独自の工学的工夫です。木灰を麹に混ぜることで、灰のアルカリ性と「吸湿・乾燥作用」を利用しました。灰が余分な水分を吸い取り、雑菌を死滅させつつ、アルカリに強いコウジカビだけを純化・乾燥保存することに成功しました。
・麹室での熱管理
多湿な日本では、放置すると「蒸れ」によって温度が上がりすぎ、菌が死滅します。そのため、室の壁に厚い土や藁を使い、炭火で加熱しながら、空気の入れ替えによって「強制的な除湿・乾燥」を繰り返しました。
これは漢代の技術の延長ですが、使い方(中国では温度・湿度を上げる為にする)が逆で、日本では「除湿するためにする」のです。逆輸入ですね。
・筵による水分調整
さらに麹を広げた筵を上げ下げし、風に当てることで、表面の水分を飛ばして乾燥させ、菌糸が内部へ入り込むように促します。
「種麹の作り方」というのは、今に繋がる部分もあります。
保存ができ、そして出来上がりを安定化する、量を得る、というのに、この「種麹を作り保管する」というのはとても有用であり、そしてそれを突き詰めていき、無毒なカビにまで日本は品種改良をしてしまうのです。
「麹」がそもそも違う
日本の固有食品である「味噌」や「醤油」の祖先は、大陸の「豉」そのものではなく、日本列島に古くからあった「醤」の伝統です(「醤油」は「醤」の発展したものですが、「醤油」は「醤」は違うものです。これを混同しているのを見掛けますが)。
日本では元々は「自然に麹を作る」という手法です。
その為、麹が繁殖しやすい穀物を利用するのが基本となります。
これは穀物のデンプンを栄養にして日本では大気中にもあるカビ(麹菌)が育つからですね。「育ちやすい」というのもあります。
それに対して中国は「人為的に環境を作り麹を作る」という手法です。
利用しているのは、大豆です。大豆で麹を作り、大豆を発酵させるのが中国の”豆豉”ですね。しかし、漢代の内陸で作られていたのは、穀物カビ主体の「黄麹」ではなく、より野性的で酸を出す菌が混ざり合った「餅麹」です。大豆はタンパク質が非常に豊富で、「豆麹」はデンプンを糖に変える力よりも、タンパク質を強力な旨味(アミノ酸)に変える力に特化しています。
ただ、それ以上に環境が影響しています。
というのも、”豆豉”が出来たのは黄河域下流の内陸部、乾燥している地域です。黄河下流域(中原)の乾燥し、よりタフで成長の早い雑菌(クモノスカビやケカビ)が跋扈する環境下では、繊細な「穀物カビ(アスペルギルス属)」はのようなデリケートな菌は、負けて単独では一瞬で駆逐されるという環境です。
日本の様に自然に「コウジカビ」が繁殖する環境ではないのですね。ですので、穀物麹ではなく、大豆麹になります。
さらに、中原で発達した「餅麹」や「豆麹」に住み着いたのは、アスペルギルス属ではなく、「クモノスカビ(Rhizopus)」や「ケカビ(Mucor)」が主体です。繊細な穀物カビを育てることを諦め、過酷な環境でも爆発的に増えるクモノスカビ等を受け入れたものです。これらのタフな菌は、デンプンを糖に変える力よりも、タンパク質を分解する力が強い。
だからこそ、原料は「米(デンプン)」ではなく「豆(タンパク質)」である必要があったのです。
漢代に行われていた「部屋を閉め切って高温にする」という人為的な環境操作は、実は「より強力な野生菌(クモノスカビ等)を呼び込み、一気に豆を制圧させる」というシステムになっています。35度〜40度以上の環境では、日本の穀物カビは弱りますが、クモノスカビやケカビは活気づきます。雑菌が腐敗を引き起こす前に、これらの「有用な野生のカビ」に豆の表面を占拠させる。この「毒をもって毒を制する」ような力技が、中国で作り上げられた”中原の豆豉”の正体であり、日本の環境だと簡単には出来ないものなのですね。
”豆豉”の継承である”寺納豆”
寺納豆は「大陸直系の豆豉」です。
そのため、醤油や味噌の作り方と違います。
寺納豆は、飛鳥・奈良時代から平安時代にかけて、大陸(唐)へ渡った僧侶たちが持ち帰った「豉」の製法がそのまま寺院で受け継がれたものです。
これは、米や麦を使わず、大豆そのものに麹菌を植え付けて「豆麹」を作ります。蒸した大豆に麹菌を繁殖させ、それを塩水に漬けて数ヶ月から1年ほど熟成・乾燥させます。
これは「中原」で生まれた、タンパク質を直接分解して強力な旨味を引き出す「大陸型・豆麹工学」そのものです。ですが、日本の環境では豆麹はとても作りにくい環境ですので、工夫をしています。日本ではそれ以前から作っている「穀物カビ(アスペルギルス属)」を利用して騙しています。
日本の伝統的な豆麹づくりにおいて最も重要な工程は、蒸した大豆に麹菌を混ぜる際、同時に「煎った麦粉(はったい粉)」や「米粉」を表面に薄くコーティングすることです。麹菌は大豆のタンパク質を直接食べるのが苦手ですが、表面にまぶされた「穀物の粉(デンプン)」には即座に反応します。それにより表面の穀粉を足場にして菌糸を伸ばし、勢いがついたところで、その強力な酵素を使って大豆本体のタンパク質を分解し始める。
さらに、寺納豆(大徳寺納豆など)の場合は、一粒ずつの豆をバラバラの状態で麹にします。大豆を蒸した後の「外側は乾き、内側はしっとり」という絶妙な状態を維持します。少しでも濡れすぎれば雑菌(納豆菌や腐敗菌)が勝ち、乾きすぎれば麹菌が死にます。
麹室の中で何度も手作業で混ぜ、温度と湿度を1度・1%単位でコントロールします。「高温・低質では動かない」はずの菌を、この「一粒一粒をVIP待遇する土木的空間」によって動かしているのです。
雑菌が絶対に勝てない、穀物麹菌だけに有利な「清潔・恒温・恒湿」の空間を維持する事により、やっと作れます。
こんな工夫があり、「中国から来た技術(豆麹)」を「大豆を米や麦のふり」をさせることで、繊細な穀物麹菌を騙して働かせて作っているのが、日本の『寺納豆』なんです。
中国・漢が「日本の環境を人為的に作り麹を作ろうとしたが、環境から穀物麹は難しく、大豆を麹に変える雑菌を使うようになった」というのでしたが。その”豆豉”が唐との交流で日本に来て、日本がそれを真似しようとした時には「中国の様に雑菌が付かないので、穀物粉を表面にまぶして穀物麹を騙す」という人為的な工夫をしたわけです。
中国・朝鮮半島の”餅麹”と日本の”味噌玉”
「豆麹」の続きですが、愛知県の「豆味噌(八丁味噌など)」で使われる豆麹では、さらに大胆な方法がとられます。
蒸した大豆をすり潰して、テニスボールほどの大きさに固めた「味噌玉」を作ります。丸めることで表面に亀裂が入ったり、水分が適度に保たれたりします。この「すり潰された面」は、丸ごとの大豆よりも菌が食いつきやすくなります。
穀物麹が2〜3日で完成するのに対し、豆麹は表面だけでなく中まで菌を行き渡らせるために、より長い時間をかけてじっくりと育てます。
これも理由があり、愛知県(旧三河・尾張)は、夏場の湿度が極めて高く、気温も上昇しやすい地域です。米麹や麦麹を使った味噌は、デンプン質が多いため糖化が進みやすく、高温下ではすぐに二次発酵(酸敗)が始まってしまいます。底で使われるようになったのが「豆」です。
豆麹はタンパク質が主成分です。これを「塩」と「重石」で徹底的にプレスし、空気を遮断して数年単位で熟成させます。豆麹菌が生成する抗酸化物質と、高濃度の塩分が結びつくことで、夏の猛暑でも「腐敗」せず「熟成」し続ける堅牢な発酵体となるのです。
この「味噌玉」、中国や朝鮮半島の「餅麹」と似てるように見えますが、真逆とも言える技術です。
「表面積」に対する思想が真逆です。
大陸・朝鮮の「餅麹」は「閉鎖・蓄熱型」で、内部の水分を逃がさず、発酵熱を溜め込んで40℃〜60℃の高温状態を作る。この高温・酸欠状態で生き残れる「クモノスカビ」や「ケカビ」を優先的に繁殖させます。
表面積を小さくすることは、繊細な菌を排除し、タフな野生菌を「選別」するためのフィルターです。
それに対して愛知の「味噌玉」は「物理的破壊・浸透型」で、ツルツルして菌が食いつけない大豆を「突き潰す」ことで、微細な亀裂(内部への道)を無数に作ります。塊にしながらも、実は「菌が入り込める表面(界面)」を内部にまで物理的に拡張しています。これにより、日本の繊細なコウジカビ(アスペルギルス・オリゼ)が、一粒の大豆では不可能な「深部への定着」を実現します。
「温度管理」には決定的な差があります。
大陸・朝鮮の「餅麹」は囲い(藁など)の中に閉じ込め、菌自らが出す熱で「サウナ状態」にします。人間の介入は最小限で、菌の野生の勢いに任せます。
それに対して日本の「味噌玉」は塊にはしますが、それを麹室(人為的な環境)に並べ、「温度が上がりすぎないよう」に人間が厳密に管理します。味噌玉の表面にびっしりと生えるのは、高温に強いクモノスカビではなく、あくまで日本の「黄麹菌」です。これを維持するために、愛知の職人は「塊」でありながら「散麹」と同じような細やかな温度調整(放冷)を行います。
さらに、八丁味噌において「塊(味噌玉)」である最大の理由は、その後の「重石(圧力)」にあります。餅麹は「麹そのもの」を作るための形状ですが、味噌玉は「その後の2年以上にわたる高圧熟成」に耐えるためのユニットです。
バラバラの散麹では、数トンの石の圧力で潰れて泥状になり、酸素が完全になくなってしまいます。しかし、味噌玉という「硬い構造体」として仕込むことで、圧力を分散しつつ、数年かけてゆっくりとタンパク質を分解し続ける「超長期・緩慢分解システム」を使っています。
また、地方(特に三河周辺)では、奈良・平安よりも昔のそれ以前から、海塩と豆(あるいは魚や肉)を漬け込み、時間をかけて熟成させる「塩蔵」の文化が、縄文以来の伝統として高度化していました。
つまり、この八丁味噌で使う「豆麹」文化も、中国から来たものではないという事です。
もしかしたら、中国で「餅麹」や「豆麹」が作られるようになったのも、先にこの愛知にあった「味噌玉」の源流が既に日本にあったからかもしれませんね。「豆でも麹が作れる」というのを教えたからでしょうか。
「豆を潰して固める」という味噌玉の工程に直結する物理的遺物は、例えば、下宅部遺跡(東京都東村山市)と、縄文時代後期(約3,500〜3,200年前)と、東夷から大豆を持って来た周代、中原に大豆を持って来た中国・漢代より遥か昔にあります。
土器の中に残っていた「豆(ダイズ属)をすり潰して練り固めた、直径数センチの塊の炭化物」が出土しているのですね。保存の為に塩を加えると、気付けば豆麹になっている事でしょう。
とりあえず、「豆麹(ただし菌は穀物麹)」も、中国からではなく、日本の方が古くからあるのは確実ですね。
日本の”豆醤”に到る紀元前の歴史
縄文草創期〜早期(約12,000年前〜)
発酵技術の土台(OS)まず、味噌という「半固形の混合発酵物」を作るための技術基盤がこの時期に完成しています。その前身としては、”魚醤”という魚を”発酵させて保存する食品”という、15,000年前からの日本の食文化がある訳です。そして味噌状の食品としては、”縄文味噌”とも呼ばれる堅果類を用いた「ドングリ味噌」が12,000年前には日本の食文化があります。
鳥浜貝塚などの土器から「加熱変性がなく、高度に自己融解(酵素分解)したアミノ酸」が検出されています。これは「土器の中でタンパク質を一定期間、分解・熟成させる」という”醤(ひしお)”の技術が、すでにこの時点で存在していたことを示します。
縄文前期(約9,000年前〜6,000年前)
素材の合流と「味噌」の誕生ここが「味噌の原型」の明確な起点です。琵琶湖の粟津湖底遺跡、岡山県の朝寝鼻貝塚や山梨県の酒呑場遺跡など、既に『大豆』が栽培されていた事が決定的になります。素
縄文早期から続く大豆(ツルマメ)の選別により、この時期には栽培種である大型の大豆が土器の圧痕や炭化物として明確に現れます。
土器の付着物分析において「大豆の脂質」と「魚介・肉類のタンパク質分解物」が同一の土器から検出されるケースがあります。単一の素材を漬け込む「醤」から、栽培大豆や穀物を「潰して混ぜる(=味噌の語源「未だ醤(ひしお)にならざるもの」の工程)」段階へ移行したのがこの時期です。
味噌・醤油のプロトタイプがこの時期に出来たわけです。
縄文中期(約5,000年前〜)
完成された「縄文味噌」中部地方(山梨・長野)の高度な土器文化圏では、より確実な形跡が見られます。
縄文人はドングリを粉砕して発酵させる技術を12,000年前と古くから持っています。この手法に、栽培化された大豆というパーツが加わることで、現代の味噌の直接的な祖形である「穀物+豆+発酵」のパッケージがこの時点で既に完成するのです。
麹(コウジカビ)の利用
日本の気候風土において、土器に付着した穀物を放置すれば、野生の麹菌(アスペルギルス・オリゼ等)が作用するのは生物学的必然です。これを利用した「麹による分解」のプロセスが、この時期の土器付着物の化学組成からも確認できます。
時代別:日本における「味噌の原型」の進化年代段階物証・根拠
・約12,000年前
土器に残る非加熱の「高度アミノ酸分解物」があります。これは穀物あるいはドングリなどの堅果類によるものです。
・約9,000年前
大豆などの食材が確立栽培化され大型大豆も出現。
・約6,000年前
大豆と魚介・穀物を混合・粉砕して発酵させた付着物が土器にあります。
・約5,000年前
土器に圧痕大豆が急増し、定住集落での組織的な管理が見られます。
土器の付着物分析から導き出される答えは、「日本の大豆の味噌の原型は、遅くとも縄文時代前期(約9,000年前〜6,000年前)には、栽培大豆の利用とともに成立していた」となります。「魚醤」になれば日本は15,000年前からになります。
というか、「日本の気候」という条件では仕方がないのですね。
・豆に水を吸わせて煮たものを皿代わりの葉っぱの上に少し置けば、枯葉菌が付いて発酵してしまい”納豆”になってしまい。
・豆を搾った汁に味付けとして塩を加えれば、日本は海塩なので凝固して豆腐になり。
・搾り滓を保存食として塩を増やして保存すれば、じっくりと発酵して”醤”となってしまう
ドングリ味噌に関してはもっと前からありますし。これは、意識して無くても生活の中で自然と出来てしまうのですから。
中国の文献に「豉」や「醤」が現れる(漢代)よりも3,000〜6,000年も前に、日本列島では独自の「大豆発酵技術」がある事は、地層の中の痕跡から判ります。そして「中国の気候」では自然には納豆も豆腐も醤も出来ないのです(枯葉菌は乾燥で活動を止めてしまうので、大陸内陸民族の文化ではない)。
「味噌」という言葉自体は後世のものですが、その物理的な実体である「大豆を使った微生物で分解・熟成させた半固形食品」については、間違いがなく、日本の「醤」文化は世界最古と言えます。
「板状土製品」を床に使っていた日本文化、それが中国に伝わります。それを屋根の上に使いだした「瓦」が、日本に漢末にやって来たのと同様で。
「大豆を栽培し過程を経て発酵させる」という日本文化、それが中国に伝わり、人為的工夫から「豆豉」が出来、それが日本に隋や唐の頃に日本にやってきた。『豆豉』というのも「源流は日本にあり、それが中国でアレンジされ出戻りしてきた技術」なのですね。
”豉”についての推測(追記)
少し大豆や小豆の遺伝子について考えていて、ふと考えて調べた上での仮説です。
先に書いていますが、中国の『豉』は確かに、日本では発祥しない作り方です。環境を作る為に閉鎖空間を作り、そこの温度と湿度を上げてカビが繁殖する空間を作り、そして作る。これは、「気候や環境が発酵に適さない中国」だから、先にモデルにする食品があり、それを真似して食品製造をしようとして、作られていた場所の環境を模倣しようとして作られた、というものですね。簡単にイメージすれば、ビニールハウスで違う季節の環境を作る、というのと同じ発想です。
これが日本では発祥しないのは簡単で、「日本は自然放置で発酵してしまう気候や環境」と中国とは真逆だからです。自然に菌が付いて繁殖して出来てしまう環境にあるので、環境を作る必要性がない、というか思いつかないわけです。考える方は、「如何に生産確立を上げる作り方をするか」というほうですね。例えば、時期。季節や気温や天候などを見て作る、というものや、菌が付いたら土器に入れて、発酵したら塩水に一度付けて、天日干しをしてという手法などです。
ただし、自然利用では、日本では納豆菌も強い勢力であり、少し失敗すれば納豆になります。塩を加えて味噌の原型を作っていますが、その時の環境(気候)によっては腐ってしまうなどもあるのですね。
そこで「わざわざ環境を人為的に作り上げて食品製造する」というのは驚きだったのだろう、というのは想像に難しくありません。そしてその「環境を人為的に作る」というのは導入が可能で、そして生産性、というか生産性効率を劇的に上げます。
たぶん、この技術が残っているのが「麹室」なんだと思います。
ただ、これさえも絶対ではありません。「麹室」みたいなものを日本が既に作っていた。それを中国が真似をした、という可能性も十分にあります。
これは簡単な話なのですが、「環境を人為的に作らないといけない環境にしないといけない」と同時に、それを「専用の部屋を作り行う」という事が思いつくか、という事です。日本内で「製造確立を上げる為に作っていた食品加工部屋」、これを中国側が真似して環境さえ模擬できるように更に強固にした(石造りで密閉空間とした)という可能性もあるのです。
だって、もし中国から来たのであれば、その室はもっと密閉性があり、ブロック状を積み重ねたような密閉建築物でなければおかしいからです。
すると、「豆豉」の何に驚かれたか?
味わいの違いでしょうね、醸す菌が違いますから。
ただ、その菌は日本では難しいですので、日本には結局入ってきていないのです。
ここで問題になるのが、「中国には先に食品モデルが必要だ」という所です。そう、中国の”豉”自身が、その食品モデルは日本から来たものでは?
という可能性を考えたのです。
色々調べた中で、ふと、日本の記録を調べます。
源順が編纂した現存最古の分類辞書『和名類聚抄』において、「豉」(トウチ等の大豆発酵食品を指す漢字)ですが、こう書かれています。
釋名云 豉 是義反 和名久木 五味調和者也
そう、和名として「久木」という名称があります。
この和名が有る無いは、結構、重要なポイントです。調べていくと、「和名は無い」は外来からのものです。でも「和名が有る」のは、外来ではなく日本古来から作られて来たもの・使われて来たものである、という点が大体当て嵌まります。
「久木」というのは、アカメガシワ(赤芽槲)の別名です(万葉集などに出てきます)。この種子が黒い豆状であり、これに似ている食品だから、名前をこれから取られたものと思います。

注目すべき点は、「和名が有る」と言う点です。そしてもう少し調べると、その名前自体に、ルーツのヒントがあるのだと思います。
「豆豉」は現在の中国語では「dòuchǐ(ドウチー)」と読み、日本でも「トウチ」と知られていますね。
でも「豉」と言う読み方、昔は違います。この漢字を上古音で読むと「grjigh(グギー)」という発音になります。
そう「くき(久木)」と大変に似た発音になります。
これは、元のモデルは日本にあり「くき」と呼ばれていた食品であった。
それが中国に伝わり、それを模倣した食品を作ろうとして人為的に環境を作る室を作り、それで出来たのが「豆豉」なのでしょう。
そういう可能性が高くなるとは思います。
しかし、今の寺納豆を見ると、環境制御しての作り方ではありませんよね。
寺納豆(浜納豆や大徳寺納豆など)も通説だと「中国から」となっていますが、実際の製造工程を見てみると、中国から伝わったとされる「室で徹底的に温度・湿度を管理し、特定のカビをコントロールする中国式」の技術が使われているわけではありません。
むしろ、蒸した大豆に塩を混ぜ、日本の湿潤な気候と土着の環境に身を委ねるようにして、自然の力(あるいは納豆菌や野生のカビなどの複合的な作用)で発酵させる。これは、中国的な「徹底管理された人工環境」のシステムとは似ても似つかないものです。
つまり、こうなる。
中国には自然発酵の土台がないため、日本からの「くき」を真似しようと「室」という管理システム(環境構築)を発達させて「豉」を作り上げた。
しかし、日本にはそれ以前から(中国の管理技術や制度としての「豉」の製法が本格的に入ってくるはるか前から)、自然環境の中で発酵させる固有のスタイルやベースが存在していた。
だからこそ、日本にあるいわゆる「寺納豆」の系譜も、中国のような徹底管理型の製法に変質することなく、日本古来の野性的な発酵のあり方をそのまま温存・継続したものになっている。
中国が「管理システム」を発達させる必要に迫られたのに対し、日本はもともと持っていた古い作り方(自然環境を前提とした発酵)のほうがベースにあったため、寺納豆のなかに中国的な管理手法は、麹を付ける段階と言うのは取り入れられていますが、他は従来の日本的な手法が使われているのです。
日本の伝統的な豆麹づくりにおいて最も重要な工程は、蒸した大豆に麹菌を混ぜる際、同時に「煎った麦粉(はったい粉)」や「米粉」を表面に薄くコーティングすることです。麹菌は大豆のタンパク質を直接食べるのが苦手ですが、表面にまぶされた「穀物の粉(デンプン)」には即座に反応します。それにより表面の穀粉を足場にして菌糸を伸ばし、勢いがついたところで、その強力な酵素を使って大豆本体のタンパク質を分解し始める。
こういう手法、中国側に無いのですね。
あとは「粉もの文化」について、中国では乏しいというのもあります。更に、「米粉」という文化がっ中国で現れるのはもっと後からです。
先秦〜唐代では、米の粉砕・製粉記述は原則として存在しません。
後漢代末期以降に普及した回転石臼(磨)の対象は、一貫して小麦(麵)および豆類です。当時の農書・調理書の最高峰である『斉民要術』(賈思勰 著、6世紀・北魏)でも、粉(麵・粉餅)の原料として登場するのは小麦・大麦・緑豆・豌豆・葛です。米(粳・糯)の調理法は、「煮(炊く・粥)」「蒸(蒸す)」「醸(酒を作る)」、または蒸した後に「搗(つく)」(「餈」「糕」の類)のみです。生米を石臼や鉢で挽いて粉状にする製粉工程・用語(「米粉」「磨米」等)は一切存在しません。唐代では、
『外台秘要方』『千金要方』『食療本草』等の唐代の代表的医書・食治書において、「粉」と単に書かれる場合は100%「小麦粉(麵)」または「葛粉」「鉛粉」を指します。米を挽いて粉にする独自の製粉法や日常的な食文化としての「米粉」の存在は確認できません。宋代〜元代になると薬品・特殊用途としての『米粉』の散見されます。
宋代〜元代にかけて、医書や日用類書に「米粉」「糯米粉」の語がポツポツと登場し始めますが、その用途は薬用・糊(接着剤)・特殊な加工に限定されます。『本草衍義』や『證類本草』などの宋代の医書において、糯米や粳米の項目に「粉」の語が現れることがありますが、これは外用薬(膏薬の基剤や湿布)あるいは服用薬を練り固めるための「絆(つなぎ)」としての用途です。また、『東京夢華録』『夢粱録』等(都市記録)の史料に登場する市販の「糕」は、米を挽いた粉ではなく「糯米を蒸して搗いたもの(つき餅)」、あるいは「小麦粉・葛粉・緑豆粉を練って蒸したもの」です。「索粉」等の麺状の食品も、すべて緑豆・葛などのデンプン(春雨の類)であり、「米粉を挽いて麺(ビーフン等)や主食にする」という日常的な粉食文化は史料上確認されません。明代以降(16世紀〜)になって、やっと明確な調理法・食品としての確立します。
生米を水に浸して石臼で挽き、きめ細かいデンプン・粉を得る「水磨粉(すいまふん)」や、米粉を用いた具体的なレシピ・製粉工程が農書・本草書・調理書に明記されるのは、明代(16世紀以降)です。『本草綱目』(李時珍 著、1578年・明代)「穀部」には、粳米・糯米の条において、初めて明確に「作粉(粉となす)」「水磨粉」の製法・性質・効能が独立した項目・記述として整理されます。また、『農政全書』(徐光啓 著、1639年)等の明代末期の農書や調理書(『宋氏養生部』等)に至り、米を石臼で挽いて粉にし、それを加工して各種の菓子や麺にする明確なレシピ・工程が史料テキストとして完全に確認できるようになります。
と、中国でも米粉の歴史と言うのは宋代以降になってやっと現れる「加工食品材料」なのです。
つまり、「寺納豆の作り方というのは、ほとんどが日本在来の技術で出来ている」という事です。
