薬剤師が、脳の洗浄「シロダーラ」で昇天した話。【真面目マッサージ】
薬剤師という神経質すぎるお仕事
私の目は、たぶん高性能スキャナーか顕微鏡のレンズに改造されているのだと思います。
四十三歳、薬剤師。
狭い調剤室で一日中立ち尽くし、極小文字の「2mg」と「2.5mg」の違いを瞬時に判別する日々。
ミスは許されない。
その極限の緊張感は、帰宅して布団に入っても続きます。
夢の中でも私は処方箋を監査し、疑義照会をしているのですから。
眉間には深い縦ジワというバーコードが刻まれ、奥歯は無意識の食いしばりで悲鳴を上げています。
私は今、強制的な「シャットダウン」を必要としていました。
ただの睡眠ではない、電源そのものを一度落とす完全なるシャットダウン。
だから私は予約したのです。
脳のマッサージ、「シロダーラ」を。
静寂のオペレーターとの対面
サロンの扉を開けると、そこは無音に近い静寂に包まれていました。
薬局の電話の呼び出し音や、分包機の作動音とは無縁の世界。
「お待ちしていました」。
現れたのは、30代くらいの女性セラピストさん。
白衣ではなく、柔らかなリネンの服を纏った彼女は、波立たない湖のように穏やかな空気をまとっています。
彼女は私の顔を見るなり、静かに言いました。
「スイッチ、壊れてますね。『OFF』に入らなくなっています」。
図星でした。
私の交感神経は、常に赤ランプを点滅させている状態。
「今日は、脳の配線を繋ぎ直しましょう。思考のノイズを全部、オイルで流しますから」。
その言葉は、どんな安定剤よりも私の心に効きました。
私は彼女というオペレーターに、すべての制御権を委ねることにしました。
【アビヤンガ(オイルマッサージ)】立ち仕事で帯電した脚のアースを流す
シロダーラを行う前には、全身の気血を巡らせる「アビヤンガ」が不可欠だといいます。
脳だけを休めようとしても、体が緊張していては信号が届かないからです。
まずは、狭い調剤室で八時間立ち尽くし、重力によって血液というデータが停滞している脚からスタートしました。
私は施術台にうつ伏せになり、温かいセサミオイルが足裏に垂らされるのを感じました。
セラピストさんの手のひらが、私の足裏全体を包み込みます。
彼女の手技は、指先でツボを押すというより、手のひらという「面」を使って、足裏に溜まった静電気を放電させるようなアプローチでした。
踵から足指の付け根に向かって、オイルの膜を押し広げるように、ゆっくりと圧をかけてきます。
私の足裏は、常に重心バランスを取るために微調整を繰り返すセンサーの役割を果たしていました。
そのセンサーのスイッチを、彼女の温かい手が一つずつ切っていくのです。
足指の一本一本を丁寧に回し、引っ張り、関節の隙間に詰まっていた緊張を抜き取られると、「もう、立たなくていいんですよ」というメッセージが、足裏から脳へと伝達された気がしました。
続いて、パンパンにむくんだふくらはぎへの施術に移ります。
ここは、下半身に溜まった古いデータを心臓へ送り返すポンプの役割を持っています。
セラピストさんは、両手で私のふくらはぎを輪のように囲み、アキレス腱から膝裏に向かって、長く、重いストロークで滑らせました。
「重いですね。情報のゴミが沈殿しています」と彼女が呟きます。
彼女の親指が、ヒラメ筋の中央ラインを捉え、左右に開くように筋肉を割いていく感覚は、イタ気持ちいいの一言。
立ち仕事で圧縮されていた筋肉の繊維が、オイルの潤滑によって一本一本ほぐれ、隙間が生まれていくのが分かります。
膝裏のリンパ節に到達した時、彼女は四本の指でそこを優しく圧迫し、堰き止めていたゲートを開きました。
ドクン、ドクン。
足先から太ももに向かって、熱い信号が流れ始めるのを感じました。
太ももの裏側、ハムストリングスは大きな筋肉です。
彼女は、前腕(肘から手首までの部分)を広く使い、太もも全体をアイロンがけするように圧迫しました。
調剤台の前で少し前かがみになる姿勢を支え続けていた太もも。
そこにある「張り」という名の過剰なテンションが、彼女の腕の重みによって平にならされていきます。
脚全体が温まり、ベッドに沈み込むような重力を感じ始めると、アース線が繋がり、体内の余計な電気が地面へと逃げていくような安堵感に包まれました。
【アビヤンガ(背部)】猫背の配線を整理する
脚の次は、背中です。
薬剤師は手元での作業が多く、どうしても肩が内に入り、背中が丸まってしまいます。
肩甲骨の間には、岩のような凝りが居座っていました。
セラピストさんは、まず仙骨(お尻の真ん中)にたっぷりとオイルを注ぎ、円を描くように温め始めました。
ここは神経の束が集まる場所。
じわじわと熱が広がり、背骨というメインケーブルを通って、脳へと信号が送られていきます。
「背骨のキワ、詰まっていますね。情報の通りが悪くなっています」と言いながら、彼女は背骨の両脇にある脊柱起立筋に親指を添え、腰から首の付け根に向かって、ゆっくりとスライドさせました。
それはまるで、絡まったケーブルを一本ずつ指で梳かして、綺麗に束ね直すような作業でした。
ゴリ、ゴリ、という音が体内で響きますが、凝り固まっていた部分が通過するたびに、視界の裏側がチカチカと明滅し、滞っていた神経伝達物質が再びスムーズに流れようとしているのを感じました。
そして一番の問題箇所、肩甲骨です。
彼女は、肩甲骨の内縁に指を潜り込ませ、へばりついた菱形筋を剥がしにかかりました。
「常に緊張して、呼吸が浅くなっています」。
グウゥーッという深い圧。
狭い調剤室で、棚の高い位置にある薬を取ったり、下の引き出しを開けたりと酷使されて断片化(フラグメンテーション)していた筋肉のデータが、彼女の手によって整理整頓(デフラグ)されていくようです。
背中全体が軽くなり、肺が大きく膨らむスペースが確保されたことで、呼吸が深くなりました。
【顔筋(がんきん)ほぐし】食いしばった仮面を外す
仰向けになり、いよいよ頭部に近い顔へのアプローチです。
「シロダーラの前に、お顔の緊張を解きます。ここが硬いと、脳が緩みませんから」。
彼女が施すのは、エステのような優しいフェイシャルではなく、筋肉に直接働きかける「顔筋ほぐし」でした。
「噛み締めてますね。顎が鉄板のようです」。
彼女は、私の頬骨の下、噛み合わせの部分である咬筋に、指の関節を当てました。
そして、小さな円を描くように、グリグリと筋肉を揉みほぐします。
「痛ッ……!」と思わず声が出ました。
「ここ、一番頑張っている場所です。ミスしちゃいけないって、歯を食いしばって」。
彼女の言葉に、涙が出そうになりました。
そうなのです。
誰にも言えないプレッシャーを、私は奥歯ですり潰して耐えていたのです。
彼女の指が、凝り固まった筋肉の結び目を一つずつ解いていくと、顎の力がフッと抜け、口元が半開きになるような脱力感が訪れました。
そして、最大の悩みである眉間。
「ここ、縦ジワのセンサーになっていますよ。伸ばしましょう」。
彼女は、私の眉頭を親指と人差し指でつまみ、左右に引っ張るようにストレッチしました。
常に眉を寄せ、処方箋の文字を追っていた皺眉筋(しゅうびきん)。
そこを物理的に広げ、平らにしていきます。
「眉間が開くと、心も開きます」。
その言葉通り、目の奥のズキズキとした痛みが、霧が晴れるように薄れていきました。
【シロダーラ】脳波のチューニングと強制終了
顔と体が十分に緩んだところで、いよいよ本番の「シロダーラ」です。
部屋の照明がさらに落とされ、ほぼ暗闇になりました。
「では、脳の洗浄を始めます。五感を閉じて、内側の感覚だけに集中してください」。
目の上にはオイルが入らないように、そして視覚情報を遮断するために厚手のコットンとタオルが乗せられ、耳にも軽くコットンが詰められました。
これで、視覚と聴覚からの「外部入力」が強制的にカットされました。
私は今、暗闇の宇宙にプカプカと浮いているような状態です。
「始めます」。
その合図と共に、額の中央、いわゆる「第三の目」あたりに、温かいオイルが細く、途切れることなく注がれ始めました。
ツツーーッ……。
最初、額に当たる感触は「くすぐったい」ような、「不思議」な感覚でした。
しかし、セラピストさんがポットをゆっくりと左右に揺らし始めると、感覚が一変しました。
オイルの流れが、右のこめかみから左のこめかみへ、そしてまた右へ。
一定のリズム、一定の温度、一定の圧。
チャプ、チャプ、チャプ。
オイルが髪を伝ってボウルに落ちる微かな音だけが、耳の奥で反響します。
最初の数分は、まだ脳が動いていました。
「このオイル、髪洗うの大変そうだな」とか「明日のシフト誰だっけ」とか。
しかし、オイルの振り子運動が続くにつれて、その思考すらも「どうでもいい」と感じ始めました。
脳の表面を覆っていた「思考のノイズ」が、温かいオイルに絡め取られて流れていくのです。
強制終了ではない。
もっと優しい、フェードアウト。
意識はあるのに、体がない感覚。
起きているのか、寝ているのか分からない境界線。
これを「シータ波」の状態と言うそうです。
瞑想の達人が到達する境地に、私はただ寝ているだけで連れて行かれているようでした。
額に落ちているはずのオイルが、いつしか頭蓋骨を透過して、脳みそのシワの隙間に入り込んでくるような錯覚を覚えました。
毎日酷使して発熱していた脳細胞が、冷却され、鎮静化されていく。
カリカリと音を立てていた神経の歯車が、オイルによって滑らかになり、無音で回転し始める。
「ああ、これが『無』か」。
情報の海に溺れていた私が、初めて辿り着いた静寂の岸辺。
そこには、処方箋も、疑義照会も、薬歴もない。
ただ、温かい波が打ち寄せるだけのリズムがありました。
【シロダーラ後の覚醒】再起動後のクリアな世界
どれくらいの時間が経ったのか。
「……ゆっくりと、戻ってきてください」。
遠くからセラピストさんの声が聞こえました。
オイルの滴下が止まり、タオルで丁寧に拭き取られます。
重いまぶたをゆっくりと開けると、視界が青く感じられました。
照明のせいではない、レンズの曇りが完全に取れたような、圧倒的な透明感です。
起き上がると、頭が軽い。
いや、頭が存在しないかのような軽さでした。
無意識に眉間に手を当てると、あんなに深かった縦ジワの溝が消えています。
指で触れても、凹凸がない。
ツルツルとした額。
「お顔、別人のようですよ。憑き物が落ちたみたい」。
セラピストさんが手鏡を渡してくれました。
そこに映っていたのは、神経質な薬剤師ではなく、穏やかな顔をした一人の女性でした。
目がパッチリと開き、白目が青白く澄んでいる。
食いしばっていたエラも、ほっそりとシャープになっていました。
静かなる再起動
サロンを出ると、夜の街のネオンさえも、優しく美しく見えました。
いつもなら「眩しい」と眉をひそめる光景が、今はクリアな映像として脳に届きます。
情報のノイズキャンセリングが完了した私の脳は、必要なものだけを静かに処理しているようです。
明日、調剤室に立っても、きっと私は大丈夫。
あのミクロの文字も、焦ることなく澄んだ目で見極められるはずです。
眉間にシワを寄せる代わりに、一度深く呼吸をしよう。
私には、この「脳の避難所」があるのだから。
私は生まれ変わったような軽い足取りで、駅へと向かいました。
😴他のマッサージのお話(小説タイプ)😴
これまで自分が受けてきたマッサージなどのリラクゼーション系の施術をヒントに、深いリラックス効果を得られるような文章を目指していけたらと思っています。
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真面目マッサージで、あなたの眠りが良いものになりますように…😴
