たとえnoteの反応が薄くても。その気持ちを「承認欲求」と雑に片付ける前に。【noteの続け方 / エッセイ / メンタル / HSP / 画像生成AI】
人は思っている以上に、反応を求めてしまうことがある。
noteを書き続けていると、ときにそんなことを思ったりします。
思ったより反応がなくて、書く内容を失敗したかなと感じたり、あるいは自分の思いが強すぎたかなと感じたり。
特に、noteを書き始めたばかりの初心者の頃は、そんな反省会をすることがありましたね。
別に、投稿するたびに毎回大きく伸びると思っているわけじゃない。
毎回、たくさんのスキやコメントを期待しているわけでもない。
それでも、noteにおける反応のなさって、思った以上に気持ちが沈むことに繋がったりするんですよね。
そして、そういうときに少し斜に構えて、「これは承認欲求にすぎないから、とらわれすぎてもいけない」と処理したくなることがある。
というか、そうして納得させることって、私自身よくありました。
でも、それって本当にそうなんでしょうか?
承認欲求って便利な言葉ですよね。
普遍性があって、それでいて曖昧さを内在し、定義がぶれやすい。
とても使いやすい単語です。
感情を雑にラベリングして、手っ取り早い納得が得られてしまう。
だからこそ、その言葉で片づけた瞬間に、何か大事なものを見落とすんじゃないか。
そんなことを最近思うんですよね。
note以外でも、個人ブログを書いているときも、PV数はもちろん気になったりはする。
読まれたかどうかは大事な指標だし、数字が伸びればうれしい。
けれど、個人ブログだとコメントなどの反応がなくとも何も感じなかったりします。
読み手との距離感が元々存在していて、読まれても反応なんて何もないのが自然だからです。
一方でnoteは少し違いますよね。
ビュー数だけじゃない。
スキがあり、コメントがあり、フォローもある。
更にそれらがアルゴリズム的に促されている。
つまり、反応が起きやすい場所として設計されている。
だからこそ、noteでの無反応って±0というよりは、マイナスに感じられてしまう。
反応が起きうる場だからこそ、それが薄いと内容まで否定されたように思えてしまう。
そこには、もちろん「承認欲求」はあるのでしょう。
誰かに認めてほしい。
価値を感じてほしい。
わかってほしい。
そういう気持ちは誰しも確かにあるはずです。
けれど、それだけで全部を説明しようとすると、少し雑になる。
その雑さで、取りこぼすものがある。
書くということは、本当は承認欲求より以前に、存在確認が混じっているからです。
つまり自分が何を考え、何を感じているかを整理し、自分自身の思考をまとめる作業でもある。
実際に、言葉にすることで初めて「ああ、私はこう思っていたのか」と分かることもあったりはずです。
だから反応が薄いとき、単に他人から認めらなかっただけでなく、自分の存在価値まで否定されたような感覚になりうる。
とは言え、「他人に期待しないほうがいい」と言いたいわけでもないんですよね。
それもきっと違う。
人は生きていれば、他人に期待する。
わかってほしいと思うし、見てほしいと思う。
受け取ってほしいと思う。
それ自体は弱さでも未熟さでもなく、人と関わって生きることそのものでもある。
だから問題なのは、期待することではなく、そのたびに自分の価値の決定権まで外に明け渡してしまうことなのでしょう。
外からの反応は、栄養のようなものにはなる。
励みにもなるし、体温を少し上げてくれることもある。
けれど、それを心臓の代わりにしてしまうと苦しくなる。
だから、期待してもいい。
届いてほしいと思ってもいい。
返事がほしいと思ってもいい。
それをすぐに「承認欲求」と呼んで、冷笑的に処理しなくてもいい。
誰かにわかってほしいと期待することは、そんなに浅いことではないのだから。
そして、その当たり前の期待を持ちながら、それでも最後のところだけは外に委ねすぎない。
その少し不安定なバランスの上で、たぶん人は書いているし、生きている。
「承認欲求」という言葉で見えるものはある。
でも同時に、見えなくなるものもあるのだと、そう思います。
それではまた。
よかったらスキしてくれると嬉しいです。
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