封じる

人物デッサンはモデルさんとの共作です。そして闘いです。

 デッサン教室に通い始めた頃、衝撃だったのは、先生に「顔を描くな」と言われたことです。
 当時のボクの目的は、デッサンを漫画家とかイラストレーターとしての基礎にすることだったのです。そのために顔を描くことは不可欠と考えていました。少しばかり自惚れがあったことは確かです。今にして思えばちっぽけでつまらないプライドでしたが「顔を描くな」という一言でその自信を砕かれた想いがしたのです。
 ところが、先生にしてみたらプライドを傷つけようなどと言う意図は微塵もなかったわけです。それどころか顔を後回しにすることによって画面全体に意識が行き渡るようにと言う配慮があったようなのです。

 教室は、画材店の2階で行われていました。曜日毎に教室の内容が違います。デッサン教室は男女合わせて20名くらいだったでしょうか。ご自分で別の教室を教えている先生や個展を開催する方もありました。裸婦デッサンを開催している教室は限られるからでしょう。モデルさんは毎週交代でモデル事務所から派遣されていたようです。美術学校の学生さんのバイトだったり役者さんの卵だったりと、年齢も体型も様々です。デッサンモデルとしては、ファッションモデルのようなスタイルだと描くのがとても難しいと感じました。少しふっくらしていた方が描き甲斐があると言うか…手応えを感じるのです。

 デッサンの時間は休憩を入れながら2時間くらいだったと思います。毎回モデルさんと勝負をするように気合いをいれる必要を感じていました。
 デッサンは先生とモデルさんが話し合ったりしてポーズを決定してから、描きたい位置に移動して描き始めます。その位置の取り方で構図が決まってしまうので、2時間が長く感じることもあれば、あっという間に思えることもあります。モデルさんは長時間同じポーズを続けることになるのである程度リラックスした姿勢を取ることが多いです。あまりにリラックスしすぎて、うたた寝してしまう方もありました。
 ところが、役者の卵と言う方はポーズがとても挑戦的でした。位置決め段階から場所を決めかねてみんなで右往左往したこともあります。このポーズをどうやって絵にする?…と言わんばかりのポーズです。やっと位置を決めて描き始めたものの、やっぱり難しいので2時間終わる頃には精神力を消耗してしまい残されたのは疲労と敗北感でした。

 そんな難しいポーズの場合、後で描き直したいと思うのは人情なのですが、写真はNGです。うっかりカメラを取り出して叱られた方もありました。そもそも裸婦デッサンは顔を描き分けることが目的ではないわけですからモデルさんに似ていなくったって問題ないのですが、写真だと明確に写ってしまいます。

 ボクが顔を描くことを先生が封じたのにはとても大きな意味があったと言うことに気がついたのはしばらく後になってからでした。ボクは顔を一番最後に描くようにし、全体を描くことを優先させました。そして少しずつ顔を描く時間が出来るようになった頃、いつものようにデッサンの様子を見て回っていた先生がボクの後ろに立って言いました。

「あなたの描く顔…いいね。」

 内心、飛び上がる程嬉しかったことは言うまでもありません。

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