夜のブランコ 17
「そのん」でパソコンを広げた時、確か5時を回った頃だった。
トイレに立ち上がろうと周りを見るとすでにオモテは暗く「また、やってしまった」と時計を見た。
すでに9時を回っている。
「いけないっ!またやっちゃった!」
紘子はトイレに行くのを止めて、自分の周りを片付けてカウンターにいるマスターのところへ走った。
「ごめんなさい。お店8時半で閉店でしたよね!?」
マスターが立ち上がり、両手の平を横にぶんぶん振りながら「き、き、気、気にし、ないで。」と小さな声で言った。
紘子は慌てて千円札をレジの横に置くと、「また、来ますっ」と言ってドアを急いで開け出ていった。
圭太は何も言えないまま、紘子を見送った。
子どもの頃、母は悲しそうな顔をして圭太を見ていた。圭太が何か話そうとすると先回りしてあれやこれややってくれた。
そんな二人を見て父が母を叱った。
「おまえ、圭太がおかしな子どもだと思ってるのか?」
母は圭太の両耳を塞ぎ、大きく首を横に振った。
そんなに大事に大事に囲っていては、圭太はほんとうに話せない子どもになってしまう。父はそう言って、となり街にある小児医療センターの「おはなし外来」を探して来た。
「これを見ておけ。」
父はふだんから声を荒らげたり、人を殴ったりする人間ではなかったが圭太の母がやっていることは、これからの圭太にプラスになることではないと説得したかったのにちがいない。
「圭太。となり街におまえのような話方を少しずつ矯正してくれるところがあるんだ。俺か、母さんが必ず付いていくから、通ってみろ。」
圭太の吃音は子ども頃、もっとひどかった。
最初の文字が言えない。
かきくけこ、さしすせそ、はひふへほ、まみむめも、とくにこの20文字に関しては、話出してもここに来るとどこまで話したのか自分でもわからなくなり、口を閉ざしてしまう。
保育園でも気にしてくれてはいたが、圭太だけを特別扱い出来ず一向にふつうに話せる気配がなかった。
「圭太。圭太はそれでいいのよ。母さん、圭太のこと大好きだからね。」
母の気持ちが嬉しかった。
話すのにどんなに時間がかかっても黙って聞いて待っていてくれた父。
大丈夫、大丈夫。と繰り返し抱きしめてくれた母。
「おはなし外来」に通うようになって、ゆっくり話せば吃音が少し減った小学五年の頃、それまでは同級生もゆっくり話す圭太に付き合い「うんうん。」と聞いてくれていた。
五年で初めて同じクラスになった少年に
「おまえ、フツーにしゃべれねえのっ?!」
と、突っ込まれ
圭太は話すことをしなくなった。
「おはなし外来」にも行かなくなり、学校はもちろん家の中でも最低限のことしか話さなくなった。
吃音が少し戻ってしまった。
父はそれを嘆き、「情けない。情けない。」と言ったが憂いてはいられないと勉強して、脱サラして「喫茶店そのん」を開いた。
はじめは、
「そんな、儲かるか儲からないかわからない商売をするよりも、会社に勤めて欲しい。」と母は言ったが、父からその理由を聞いたとき泣きながら謝った。
「あの店は圭太の店だ。今からコーヒーの淹れ方をしっかり教えて誰にでもうまいと言ってもらえるマスターに仕込む。」
うまいコーヒーを淹れられさえすればお客が付く、自分がその道を作って置く。圭太がゆくゆく困らないように。
父もまた、圭太が気の毒でならなかったのは事実だ。だが、悲しんでばかりいられなかったのだ。
男として。父として。
だから圭太は両親の遺したこの「そのん」を続けている。
毎日コーヒーを淹れ。
お客さんの話にうなづき。
植木に水をやり。
大学生におちょくられても、そのんのコーヒーの味が好きだと言って来てくれてるお客さん達に、今日も
「うん!おいしい!!」
と、言ってもらうために。
紘子が店に来るようになって、圭太の生活は少し変わった。
朝、黙って起きて、顔を洗い
店を開け、店番をする。
夜、店を閉め、部屋にあがって寝る。
全部口を開くことなく、あの3人の大学生が来店しなければ、一言も話さない日が何日も続く。古くからのお客さんは圭太の吃音を知っているし、それを知らないお客さんはただ単に「マスターは無口」としか思っていない。
だから、黙っていても誰も文句も言わない。
「そのん」は、静かな店で静かにコーヒーを飲むのが好きなコーヒー好きが集まる店になった。
それでいいと思っていた。
でも紘子がそれを変えた。
話をしてみたい。ふつうに。
頭の中に浮かぶ言葉が、そのまま口から出ればいいのに。
そう思いながら、子どもの頃に「おはなし外来」で習ったことを繰り返し、繰り返し練習している。
深呼吸。
1拍置いて一度息を止めゆっくり吐き出す。
そして言う
「こんにちは。」
圭太の精一杯のあいさつに紘子はまだ、気がついていないけれど。
つづく
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