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夜のブランコ 19

「先生。申し上げていないことがあります。」
さんざん話したあとで基子はが急に言い出した。
あまり孝太郎に聞かせたくないらしく、「少しの間先生と二人にしてくれる?」と言って孝太郎を部屋に行かせた。
孝太郎はうしろを振り返りながら二階にある自室に行くために階段を上がって行った。

二階でドアの閉まる音を確認してから基子は話し始めた。

「ふつうに生まれたんです。あのこ。」

基子は小さく言った。
幼稚園に入り年少、年中、年長と何事もなく育ち、風邪をひいたり腹痛をおこしたりしたことはあったが、大きな病気もせず親を困らせる乱暴をはたらくこともなく。
大事に見守ってきた。
年長になり幼稚園の先生もひらがなカタカナくらいは読めるようにと少しお勉強めいたことが始まった時
「おや?」
と思うことがあった。
家庭でも絵本を読んでやるときに、子どもが知ってるフレーズや読んでみたそうにしているときは、一緒に読んでやって欲しい。
一文字一文字指を指して、「これは"あ"、これは"い"、と言う風に。」との指示だった。
家にある、孝太郎がよく読んでいた絵本を持って来させて一緒に読もうとした時だ。

孝太郎は絵本を基子の膝の上に置き、1ページ目を開くことなく全部の文章を記憶していた。
「ぼくね、全部知ってるの。」
孝太郎は笑顔で言った。
基子はギョっとして、もう一度話始めた孝太郎に合わせて絵本を開くと一行も間違わず読んでいることがわかった。

「覚えたの?」

孝太郎は「覚えた」という概念がわからなかったのか「知ってるの」を繰り返した。
幼稚園にもあるその絵本は、先生も繰り返し読んでくれる人気の絵本で「覚えてしまったのだな」と基子は納得しようとした。
その後はなんだか気後れがしてなかなか絵本を読んではやれなかったが、夫に頼まれていた本を図書館に借りに行った時ふと思って絵本も一緒に借りてきた。
幼稚園から帰ってきた孝太郎に
「この中に一度も見たことのない絵本はある?」と聞くと、5冊借りてきたうちの2冊は知らない本だったらしい。

「おいで。」

と孝太郎を呼び寄せ、膝の上に乗せ読んで聞かせた。孝太郎は静かに聞いていたが読み終わったあと、本を閉じた基子にこう言った。

「おかあさん、どの字を読んだの?」

孝太郎を膝に乗せ、孝太郎に見えるように絵本を開き、一文字一文字指をさしてひらがなとカタカナだけの絵本を読んだのに、「どの字を読んだの?」との疑問に基子は答えられなかった。
目は見えている。
耳も聞こえている。
そして、文章も覚えている。
なのに読めないのだろうか?
基子はもう一冊の絵本を開き、タイトルの最初のひらがな「お」を指さし

「これは"お"よ。おはようの"お"。」

孝太郎は不思議そうに
「お」
と言い、「じゃあ、次のは?」と聞いた。
基子は少し息を飲み孝太郎の頭を撫でた。

「これも"お"よ。」

孝太郎は基子を見た。
基子は絵本のタイトルを読んだ。

「おおきなかぶ」

孝太郎が立ち上がり「それなら知ってる」とばかりにジェスチャーを交え勝手に内容を話ていく。
「うんとこしょ!どっこいしょ!」
全部「読み」終わった時、
「この本じゃないヤツ、幼稚園にあるの。絵が違うからわからなかったの。」
と、笑顔で言った。


「この子は読んでいるのではない、覚えているのだ。おそらく先生の読んでくれるままを。
そう思ったんです。」
隠すつもりはなかったと、基子は言った。
前の学校で、鈴木孝太郎は一年生が終わる頃になっても自分の名前が書けない。と烙印を押され二年生の間にもしも五十音と、自分の名前が書けなければ特殊学級に進級したほうがいいかもしれない。
どの範疇に知能があるのか、カウンセラーにかかったほうがいい。
と、基子が学校に呼び出され言い渡された。

まるで寝耳に水で、孝太郎にはどこも悪いところなどないと大声で叫びたかったが、『おおきなかぶ』の絵本のことを思いだし言えなくなった。
かわいらしい顔をして
目をきらきらさせて
「じゃあこの字は何て読むの?」
と聞いた孝太郎の、一体どこがおかしいと言うのだろう。
なぜこの学年主任は孝太郎を特殊学級にやれと言い出すのだろう。
だって、ほかのことはみな
誰よりもうまく出来て居るではないか。
誰よりもよく、覚えているではないか。

「三年生に上がって、習字が始まって、最初は大丈夫かと不安でした。ところが当の孝太郎は習字の時間が好きなようで」

そうだ。多数決の時、孝太郎も習字に手をあげていたっけ。

授業参観で永美ちゃんに「ふざけないで書かないとダメよ。」と言われ

ああ、あの時そんな風に言ったのか。

あんな態度を取ったのだと思う。
申し訳ありませんでした。

基子はそう言って頭を下げた。
紘子は反って悪いことをしたと基子に謝り、孝太郎の行く末を思いなるべく早く動き出そうと決心した。


つづく

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