【5/30】来日公演が大絶賛に終わったことで思い出した。「テクノポップの神」でも、日本でその価値が大暴落していた時代があった、「1986年のクラフトワーク」。
4月末から5月頭にかけて来日公演を行った「テクノポップの神」クラフトワーク。公演は大絶賛の嵐で、改めてその存在感を証明した形となりました。
そんなクラフトワークにも、日本でそのバリューが完全に暴落していた時期があります。
1986年のオリジナル・アルバム「エレクトリック・カフェ」(現在は「テクノ・ポップ」に改題)のリリース当時です。
日本ではYMO解散後、テクノポップの方法論やサウンドが歌謡曲の世界に完全に浸透したことで、シンセ〜打ち込みサウンドは一般大衆化。
さらにニューヨーク・スタイルの「ラップ〜ヒップホップ」が最先端のサウンドとして世に台頭し始めた時代で、80年代初期に隆盛を極めた「テクノポップ」は完全に「飽きられた」時期でした。
当時、私は中学2〜3年生。本格的に音楽やシンセにのめり込み始めた頃で、クラフトワークをリアルタイム体験として聴くのは初めてでした。彼らの「鉄壁のテクノ・サウンド」に80年代初期のヒップホップのアトモスフィアを採り入れた「エレクトリック・カフェ」は、代表作「アウトバーン」や「ヨーロッパ特急」と聴き比べて、当時の私には大変クールに響きました。以来ずっと「マイフェイバリット・アルバム10枚」のうちの一枚です。
ところが、そんな私の気持ちを足蹴にするように、当時の音楽雑誌の評価は散々たるもの。とりわけ老舗評論誌「ミュージック・マガジン」の批評は辛辣でした。
まずは私の「仮想敵」中村とうよう氏によるクロスレビュー(1986年12月号)から。
まるで期待していなかったけど、これほどつまらないとも予想しなかった。あまりに内容がカラッポで、言うべき言葉もない。ぼくが採点で0点やマイナス点をつけるのは、頭にきたとかひどく不快だとか、それなりにぼくのほうにテンションが生じた場合で、このクラフトワークなんか怒る気もしなければ0点つける気力も湧かない。こんなレコード残すくらいならクラフトワークはいつの間にか解散して記憶から消えて行ってもらいたかった。
点数2
80年代において、とうよう氏の「0点」は音楽業界にちょっとした波紋を広げるほどの影響力があり、「ここぞ」という時にしか使われないものでした。それを同アルバムには「0点を付ける価値もない」と。少年だった私は、長く心の片隅に「自分の感性はおかしいのかしら?」という疑問符を抱えることになりました。
続いて1987年1月号、今井智子氏のアルバム・レビューから。当時の日本におけるクラフトワークへの評価を端的に表していると思います。
テクノがとっくに死語になりギャグにさえならなくなった1986年末、元祖テクノがまったく変らぬお姿で登場した。鉱石ラヂオを最新発明と銘打って露店で売ってるフーマンシューを見かけてしまったような気分だ。
家元とか元祖とかいうものは変わらないものだとは言っても、今更「テクノ・ポップ」をキーワードに謳われてもねえ。
しかし彼らの固定した視点は、そうせざるを得ない状況を作りだしてしまう。前作『コンピューター・ワールド』をリリースしてからこの5年間に、世界中の人間が触りまくって使い回してすっかり手垢にまみれたテクノ・ポップを、変らない形で保持しようとしている彼らのストイックな姿勢は、伝統芸を守る人達と通じるものがある。
そうなると時代との追いかけっこなど関係ない。ひたすら精進して芸に磨きをかけるだけでいい。その結果、死語となったテクノはレトロなものとして蘇る。
伝統芸になっても浮世離れしなかったのはせめてもの救いだ。ただのコンピューター・ミュージックなら今頃は、引退したヒッピーが聴いていると言われているニュー・エイジミュージックになっていたかもしれない。
リリース当時、これだけ酷評されたアルバムでしたが、クラフトワークは今も「テクノポップの神様」として不動の地位を持ち続けています。
少年の頃の自分の耳と感性は、まったくもって正しかった。今回の来日公演の絶賛は、そのことをあらためて思い出させてくれる出来事でした。
(ちなみに当時の私にとって中村とうよう氏は「仮想敵」でありましたが、氏の批評で同意するものも多々ありますので、これについてはいつかまた稿を改めたいと思います。)
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