Hameln 4
寝息だ。
あれはタヌキ寝入りなんかではない、ちゃんとした規則正しい寝息。
聞こえないはずの寝息が聞こえる。
規則正しい寝息が。
加奈子はドアを開け飛び出した。
「冬馬!冬馬、冬馬、冬馬!
ごめんね。こんなことになって。
ごめん、ごめん、ごめん、ごめんなさい。」
物置き代わりの、季節の荷物がたくさん入った三畳間に春乃と協力しながら冬馬を運び込む。
灯りを小さく付け冬馬の顔を見る。
呼吸はしている。
気を失ってはいるが。
春乃が立ち上がりグラスに水を汲んで来た。
加奈子はその間、ずっと冬馬に謝り声を掛けつづける。
「冬馬、ねえ。冬馬。
大丈夫?ねえ。しっかりして。
冬馬!冬馬!」
腫れ上がった右のまぶたがうっすら開いて掠れた声が「母さん」と呼んだ。
春乃と顔を見合せて、冬馬を抱きかかえ汚れた顔を拭いてやった。
春乃が氷で冷やしたタオルを持ってきて腫れてる顔や腕にあてがってやる。
今日は酷い。
「春乃、
もう母さんひとりで大丈夫だから、
明日学校あるし、ちゃんと行かないとおかしく思われるから春乃はもう布団に入って。
大丈夫、何かあったら必ず春乃のこと起こすから。母さんひとりでアイツに立ち向かったりしないから。」
春乃が振り返りながら三畳間を出て行った。
それからずっと冬馬の様子を見て薬を塗ったり湿布を貼ったり水を飲ませてキッチンを掃除して、
一睡もせず朝になった。
アイツが二階から降りてくる前にこの部屋を出て普段と同じことをしていなければ、また冬馬が被害にあう。
アイツが仕事に行くまでの一時間半の辛抱だ。そうすればあとは冬馬のそばに居てやれる。
「ごめんね。冬馬。
いつも通りしてくるから、待ってて。」
朝食を作りアイツが起きて来るのを待った。
階段下の冬馬の三畳間にわざわざ響くように大きな音を立てて降りてくる夫。
いつか、アイツの足をへし折って階段から転げ落としてみせる。
私の冬馬を。
あの人の遺したかわいい冬馬をあんなにして。
廊下とキッチンを仕切るドアを開けてアイツが入ってきた。
目線を合わせず、それでも体はアイツに向けて深くお辞儀をし、顔をあげ
「おはようございます。玉子の調理はどういたしますか。」
いつも通りお伺いを立てる。
「あー。
今日は飯。飯ある?」
「はい、ご用意してございます。」
「じゃ、卵焼きね。」
ちょうどいい甘さ。
ちょうどいい焼き加減。
日本茶を淹れ味噌汁をよそい、
玉子焼きを作り、三切れ皿に乗せ
10分以内にアイツの前に並べる。
満足そうに食い散らかして、アイツはテレビのニュースと天気予報をじっと見ると、今度は新聞を読みテーブルをトントントンと指で三回叩く。
コーヒーを淹れろと催促だ。
すぐに豆を引きペーパードリップする。
キッチンに香ばしいコーヒーの香りが広がり、昨日の夜の出来事などまるでなかったようだ。
マグカップにコーヒーを淹れ出す。
当たり前のようにごくごくと美味しそうにそれを飲み、新聞をくしゃくしゃのままテーブルに置くとシャワーを浴びに風呂場へ向かう。
タオルや着替えを用意し脱衣場に順番通り置き、仕事へ持っていくカバンを玄関の小上がりに立てて置く。
何事もありませんように。
どうか、どうか。
何事もありませんように。
風呂から上がり支度を済ませ、満足気にアイツは玄関まで歩いていった。
「おい、
あのガキ、死んでねえだろうな。」
加奈子はうなづいた。
「殺したら、
お前らもただじゃおかねえからな。
せいぜい大事にしておけよ。
治った頃、またぼこぼこにしてやるからよ。」
玄関から静かに出て行った。
リビングの奥で今か今かと春乃が待っているのが分かる。
「春乃!」
春乃を呼んだ。
「支度をして。もうあと40分しかない。」
学校までは遠い。
歩いて20分。
おのずと通学班の待ち合わせ時間も早くなる。
春乃は急いで冬馬の寝ている三畳間に走って行くと、「冬馬、冬馬!」と何度か呼んだ。
「どっか、痛くない?
指、動く?首は?目はちゃんと見えてる?」
腫れて青黒くなった右のまぶたに冷たいタオルを当てて左のまぶたはそれでもちゃんとしてたのできちんと春乃の顔を見ていた。
そして春乃の左手の指をしっかり握り返した。
「冬馬!」
「おええしゃん、」
笑ったように見えた。
「待ってて、すぐに戻るから。」
掻き込むように食事を摂り、支度を済ませまた三畳間に戻る。
今度はその手に加奈子の炊いたお粥を持って。
「食べられる?」
微かに首を横に振った。
ドアの前で加奈子は春乃に言った。
「行きなさい。
あとはお母さん見るから。
これで学校を休んだら、アイツに何をされるかわからないわ。」
春乃は後ろを何度も振り返り、学校へ向かった。
通り一辺のいい加減な掃除と洗濯をした以外は全て冬馬のために時間を費やした。これ以上やられたら冬馬はほんとうに死んでしまう。前にやられた時たぶん左の足首は捻挫ではなく骨折していたように思うし、テーピングで固定はしたが正しいやり方なのかそうでないのか、医者に行ってもいないのでわからない。他にも消えないアザが背中に、腹に首筋にいくつも残っていた。
もう、何ヵ月か経っているのに。
なぜあんなやつと一緒に居るのだろう。
なぜあんなやつと再婚してしまったのだろう。
これならば、お金など無くとも春乃と冬馬と三人で暮らした方がどれだけシアワセだったか。
熱に魘される冬馬の頭に冷えたタオルを乗せずっと様子を見ていた。
Hameln 4
つづく
第5話へ
第1話へ戻る
