夜のブランコ 15
授業参観の時、
全部ひらがなの子ども、一部漢字の子どもといろいろ居た中で少し紘子は戸惑った。
それは転入生の鈴木孝太郎の文字だ。
全部ひらがなで書かれた文字は、タテ線とヨコ線の組み合わせからなる不思議な字だ。
ハネも、ハライもなく、ただまっすぐな子どものような字。
いや、子どもだけれど。
少し離れて見ると「こうたろう」と読める。
そういえば孝太郎の書いた文字を紘子は見たことがなかった。習ってなくとも自分の名前をすでに漢字で書ける子どもが居るなかで異質な文字だ。
孝太郎の様子を見てみると、自分の書いた半紙を不思議そうに見つめそれでも少し満足したように微笑んでいる。とてもふざけて書いているようには見えない。
子ども達の机の間を縫うように歩き、時々
「ここハネてみて」とか
「名前の最後にまるはいらないんじゃない?」とか言いながら
目の隅にいつも孝太郎を気にして見ていた。
孝太郎はもう一枚半紙を取り出すと習字マットの上に丁寧に置き、文鎮で押さえ、紘子が教えた通り左手を軽くカドに添えて右手に筆を持った。
筆先をちょんちょんと墨に付け、垂れないように墨を切り軽く持つと真剣な面持ちで半紙の上に持ってくる。
そっと筆を下ろすと、真横に線を引く。
ひらがなの「こ」の上の角のハネはない。
墨はつけ足さずそのまま一角目の真下に横線を引いた。
顔は真剣そのものだ。
うしろの席の青木永美が小さな体を「う~ん」と伸ばし孝太郎の文字を見た。
「孝太郎くん。お名前書くのよ?」
そう言ったように見えた。
すると孝太郎は慌てて筆に残った墨で右カドに書かれた二本線をぐしゃぐしゃと塗りつぶした。
ガタンっ
と、立ち上がると
「ぼくっ名前書いてないよ!これ名前じゃないよ!ホントだよっ!」
と叫び机の上に大事に置かれた作品を墨で塗りつぶそうとした。
紘子は慌てて孝太郎の席まで走ると筆を持った右手をつかみ、うしろから抱き締めた。
他の生徒に聞こえないように小さな声で
「いいの。塗りつぶさないでもいいのよ。」
と、ささやいた。
それきり孝太郎は筆を持つことがなく、うしろの席の永美も自分のせいかと少し気にしているようで筆の進みが悪い。
永美はすでに自分の名前を漢字で書けるが、ひらがなで書いたり、カタカナで書いたり落ち着きがない。
ここで紘子は部屋の空気を変えようと父兄に子ども達の席の間を移動して我が子の作品以外も見てやって欲しいと声をかけた。
父兄は喜んでまず我が子の元に行き
「上手に書けたわね」とか
「この字習ったンじゃなかったっけ?」とか
「顔に墨がついてるわ」とか言いながら
少し会話し、他の父兄と入れ違いながら席を回って歩いた。孝太郎は半分乾いた一枚目の半紙を抱え込み机に突っ伏して誰の目にもふれないように隠していた。
基子が孝太郎のそばに行き何か話ている。
紘子はいろいろな声のする教室の中で、耳をそばだて基子と孝太郎の話を聞こうと集中した。
孝太郎、見せて、習字。
やだっ
なんで?お母さん楽しみにしてたのに。
やだっ
孝太郎が顔をあげた。
笑うモン!
笑わない。孝太郎が一生懸命書いたのお母さん知ってるもの。
笑う!
笑わない!他の人は笑っても、お母さんは笑わない。
孝太郎がまた顔を突っ伏した。
何か言ったように思えたが顔を伏せているのでハッキリ聞こえない。基子が立ちあがり孝太郎の頭をそーっと撫でると、孝太郎の肩から力が抜けるのがわかった。
永美と永美の母、綾が基子に声をかけた。
ごめんなさい。
永美が謝っている。
基子が永美のそばにしゃがみこみ、「いつも孝太郎と仲良くしてくれてありがとうね。永美ちゃんよね?」と聞くと、永美がうなづいた。
孝太郎のこの行動をおかしく思わないで欲しいと、永美と綾に頼んだ。
父兄がぐるぐると他の生徒の作品を見て歩き、教室の後ろの壁際に戻って行くと紘子は父兄に言った。
「子ども達の少しの成長と、お勉強の様子を見ていただいてこれからの勉強に張りが出ると思います。そろそろ終業の鐘がなるかと思います。今日は帰りの会を抜きにいたしますので皆さんどうぞお子さま達とお帰りになってください。」
続けて子どもたちに、
「はーいっ。片付けていいわよ。廊下の流しでしっかり筆を洗ってね!」
はーいっ!
と声がして皆廊下に駆け出して行く。
父兄もあとを追い
「ちゃん洗いなさいっ」とか
「ほらぞうきんで周りをちゃんと拭くのよ」とか
「よく書けてたわね」とか言っている。
孝太郎は黙って席に座ったまま動かずにいた。
基子は孝太郎の脇にしゃがみこみ背中を擦っていた。
いちばんのりで片付けた子どもは、ロッカーからランドセルを取り出し
「センセーさよならー」と走って教室から出ていった。
教壇の前に立ち紘子は一人一人にあいさつをしながら見送った。
最後に永美と綾が教室に戻って来ると、孝太郎が立ちあがり
「えみちゃんっ」
と叫んだ。
「ぼくっぼくっ!ぼくと一緒に帰ろうっ!」
そう言うと急いで筆と道具を洗い、自分の書いた作品をきれいに4つにたたみ手近なノートに挟むとランドセルに仕舞い込み、基子の手を引き待ってくれていた永美と綾を伴い紘子を振り返った。
「センセーさよならー。」
廊下に孝太郎と永美の声が響き、基子と綾が紘子にペコリと頭を下げ歩いて行った。
つづく
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