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note公式は「実体験」が大切と言うけれど。記事の価値は1次情報だけに宿るわけじゃない、という話。【エッセイ / noteの書き方 / ライティング / 画像生成AI】

書き手の実体験の重要性が増している。

最近のnote公式の公開記事を読んでいると、そんな話が出ていたりします。


確かにそれ自体はよくわかります。

実際に自分で試してみたこと。
やってみた中で上手くいかず失敗したこと。
自分の仕事や生活の中で得た知見。
そういったエピソードを伴った体験には、やはり説得力が出てきますよね。

検索して拾ってきただけの情報や、よくあるような情報を整理しただけの記事よりも、読んでいても刺さりやすい。


ただ、実体験とか一次情報だけが記事の価値の根源かと言うと、それもまた違う
実体験は価値の一つの源泉ではあるが、必須条件ではないからです。
本質的なのは、その文章にその人なりの固有性があることなのだと思っています。




実体験は強いけれど、有限でもある

実体験は独自性が宿りやすい素材である、このこと自体は当然そうですよね。
たとえば副業なら、実際に売ってみた人の話は重みがあるわけで。


とはいえ、その反面で限界もあります。
誰もが面白い実体験を大量に持っているわけじゃないのだから

仕事の経験、生活環境、出会える人、挑戦できる範囲、失敗の種類。
こういうものは、どうしても偏る。
誰もが波瀾万丈なキャリアを歩んでいるわけではないし、誰もが日々新しい挑戦をしているわけでもない。

そして、一度きりの経験を何度も「新鮮な一次情報」として使うことも難しいですよね。
もちろん掘り下げ方に変化はつけられるが、それでも素材としての量には限界がある。
実体験は限りある資源だし、だからこそ希少性があって価値が宿るとも言えると思います。


さらに言えば、面白い人生を送った人が、面白い文章を書くとは限らないんですよね。

逆に、そこまで派手な経験ではなくとも、印象に残る文章を書く人はいる。
この差はどこから来るのかと考えると、やはり実体験そのものより、それをどう見ているかのほうが大きい。
つまり価値があるのは、個人のフィルターの固有性であって、体験をどう意味づけるかにこそあるわけです。


二次情報でも、面白い文章はある

たとえば、本や論文やニュースや他人の発信を読んで、それをもとにした記事スタイルというのはよくありますよね。
私自身もこの切り口で書くことはある。
これは形式上は二次情報になります。

でも、二次情報だから価値が低いかというと、そんなことはない

同じテーマについて書いていても、「ただ要約しただけの文章」と、「複数の情報を比較して、そこに自分なりの切り口を与えている文章」は別物。
後者であれば価値が伴う。

何を重要だとみて、どう再定義するか。
こうした認識の再設計には、同じ情報源であっても、その人の思考の癖がかなり強く出てきます。


つまり、文章の価値を決めているのは、一次情報か二次情報かよりも、その情報がどんなフィルターを通っているかのほうが重要と言えます。


生成AI時代だから求められること

では、そもそもなぜnoteが1次情報を推奨するのか?
この理由のひとつは、おそらく検索流入にあります。
Googleが信頼できる情報をSEO的に求めていて、体験に基づく1次情報はそれに合致している。


もうひとつは生成AIによって増加した量産コンテンツへの対処にあるのではないかと思います。
AIで記事を作ることは容易く、すでにネットの海には大量に流通していますよね。
ただAI量産記事ばかりだと、平均的で均質化してしまう。
無難な内容や、既存情報のまとめばかりになってしまう。

ネット全体を見たときに、こうしたコンテンツ過多の状況への対応は厳しくなっている。
例えばYoutubeも、AIに限らず低品質なコンテンツは収益化の対象外とされつつありますし。


noteも置かれた状況は同じですよね。
AI量産記事が増えた結果として、似たような記事ばかりになるのならば、プラットフォーム全体としての独自性が低下しかねない。
そうするとnoteの競争力が維持できるのかという危機感を、note運営も当然感じている。

ただnoteとしては、生成AIを創作支援ツールとして用意しているし、レコメンドシステムにも生成AIを活用しています。
noteの持続的な成長のためには、生成AI活用路線が必須だとみているわけです。



だからnoteとしては、基本的には生成AIの使用を制限したいわけではない。
とはいえ、プラットフォーム価値が下がるような量産コンテンツを増やしたい訳でもない。

その折衷案としてわかりやすいのが、実体験という1次情報推しにあるのではないかと思います。


note公式が言う「一次情報」は、価値の代替指標に過ぎない

実体験として価値観を明確化すると、運営にとっても、書き手にとっても、判断基準としてわかりやすくなりますよね。

運営側からすれば、「読む価値があるかどうか」を直接判定するのって実際はかなり難しいですから。
文章の価値って、本来そんなに単純じゃない。

だからどうしても、こういうわかりやすい指標を使いたくなる。
実体験以外だと、専門性、権威性といったものもそうですよね。


これらは、たしかに価値に結びつきやすい。
でも、あくまで価値そのものではなく、価値の代替指標でしかないのですよね。

たとえば体験に基づいても、ただ起きたことを順番に書いただけだと価値が高いとは言いにくい。
一方で、二次情報ベースでも、読んだあとに見え方が少し変わる文章はある。

つまり、一次情報は価値を生みやすい素材ではあるけれど、価値そのものではない。
だから逆にいえば、価値さえ伴うならば、1次情報であることにこだわる必要なんてないんですよね。

「実体験を書かなきゃいけない」とか「自分にはそんな特殊な体験がない」とか、そんな風に思う必要もないのです。


書き手にとって大切なことは

なので、珍しい体験を持っていることより、平凡な素材からでも、自分なりの意味を引き出せることって大切になってくるんじゃないかと思うんですよね。

日常の小さな違和感でもいい。
誰かの発言でも、本でも、ニュースでもいい。
ありふれた素材でも、そこに自分なりの認識の通し方があれば、十分に記事は独自性を有しうる。

実体験だけに依存していると、きっといずれネタ切れする。
毎日投稿なんかは特に難しくなる。
でもフィルターが育っていれば、同じ日常でも、同じテーマでも、少しずつ違う切り口が見えてくる。


本当に問われているのは、一次情報かどうかではなく、その記事にどれだけ固有の価値があるかでしょうね。

一次情報かどうかは、本質ではない。
実体験の量も、本質ではない。
生成AIを使ったかどうかも、本質ではない。

だから、自分の見方を育てることにはきっと意味があると信じているわけです。



それではまた。
よかったらスキしてくれると嬉しいです。


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