夜のブランコ 22
紘子は約束の昼の一時よりもだいぶ前から「そのん」に居た。
土曜日の午前中に紘子がそのんに行くのは初めてのことで、マスターが驚いていたのが入り口からわかった。
「い、いらっしゃい。」
無口なマスターが、いつもの座席を指差し「どうぞ。」と言ってくれた。
「少し長くなるかもですが、一時に人と会うんです。いいですか?」
マスターは、カクカクとひきつった笑顔でうなづいた。
「この間のコーヒー一つホットでお願いします。」
紘子がいつもの席に移動するのを確認して、圭太はカウンターの内側へ入った。
お湯を沸かし、カップを温めている間に豆をひく。豆がひけたらネルにセットする。
人と会うって言ってた。
まさか、お見合いとか!
まさかこんなところでお見合いはしないか。
こんなところって、おいっ
チラッと紘子の居るゴムの木の向こう側を見る。
だって、仕事してるじゃないか。
パソコン開けて。
誰だろう、誰が来るんだろう。
オトコかな!恋人いるよな。きっと。
「だ、だだだって、あの人き、きれいだから。きっと、居るよな。」
ひとりごとを声を出して話している自分に驚いた。
「マスター、聞いたよ。俺。お湯、沸いてるよ。」
信がいつの間にか来ていて、カウンターの目の前に肩肘で寄りかかり圭太を見た。
「な、なんのこ、ことだよ。」
からかうなら、来なきゃいいのに。といつも思うが、三人組はいつでも笑顔で圭太の相手になってくれる。20以上も年下なのに自分よりはるかに世間を知っているようにも思う。
大学生なのに、勉強している風はなくいつも気ままで、一人はアルバイトでときどきいないことがあるが、この「まこっちゃん」と呼ばれる青年は、そのんが開いているかぎり毎日やってくる。
「わ、わかってるよ。」
と、ガスを止めセットしてあるコーヒー豆にお湯を細く細く注いでいく。
コーヒーを淹れている間は、信は決して圭太に声をかけたりしない。
ただ黙ってネルを通って出てくる美しく光る液体を見ているのだ。
「あー。いい匂い。」
信が言った。
圭太は信を追い払うようにしてカウンターの外側へ出て紘子のテーブルにコーヒーを運んだ。
「ごゆっくり。」
圭太が立ち去るのを見て紘子はカウンターの方を見た。大学生の三人組の内の一人がカウンターに寄りかかりながらマスターの仕事を見ていた。紘子はなんだか可笑しくなって、くすくすと笑った。
「あの子達は一体どれだけマスターとなかよしなのかしら」
運んでもらったコーヒーを一口飲んで、紘子は仕事を再開した。
約束の時間までまだ一時間半ある。
それまでに祖父、建造の遺したあのファイルをもう一度読み直して頭にタタキ込んでおこうと決めていた。
コーヒーを飲みながら、丸二年たった二人で乗りきってきた基子と孝太郎を思った。
出来ないのなら出きるまで教えてやればいい。
わからないならばわかっているものが勉強し直して、どうやってわかったのか説明してやればいい。
覚えたいなら、忘れないようにすればいい。
忘れないようにするならば、しっかり覚えればいい。
祖父はいつもそう言っていた。
何度も何度も九九を習った。
バカとかアホとか言われたことはなかった。
覚えたら忘れない。
必ずどこかでよみがえって自分を助けてくれる。
そう、習った。
祖父が紘子に必死で教えてくれた九九のように、根気強く孝太郎に文字を教えてやれたなら
孝太郎は忘れずにいてくれるだろうか。
カランカラン。
かわいらしい音で入り口のドアが開いた。
紘子は顔を上げ入ってきた人物が基子か確認した。
三人組の残り二人だった。
時計を見ると、あと30分ある。
何か食べておこう。
トイレに立ち上がりついでに注文しようとメニューを見た。
土曜日だけメニュー
パンプキンパイとシナモンティ(ホット)
「へえ。これにしよう。」
カウンターと奥の客席の間にある小さなトイレスペースに行きながら紘子は圭太に声をかけた。
「マスター?」
圭太がしゃっちょこばって立ち上がり紘子を見た。
「土曜日だけメニューって注文できたりします?」
圭太は紘子から少し目をそらし、小刻みにうなづいた。
「す、すぐご、ごぉよういしし、します。」
ペコっと頭を下げ紘子はトイレを使い、元の座席に戻った。
パンプキンパイだって。
え?とうとう?
知ってるのかな、あのお姉さん。
知らねえだろ。んな伝説。
ねえ、俺たちでマスターとくっ付けちまわねえ?
マジか。
だって。このままじゃマスター、
ずっと変わらねえんじゃん?
変わらねえほうがいいんじゃね?
そっかー?
いやいや、カワイソ過ぎんだろっての!
やっちゃうか!
やっちまおうぜ!
そのほうが楽しいじゃんか!
あのお姉さん、いいとこ行くに決まってる!
これを逃したらマスター。
一生独り身じゃんか。
やるか?
やっとくか!
よし!
決まり!!
紘子と圭太の預かり知らぬところで三人組のよけいなお世話が始まりそうだ。
つづく
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