日韓関係は“友好幻想”から“誤解しない関係”へ──李在明氏の勝利が示す“構造の再確認”
選ばれたのは李在明──韓国の選択と、日本が取るべき構え
2025年6月3日、韓国大統領選挙で進歩派の李在明氏が当選確実となった。
昨年末、尹錫悦前大統領が戒厳令をめぐる混乱の末に弾劾・失職して以来、混乱の収束をかけた選挙だったが、韓国社会が最終的に選び取ったのは、保守ではなく進歩の顔だった。
しかもその人物は、過去に何度も日本への厳しい発言を繰り返し、日本社会からも警戒されてきた政治家である。
だが、この結果に驚くべき点はない。
すでに多くの日本人が予感していた通りであり、それでもどこかで「今回は違うのではないか」と信じたがっていたのも、また現実だった。
「もう反日は終わっている」は希望であって、前提にはなり得ない
近年、日本国内では「若者の間では反日感情は薄れている」「韓国も変わりつつある」といった言説が流布されてきた。
確かにそうした兆しがまったくなかったとは言わない。だが、それは空気の断片であって、社会の構造そのものではなかった。
今回の大統領選挙は、そうした希望的観測に対して、ひとつの答えを突きつけたと言える。
反日は“感情”ではなく、“制度”である
韓国の対日姿勢を、しばしば日本では「一部の過激な人たちの声」や「政権によって左右される姿勢」だと受け止めがちだ。だが、それは本質を見誤る。
対日批判的な態度は、韓国においては政治・外交・教育・司法を貫く制度的な構造として定着している。
歴史認識は外交交渉の材料であると同時に、政権の正統性を内政的に支える政治資源でもある。
裁判所の判断、教科書の記述、公共放送の編集方針、外交文書の文言──そのすべてが、無意識に「日本に厳しくあること」を織り込んでいる。
これを「反日」という単語で簡略に括ってしまうと見落とされがちだが、より正確には「制度としての対日批判的構造」なのである。
この構造が変わらない限り、いかに謝意を示しても、それが肯定的に受け止められる可能性は極めて低い。
謝罪外交はすでに存在しないが、“通じる構造”も存在しない
一部で語られる「謝罪外交」という言葉も、すでに形骸化して久しい。
日本政府は、すでに何度も謝罪の意思を表明し、その都度文書や談話に残してきた。
これ以上の謝罪を求める声は、日本の国内にはもはや存在しないと言っていい。
だが問題は、「もう謝る必要はない」とする日本側の姿勢と、「まだ謝っていない」とする韓国側の制度的構造が永遠にすれ違ったまま残っていることにある。
ここには感情の問題ではなく、「謝罪が機能する土台がない」という現実が横たわっている。
いま必要なのは“誤解しない”構えである
かつて日本は、「いつかは理解し合える」「時間をかければ変わっていく」と信じていた。
その信念がまったくの幻想だったとは思わない。だが、それを前提にし続けることは、もはや外交ではない。
現在の日本に必要なのは、「なぜそう動くのか」「なぜ通じないのか」を冷静に読み解く構造的視野である。
そして、その上で過度に期待も失望もせず、巻き込まれず、しかし断絶せず、現実的に構えることだ。
距離を置くという知性──それが成熟した隣国関係のかたち
李在明氏の当選は、日韓関係における“希望の終わり”ではない。
それはむしろ、「誤解の終わり」への第一歩として、日本側に問いかけられている。
理解や友好という言葉が先に立ちすぎた結果、日本は何度も振り回され、誤解の中で期待と失望を繰り返してきた。
だが、そろそろその循環から降りるときである。
わかりあえないからこそ、誤解せず、静かに距離を取る。
それこそが、これからの日本に求められる知性であり、構えである。
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