Hameln 6
冬馬は幼稚園にも通って居なかった。
これ以上行政の指導を無視すれば、きっと児相や役場や場合によれば警察も動いてくれるかも知れない。そうなったら離婚するチャンスが来る。
加奈子はその機会をひたすら待っていた。
わかっている。
自分で役場に行けばいいのだ。
けれどアイツを紹介してくれたあのおばさんが役場の職員では、アイツに何を言いつけるかわからない。
怖い。
とにかく、アイツが怖いのだ。
冬馬がぼこぼこにされて1ヶ月近く。
年が明けて、行政が動き出したらすぐに小学校入学の案内と共に健康診断や入学のための案内が送られて来る。
なんの反応も示さなければ必ず行政は動く。
それまで。
それまでの辛抱だ。
加奈子はきっと道が拓けると信じていた。
2月半ば。
この前やられた場所は骨折などなかったようで冬馬はだいぶ動けるようになり、それでも万が一の時は外に逃がした。
行政からの冬馬の入学に関する案内が届き、それを見てアイツは書類を床に投げ捨てて踏みつけ加奈子に言った。
「助けが来たと思ってるんだろ。」
目を反らし小さくなる。
「そんなことはございません。」
チッ。
舌打ちが聞こえ、テレビも見ずにアイツは二階に上がって行った。
気をつけなければ。
今日は機嫌が悪い。
冬馬を外に逃がしてやらなければ。
三畳間に入り上着を着せ
「いい?今日は帰って来てはダメ。
絶対駄目よ。お手洗いは公園で、寒い時はこれ、カイロ持って。
あとね水筒にお湯汲んである。
風を避ける時はもぐら山に入るのよ。」
夜九時、冬馬を避難させた。
次は春乃だ。
寒いからか、それとも疲れていたのか珍しく八時過ぎに布団にもぐりこんだ春乃を一度起こし、朝まで部屋から出ないで済むようにトイレに行かせた。
少し具合が悪そうだ。
「どうしたの。」
「なんか、
寒い。風邪かな。おなかも痛いし。」
家の中は最大限、緊迫していた。
加奈子は明日、朝まで一睡もするものかと障子の内側で座布団を抱え起きていた。だがその日、いつもなら機嫌が悪そうな時は一暴れするはずのアイツは降りて来ず静かだった。
明け方どうしてもトイレに行きたいと春乃が言うので二人で向かうと、用を済ました春乃が青ざめて出て来て
「か、母さん。来た。」
「何?」
「来た、わたし。来た。」
と、泣き出した。
加奈子は春乃の肩に自分の着ていたカーディガンを羽織らせて目線を合わせるように座り込み春乃の形のいいおでこに手を充てて
「おめでとう。春乃。」
と、言った。
「今日は学校休もうね。」
部屋に連れて行き、着替えさせ始末の仕方を教えてやり汚してしまった時はこうして洗うのだと説明した。
お風呂場で。
物音も立てずに降りてきてアイツはその様子を離れて見ていた。
会社に行くとき
「いってらっしゃいませ。」
いつも通り見送ると、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ「サカリがついたんだな。」と一言言って玄関を出て行った。
見られていた。
まだ、寝ていたはずなのに。
見られてしまった。
アイツが出掛けてから春乃に教えてやればよかった。
春乃を守らなければ。
加奈子はよろよろと立ち上がり己の失敗を恥じた。
母に言われた通り、冬馬は公園のもぐら山に入り込み風を避け渡されたお湯を飲みながら持ってきたマフラーにくるまっていた。
ここならもぐら山の穴からアイツが出掛けて行くのがよく見える。
アイツが出掛けたら家に帰ればいい。
ニャーン。
猫が鳴いてる。
ニャーン。
ニャーン。
冬馬はもぐら山の穴から顔を出した。
どこで声がしてるのか、すぐ近くなはずなのに声ばかりで姿が見えない。
ニャーン。
黒いこねこがもぐら山にすり寄って来た。
ニャーン。
冬馬はねこに声を掛けた。
「おまえ、寒いのか。
こっちこいよ。ぼくと一緒に居よう。」
ニャーン。
ねこは言葉がわかるのか自然にもぐら山の中に入って来ると、冬馬の膝によじ登り、「くわっ」と大きなあくびをすると冬馬の膝の中ですやすやと寝てしまった。
こねこの体温は高く持ってきた使い捨てカイロと母の大判のマフラーと自分の上着にぐるぐる巻きになると、冬馬にもまもなく眠気がやってきた。
それは寒さのための眠気ではなく、純粋に暖かさから来る眠気だった。
「あったかい。」
つぶやいた。
こねこが返事をするように
ニャーン。
と二回鳴いた。
気負って、朝まで起きて居なければと覚悟していたが冬馬はここしばらく味わったことのなかった安堵の眠りを公園のもぐら山の中で味わった。
2月の朝は寒く、トイレに行きたくて目が覚めた。あんなにぐるぐる巻きにして置いたのにどこから出たのかこねこは居なくなっていて、冬馬は誰にも見られないようにもぐら山から出ると急いでトイレに駆け込むと用を足してまたもぐら山に戻った。
あと少し。
アイツは出掛けて行く。
そうしたら家に戻ればいい。
母と姉の無事を祈りながら、誰にも見られないように走って家に向かう。
いつか、
いつか必ず、
こんなおかしな状況から脱出してみせると繰り返し思いながら。
どこかで一晩一緒にいたはずの黒いこねこの声がした。
ニャーン。
と、小さな声でつぶやくように鳴いた。
Hameln 6
つづく
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