続・口直し
いしいさんの「再読の効用」を拝読して、「そう、そう!」と膝を打った。
コメントを打ちかけて、長すぎる自分語りになりそうだと気づき、慌ててdeleteするのはいつものこと。
以前、「口直し」という記事を書いた。
そこからコピペをして、別の続きを書こうと思う。
初めて見たり読んだりするドラマや映画や小説が、イマイチ好みに合わなかったとき、よく「口直し」をする。
もう何度も見たり読んだりしていて、「良さ」を十分に知っているもので、心を収める。
兄は「これはもう読んだからいい」と言って、本を人にあげたり古書店に売っていたが、私が手放すのは、再読は絶対にありえないと感じるものだけだ。
作品自体が不出来という意味ではなく、私には「合わない」ということ。
うんと気に入ったものはもちろんだが、そこそこいけそうなものも基本的に2度は接触する。
1度目は、ストーリーばかりを追いかけて「どうなるんだろう?」と先へ先へと気持ちが動く。
多少描写が雑でも、とりあえず展開を知りたいと思う。
2度目は、言葉の選び方、間の取り方、描かれた背景と、そこに描かれない背景も想像する。
結末がわかっているから伏線の張り方や回収にもひとつひとつ着目する。
最初のときほどのカタルシスはないけれど、細かいところの納得感がある。
当然、文句をつける楽しみ?もある。
世間一般の花嫁道具はなかったけれど、本は持って嫁いだ。
絶対的なお気に入りはもちろんだが、「そこそこ」もある。
30年も40年も経ってから、黄ばんだページを繰っていくと、まったく記憶にない一節があるのに気づく。
忘れているだけかもしれない。
でも、そもそも1度目も2度目も心が留まらなかった描写もある。
最初は10代、次は20代だったか。
未婚のときと結婚してからの私。
それから、離婚してからの私。
病や家族の死を知らなかったときと知ってからの自分。
あの頃の自分にはわからなかったこと。
逆に、いまの自分にしたら、いったいこれのどこを面白いと感じて読み進めたのか不思議に思うこともある。
いいことも悪いことも、経験のひとつひとつが、自分の心のパーツを作り直したり、新たに作ったりしているのだ。
「口直し」の定番は、宮部みゆき。
安心感がダントツに高い。
それと、いまだに岡嶋二人を読むことがある。
東野圭吾は、好きなくせに何度読んでも忘れているものが多い。
阿刀田高、志水辰夫、鯨統一郎、安房直子、佐野洋子etc・・・。
ミステリーの面白さを初めて知った松本清張や鮎川哲也もどれも最低3回は読んでいる。
いっときは島田荘司を飽きるほど繰り返した。
再読が一番多いのはもう10回を超えていて、どのあたりのページで誰が何を言うか、セリフも描写も全部入っている。
ドラマも同じものを繰り返し見る。
だから、連ドラで気に入ったものは全話DVDに落として保存し、別のドラマに失望したときに、口直しで見る。
贔屓のプロ野球チームが勝ったとわかっていて見るスポーツニュースみたいだけれど、得られるのは勝利の高揚感ではなくて、心の平穏である。
失望して「つまらないものを見てしまった、時間の無駄だった」という気持ちで今日を終わりたくないから、安心できる作品で口直しが必要なのだ。
それがたとえ殺人事件の物語でも。
安心感を得るだけでなく、繰り返しているなかで感動や共感のポイントの違いに気づき、自分の変化がわかる。
再読は、過去といまをつなぎ、それぞれの自分を発見する機会だと思う。
その変化が成長なのか衰退なのかはわからないけれども。
描かれた時代の変化も興味深い。
ああ、そうよ、昭和の価値観ってこうだったのよねぇとか。
スマホやAIがなんでも解決してしまういまは、すれ違いの恋や殺人のアリバイをつくったり信じたりするのは難しいよなぁとか。
そして、時代にかかわらず、人の心の普遍さを味わうのもまた興味深い。
長く生きてきた効用かもしれない。
