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プラダを着た悪魔2 考察|ラストの意味と、20年後のアンディがもう「辞められない」理由

先に書いておきます。この記事は結末まで全部書きます。 まだ観ていない方は、観たあとに戻ってきてください。

※この記事にはアフィリエイトリンク(楽天)を含みます。

『プラダを着た悪魔2』、日本では2026年5月1日に公開されました。前作から20年です。

そして8月7日から、ディズニープラスで配信が始まります。 劇場で観そびれた方は、ここからでも間に合います。

予告編を貼っておきます。この2分で、20年後の空気は伝わると思います。

わたしがこの映画を観て、いちばん引っかかったのはここです。

前作は「選ぶ話」でした。今作は、選択肢のほうが先になくなっている話です。

そしてもうひとつ。この映画は、公開前に38秒の切り抜き動画だけで裁かれました。それが何を意味するのかを、後半で書きます。



🧥 前作の「二者択一」は、もう成立していない

前作のアンディには、選ぶものがありました。

硬派なジャーナリズムか、ファッション誌か。本物か、虚飾か。彼女はパリで携帯電話を噴水に投げ捨てて、前者を選びました。あれは、選べたから成立した話です。

20年後、その前提が消えています。

アンディは報道記者として成功しています。授賞式にも出ています。ところが——その授賞式の最中に、全社員へ一斉送信されたテキストメッセージで、職を失います。

The New Yorkerのジャスティン・チャンが、この構造をいちばん正確に言葉にしていました。

In the first "Prada," Andy was forced to choose between hard news and haute couture, a false moral-professional binary that, in the sequel, has been upended by the sheer desperation of the new media world order. Before, Andy had only to hold on to her ideals; now she has to save a crumbling media empire almost single-handedly.
(前作のアンディは「硬派な報道」か「オートクチュール」かの選択を迫られた。それは偽の道徳的・職業的な二者択一だったが、続編ではその二分法自体が、新しいメディア秩序のむき出しの絶望によってひっくり返されている。かつてアンディは理想を守り抜きさえすればよかった。いまや彼女は、崩れゆくメディア帝国をほぼ独力で救わなければならない。ジャスティン・チャン/The New Yorker 2026年4月29日)

つまりこういうことです。前作でアンディが「本物」として選んだ側も、20年で同じように沈んだ。

だから彼女はランウェイに戻ります。20年前に捨てたはずの場所に。

表向きの理由は、ミランダとナイジェルが危機に陥っていると知ったからです。そして実際に彼女を呼び戻す動きを裏で仕掛けていた人物がいるのですが、その種明かしは後で書きます。

ただ、わたしはもう少し身も蓋もない読み方をしました。彼女が戻れたのは、報道の側が先に沈んでいたからです。 変節ではなく、選択肢の消滅のほうが先にあった。

💬 「あなたはビジョナリーじゃない、業者だ」

今作でいちばん語られたセリフは、これでした。

"You're not a visionary, you're a vendor."
(あなたはビジョナリーじゃない、ただの業者よ)

Redditの公式ディスカッションスレッドでは、このセリフを引用したコメントに1,200を超える票が集まっていました。添えられていた言葉は「an insane read」——正気じゃない切り捨て方だ、という意味です。褒めています。

これを言うのはミランダで、言われるのはエミリーです。

かつてランウェイの第一アシスタントだったエミリーは、いまラグジュアリーブランドの側にいます。つまり広告を出す側。雑誌の生殺与奪を握る側です。

なぜこのセリフがそこまで刺さるのか。前作の名場面の、ちょうど裏返しになっているからです。

前作でミランダは、アンディのもっさりした青いセーターを指してこう演説しました。

that blue represents millions of dollars and countless jobs, and it's sort of comical how you think that you've made a choice that exempts you from the fashion industry, when, in fact, you're wearing a sweater that was selected for you by the people in this room
(その青は何百万ドルと数えきれない雇用を表しているの。自分はファッション業界とは無関係な選択をしたつもりでいるなんて、ちょっと滑稽ね。実際にはあなたは、この部屋にいる人たちがあなたのために選んだセーターを着ているのよ)

有名な「セリュリアン・ブルーの演説」です。これは「あなたは自分が思っているより、この世界の中にいる」という宣告でした。無関係でいるつもりでも、あなたはもう組み込まれている。ある意味で、これは招待状でもあった。

20年後の「あなたはビジョナリーじゃない、業者だ」は、逆です。

「あなたはもう、こちら側の人間ではない」という切断です。

ただ、残酷なのはここからです。この切断は、ミランダの強がりとしても響きます。

20年前は、その線引きに実効性がありました。「創る側」と「売る側」を分ける権限が、編集長にあった。いまは、線を引かれた側のほうが金を持っています。 同じ線を引いても、20年で立場のほうが入れ替わっている。

📉 業界の人が「一番刺さった」と名指ししたセリフ

もうひとつ、観客のあいだで別格の扱いをされたセリフがあります。ナイジェルのこれです。

昔は特集の撮影で、海外に2週間いられた。いまは Milk Studios で2日取れれば御の字だ——という趣旨の嘆きです。

Redditに、現役のファッション・フォトグラファーが書き込んだ長文があります。1,200以上の票を集めていました。

I'm a fashion photographer. I saw the film last night with a huge team of other people in my industry. (中略) My agent has been in the industry for 30 years and told me that had I started 20 years ago, I probably would own my second house. I live in a studio apartment.
(わたしはファッション・フォトグラファーです。昨夜、同業の大人数のチームと一緒にこの映画を観ました。……わたしのエージェントは業界歴30年で、こう言われました。「もし20年前に始めていたら、君はいまごろ2軒目の家を持っていただろう」と。わたしはワンルームに住んでいます)

そして彼はこう続けます。

Because what used to be literal museum worthy pieces of art printed every month are now swiped through on the toilet.
(かつては毎月、文字どおり美術館級の作品が印刷されていた。それがいまは、トイレでスワイプされている

映画としての点数は「5点満点で3〜3.5点くらい」だと彼は書いています。そのうえで、「この映画が触れている恐怖と現実を、たぶん大半の観客は本当には理解できないと思う」と。

同じスレッドには、こういう書き込みが並びます。

As a former professional graphic designer who now works at a supermarket, this certainly checks out
元プロのグラフィックデザイナーで、いまはスーパーで働いている身としては、これはまったくその通りだ)

I actually worked at and got laid off by Condé Nast
(わたしは実際にコンデナストで働いていて、レイオフされました

この映画は、映画としてではなく、自分の業界の記録として観られています。 これは他のレガシー続編にはあまりない現象です。

🏢 「うちのオフィス、盗聴されてた?」

当事者の反応は、業界の内側でも記録されています。

Vogueの現役フィーチャー・エディター、クロエ・シャマが書いた記事に、こんな一節があります。試写にVogueのスタッフが大勢参加した、その帰りぎわの話です。

one colleague turned to me with a slightly ashen look. "Did they bug our offices?" she whispered.
(同僚のひとりが少し血の気の引いた顔でこちらを向いて、こうささやいた。「うちのオフィス、盗聴されてた?」)

ジャーナリズム研究機関のPoynterは、現役記者6人にこの映画を観せる企画をやっています。メディアビジネス担当のアンジェラ・フー記者は、劇中の「一斉送信のテキストで解雇される」場面についてこう言っています。

when mass layoffs happen in media, reporters so often find out on X or Twitter, or via email, and that's just normal these days.
(メディアで大量解雇が起きるとき、記者はXやツイッター、あるいはメールでそれを知ることが本当に多い。それがいまや普通なんです

RogerEbert.comの評者トムリス・ラフリーも、自分の同僚の実例を書いています。出張中にメールで解雇され、アカウントからロックアウトされて、出張先で立ち往生した人が何人もいた、と。

フィクションとして誇張されているはずの場面が、ほぼ全部、誰かの実話として返ってきている。 これがこの映画の異様なところです。

面白いのは、細部のほうは「そこまで浮ついていない」と否定されていることです。フィーチャー・エディターの仕事の描き方は現実と違う、という指摘は業界内から出ています。手つきは誇張なのに、産業構造の描写だけが異様に正確という、ねじれた褒められ方をしている。

ちなみにシャマが「文句なし」と認めたのは、仕事を通じてできた友情が、在籍期間を超えて続くという点でした。ここが正確だと言われるの、いいと思いませんか。

🧠 ミランダがアンディを覚えていない、という発明

ここから今作の仕掛けの話をします。

続編の最大の難所は「前作で完結した関係を、どうやってもう一度動かすか」です。この映画の答えは、シンプルで、そして少し残酷でした。

ミランダは、アンディのことを覚えていません。

Redditで最も票を集めたコメント(1,500超)が、これを絶賛していました。「キャラクターをリセットして1作目をなぞり直すタイプの続編は山ほどあるが、この作品はいちばん簡単な解決策を見つけた。ミランダがアンディを忘れていた。見事だ」と。

観客のあいだでは「本当に忘れているのか、演技なのか」という議論が起きました。あるユーザーが記憶ベースで再現したやりとり(一字一句ではありません)は、こんな感じです。

M: "I knew you'd do great things"(あなたなら大きなことをすると思っていた)
A: "You didn't even remember I existed"(わたしがいたことすら覚えてなかったくせに)
M: "Well, I'm sure I thought that before"(そう、でもきっとその前から思っていたのよ)

演技だと断定できる材料は出てきません。そして「そもそもミランダは人の顔を覚えない」という指摘もあります。前作には、パーティで来賓の名前をアシスタントが耳打ちして回る場面が丸ごとありました。 あれを思い出せば、これはキャラ崩壊ではなく、キャラ通りです。

わたしはこう読みました。この「忘れられていた」は、20年という時間の残酷さそのものです。

あなたの人生を決定的に変えた人が、あなたを覚えていない。しかも悪意ではなく、単に覚えていない。 20年働くというのは、そういうことでもある。

🕯️ 忘れたミランダに気を取られると、覚えていた人を見落とす

そのうえで、今作にはもうひとつ種明かしがあります。

アンディをランウェイに呼び戻す動きを仕掛けたのは、ナイジェルでした。

これに対して、こういう指摘が出ていました。「ミランダがアンディを完全に忘れていたことに気を取られすぎて、ナイジェルは覚えていたという事実から目が逸れる。それがうまい」。

これはいい読みだと思いました。忘れた人の存在感が大きすぎて、覚えていた人が見えなくなる。 現実でもよくあります。

ナイジェルは前作で、ミランダに裏切られた人です。長年支えてきた腹心なのに、パリで、約束されていたポストを別の人間に回された。ミランダが自分の椅子を守るために、彼の野心を差し出したからです。

今作では、ミランダがミラノのショーでナイジェルにスポットライトを譲る場面があります。

監督のデビッド・フランケルは、この場面をこう説明しています。「20年分の産物だ。20年経っての謝罪、あるいは承認だ。20年は、人を当たり前扱いするには長すぎる」。そして彼はこの場面を、こう言い換えています。「76歳の女性が、65歳の男性に謝る場面だ」と。

役ではなく、年齢で説明している。 ここに、この続編の温度があると思います。

そしてラストシーン。ミランダとアンディは、別々のオフィスで、それぞれ働いています。 ある観客がこう書いていました。

they are together because their passions independently lead them to the same place
(二人が一緒にいるのは、それぞれの情熱が独立に同じ場所へ導いたからだ)

和解でも、従属でもない。たまたま同じ情熱が、同じ場所に行き着いた。 これが20年後の距離感です。

🔵 20年前から、この映画はミランダの側に立っていた

ここで前作に遡ります。

よく言われる話があります。「昔はアンディが正しいと思っていたけど、大人になったらミランダが正しいと分かった」という、あの再評価です。SNSでよく見ます。

わたしもそう思っていました。でも、調べたら違いました。

前作の公開5日前、2006年6月25日のThe Observerの記事に、現役の雑誌編集長シャーラ・クラップのコメントが載っています。

Reading the book, you sympathise with Andy. In the movie, you identify with Miranda.
原作を読むとアンディに共感する。でも映画では、ミランダに自己同一化するのよ

公開前です。 同じ記事は「風刺のように見えるが、この映画の主要なメッセージはアナ・ウィンターが誇りに思うようなものだ」と締めくくられています。

さらに、監督のフランケル自身がこう語っています。彼は最初、この企画を断ろうとした。原作と初期の脚本では「ミランダは魔女で、アンディの動機は復讐」だったからです。彼はそれを作り替えました。

My view was that we should be grateful for excellence. Why do the excellent people have to be nice?
(わたしの考えはこうだ。卓越性には感謝すべきだ。なぜ卓越した人間が"いい人"でなければならないんだ?

つまり——「ミランダは正しい」は後年の読み替えではありません。企画の途中で脚本を作り直した時点で、意図的に仕込まれた設計思想です。

20年で起きたのは、再評価の「発生」ではない。主客の逆転です。2006年の時点で両方の読みが存在していて、当時は「アンディ支持」が正史、「ミランダ支持」は業界人の異論という位置づけだった。 それが入れ替わった。

🎬 "Everybody wants to be us." の "us" は、ストリープが変えた

前作の設計の話をもう少しだけ。

前作の最重要のセリフは、パリの車中のこれです。

ANDY: "But what if this isn't what I want? I mean, what if I don't wanna live the way you live?"
(でも、これがわたしの望みじゃなかったら? あなたみたいな生き方をしたくなかったら?)
MIRANDA: "Don't be ridiculous, Andrea. Everybody wants this. Everybody wants to be us."
(バカを言わないで、アンドレア。誰だってこれが欲しいのよ。誰だって"わたしたち"になりたいの

この "us" が、恐ろしい。

脚本では "Everybody wants to be me" でした。 「わたしになりたい」だった。それをメリル・ストリープが本読みの席で "us" に変えたと、10周年のオーラルヒストリーで語られています。

1文字ではなく1語の変更で、意味がまるごと変わります。

「わたしになりたい」なら、ミランダは高みにいる別種の人間です。憧れるか、拒むかを選べる。 でも「わたしたちになりたい」と言われた瞬間、アンディはもう同じ側に入れられている。 拒否する足場ごと奪われる。

だからアンディは、あのあと車を降りて、携帯を噴水に投げるしかなかった。降りるという物理的な動作でしか、あの "us" から出られなかったんです。

ちなみに、公開されている2005年3月10日付の脚本稿を調べると、「cerulean(セリュリアン)」も「lumpy(もっさりした)」も「Wake up」も、1件も出てきません。 主人公の名前すら Andy Barnes でした。前作でいちばん有名なセリフ群は、その稿より後に足されたものです。

あの名場面たちは、企画の最初からあったものではなかった。 現場で足されて、俳優が書き換えて、あの形になった。

🥪 「ミランダは正しかった」より先に、「ネイトが悪役」が来た

再評価の順序を追うと、もっと面白いことが分かりました。

先に大衆化したのは、ミランダ再評価ではありません。アンディの恋人ネイトが悪役だ、という読みのほうが先です。

追える範囲での節目はこうです。

  • 2015年7月、掲示板に「悪魔はミランダではなくアンディのほうだ」という主題の投稿が立つ

  • 2021年3月、「ネイトは悪役ではない」という反論スレッドが立つ。反論が必要になっている=その時点で「ネイト=悪役」がすでに多数派になっていた証拠です

  • 2021年6月、15周年の企画で、ネイト役のエイドリアン・グレニエ本人がそれを受け入れる

グレニエ本人の言葉です。

He was a fragile, wounded boy. … On behalf of all the Nates out there: Come on! Step it up!
(あいつは繊細で傷ついた少年だった。……世界中のネイトたちを代表して言う。おい、しっかりしろよ!

ここが重要だと思うんです。

ネイトを否定した瞬間に、アンディが仕事を捨てた理由の半分が消えます。

前作でアンディが失いかけていたのは、恋人と、友人と、自分らしさでした。そのうち恋人が「守る価値のないもの」に格下げされたら、天秤が傾く。 空いたところに、ミランダ再評価が流れ込んだ。

順序が逆なんです。 ミランダが正しくなったから彼女が支持されたのではなく、アンディが降りた理由のほうが先に劣化した。

そして今作にネイトは出てきません。脚本段階で断念されたと監督が語っています。グレニエ本人は2026年に「ネイト叩きが降板の一因では」と示唆しています。

💰 結末——必要だったのは「正しい億万長者」だった

ここから結末です。ネタバレそのものなので、まだの方は本当にここで止めてください。

ランウェイは経営危機にあります。クリックベイトとショート動画に頼らざるを得ない。 親会社エリアス・クラークのオーナーが誕生日パーティで急死し、息子のジェイが継ぎます。彼はファッションに何の思い入れもなく、コスト削減コンサルを連れてきます。

そしてエミリー。彼女はいまラグジュアリーブランドの幹部です。彼女がミランダを売る側に回っていたと判明する場面で、劇場が一斉に息をのんだ、という体験談が出ていました。「サノスがまた指を鳴らしたのかと思った」と。

決着はこうです。アンディは、ミランダとエミリーが進めていた「テック富豪ベンジによる買収」をまず阻止します。 そのうえで、ベンジの元妻である富豪サシャを説得し、ランウェイだけでなくエリアス・クラーク全体を買収させる。 ジェイはベンジとの取引から降り、サシャを受け入れる。ミランダはアンディの理想主義に発奮したことを認め、暴露本を書けと励ます。 そして——変わらぬ専制君主のまま、仕事に戻る。

(ついでに書いておくと、英語圏でいちばん嫌われたサブプロット=新しい恋人ピーターとの関係も、ちゃんと和解で決着します。

この結末の構造を、Columbia Journalism Reviewのジェームズ・グレビーが一撃で言語化していました。

Andy and Miranda realize the problem wasn't trying to have a billionaire save Runway—it was that they needed the right billionaire.
(アンディとミランダは気づく。問題は「億万長者にランウェイを救わせようとしたこと」ではなかった。必要だったのは"正しい"億万長者だった、ということに)

つまり——この映画は、億万長者に所有されるという構造そのものは、まったく否定していません。所有者の人格を取り替えただけです。

同じ記事はこう続けます。ジェフ・ベゾスとパトリック・スーンシオンは、それぞれワシントン・ポストとロサンゼルス・タイムズを安定させることに失敗した、と。そして、

Perhaps there is value in a totemic legacy media brand; in this case, it can only continue to exist because of a fairy tale.
(象徴的なレガシーメディアのブランドには価値があるのかもしれない。だがこの場合、それが存続できるのは、おとぎ話のおかげでしかない

ちなみに観客のあいだでは、サシャ=マッケンジー・スコット、ベンジ=ジェフ・ベゾス、エミリー=ローレン・サンチェスという当てはめ読みが人気でした。テック富豪の離婚とメディア買収を、そのまま置き換えたパロディだ、という読み方です。サシャとベンジが元夫婦だと分かると、この読みが効いてきます。

⚖️ この結末は「誠実」か「逃げ」か——批評家が真っ二つに割れている

ここが今作いちばんの争点です。両方並べます。

「逃げだ」と読む側。 RogerEbert.comのトムリス・ラフリー。

True, if large sums of money can destroy meaningful and useful things, it can rebuild them too. But does it ever in today's world, once the movie starts off engaging with us on realistic terms until its cop-out ending?
(たしかに巨額の金が意味あるものを壊せるのなら、再建もできるだろう。だが今日の世界で、実際にそんなことがあるだろうか。 この映画は現実的な地点から観客と関わり始めておきながら、逃げの結末に至る)

彼女は別のところで、本作の路線をこうも切り捨てています。

The film's exceedingly naïve "good billionaire" angle aside...
(本作のきわめてナイーブな「善良な億万長者」路線はさておき……)

「現実世界の寓話だ」と読む側。 Varietyのオーウェン・グレイバーマン。

But "The Devil Wears Prada 2" isn't a handwringing downer; it's actually a fable of hope and dreams set in the real world.
(だが本作は、手をこまねくだけの暗い映画ではない。現実世界を舞台にした、希望と夢の寓話だ

彼はこう問い直します。私たちは社会として「オールドメディア」の理想——美と取材と経験、消えない写真と文章、情報だけでなく真実——が生きるか死ぬかを、どれだけ気にかけているのか。「それが全部なくなってしまって、私たちは平気なのか?」と映画は問うている、と。

そして中間の読み。New Yorkerのチャンは、この映画を「守る話」として読みました。

even the gargantuan excesses of Runway are worth defending against the encroaching tyranny of know-nothing billionaire vulgarians
ランウェイの途方もない浪費すら、無知な億万長者の俗物たちの侵食してくる専制から守る価値があるのだ)

ランウェイは、贅沢で、無駄が多くて、傲慢な場所です。それでも、何も分かっていない人間に買われるよりはマシだという話にした。これが今作の立ち位置だ、という読みです。

わたしは、この3つのどれも正しいと思っています。 そして、どれも正しくなってしまうこと自体が、この映画の誠実さだとも思う。

だって現実がそうだからです。いま実際に、まともなメディアの延命策として「まともな金持ちに買ってもらう」以外の選択肢が、どれだけありますか。

監督のフランケル本人も、こう語っています。

The media business is frightening today. The same is true of Hollywood. There's a terrible contraction – we all see the tsunami of AI coming and we are all just doing anything we can to survive. The movie is addressing all of that. The first film was a coming-of-age story, this one is about values and morals. I see Miranda as heroic.
(いまメディアビジネスは恐ろしい。ハリウッドも同じだ。ひどい収縮が起きている。AIの津波が来るのが全員に見えていて、生き延びるためなら何でもやっている状態だ。この映画はそのすべてを扱っている。 1作目は成長物語だった。今回は価値観と倫理の話だ。わたしはミランダを英雄だと思っている

「1作目=成長物語、2作目=価値観と倫理の話」。 作った本人が、そう言っています。

👗 20年前、業界は服を貸してくれなかった

ここでひとつ、決定的な変化の証拠を。

2003年の原作小説は、業界から「大逆罪(high treason)」と糾弾されました。 映画のほうも、Vogueの機嫌を損ねることを恐れたブランドから、服を借りられなかった。

これをメリル・ストリープ本人が、2026年のVogueの表紙対談で認めています。しかも相手はアナ・ウィンター本人です。彼女いわく、1作目のときはみんなアナを怖がっていたから、服が見つからなかった。誰も貸してくれなかった、と。

今回は逆でした。衣装デザイナーのモリー・ロジャース(前作ではパトリシア・フィールドの助手でした)は、みんなこの映画に参加したがった、今回はむしろ押し寄せてくる大量のモノをどう編集するかだった、と語っています。

20年で、業界の態度が完全にひっくり返っています。

ミラノではドルチェ&ガッバーナのファッションウィークで実地撮影までしています。前作では門前払いだった映画が、今作では業界に抱きしめられた。

ただ——これは映画が勝ったという話ではないと思うんです。

貸してくれなかった理由を、ストリープは「みんなアナを怖がっていたから」と言いました。裏を返せば、当時は「怖い一人」が業界全体の出入りを決められた、ということです。いま殺到するようになったのは、露出の機会を選べる余裕がなくなったからでもある。門番が強かった時代には門前払いができた。門番が弱ると、門が開く。

エミリーが今作でラグジュアリーブランドの幹部=広告主の側に回っている設定も、同じ話です。編集が広告主を選ぶ時代から、広告主が編集の生死を握る時代へ。 彼女の配置は、その力関係の反転を人物にしたものです。

🕰️ 現実のほうが、映画より先に終わっていた

そして、この映画がフィクションでいられなかった最大の理由がこれです。

『プラダを着た悪魔』のミランダのモデルとされてきたのは、米Vogue編集長のアナ・ウィンターでした(原作者は否定していますが、原作者は実際にウィンターのアシスタントを務めています)。

そのアナ・ウィンターは、2025年6月に、37年務めた米Vogueの編集長職を退くと発表しました。

映画のクランクインは、2025年6月30日。つまり——撮影が始まるのと同じ月に、現実のモデルのほうが先に椅子を降りていた。

しかもここが重要です。後任のクロエ・マルの肩書は「editor-in-chief(編集長)」ですらありません。「head of editorial content」です。

つまり——「編集長」というポストそのものが、消えました。

ただし、ウィンター本人が業界を去ったわけではありません。 彼女はコンデナストのグローバル・チーフ・コンテント・オフィサーとして残っています。消えたのは人ではなく、"編集長"という役職のほうです。

さらに味わい深い話があります。この映画のプロダクションデザイナーは、本作の撮影中に、本物のアナ・ウィンターにVogue Worldの仕事で雇われていました。 本人がこう語っています。「アナについての映画をやりながら、本人と別の仕事をする奇妙な経験だった。彼女が気づいていたかどうかも分からない」。

ついでに書いておくと、そのウィンターとストリープが並んだVogue 2026年5月号の表紙記事を書いたのが、後任のクロエ・マルです。撮影は76歳のアニー・リーボヴィッツ。ウィンターもストリープも同じ76歳。引き際の人たちが、引き際の話をしている雑誌を作っている。

なお、アナ・ウィンター本人のカメオも撮影されていたがカットされた、と報じられています(1媒体のみの情報なので、断定はしません)。

📱 そして、この映画は「38秒」で裁かれた

ここがわたしがいちばん書きたかったところです。

2026年4月16日、公開の2週間前に、20世紀スタジオの公式チャンネルが1本のクリップを出しました。アンディの新しいアシスタント、ジン・チャオ(ヘレン・J・シェン)が登場する場面です。

尺は、38秒。

イェール出身、GPA 3.86、ACT満点——という学歴を早口で並べる。眼鏡をかけていて、周囲より地味な服装をしている。

これが、東アジアで大炎上しました。

批判の中身は、大きく3つでした。①「Jin Chao」という役名が、中国人を嘲るスラー「ching chong」に音が似ている ②地味な服装と眼鏡と学歴列挙が「ガリ勉のアジア人」というステレオタイプそのもの ③ファッションの映画で、アジア系だけがダサく描かれている

日本のある投稿は1,600万回以上表示されました。韓国、中国、香港でも同じ反応が起き、ボイコットの呼びかけまで報じられています。

ここで、事実として押さえておくべきことが2つあります。

ひとつ。役名は当初、SNSで「Chin Chou」と誤って表記されて拡散しました。 そちらのほうが、より一層スラーに似ています。つまり——実在しない表記のほうが先に広まって、火に油を注いだ。

もうひとつ。本編を観た人の反応は、明らかに温度が違います。

日本のレビューサイトから引きます。

実際見てみると、外国映画でサラリーマン過ぎる日本人とか出てきたくらいのイメージ

酷評されてるほどのアジア人軽視は感じなかった

一方で、観たうえで「やはり否めない」とする声もあります。

炎上してたアジア人差別問題については、たしかにアメリカ人がイメージする今のアジア人の若者という設定になっているのは残念ながら否めない

擁護側でいちばん具体的だったのは、韓国系アメリカ人の映画監督ジョセフ・カーンの発言でした。

They feel she's a caricature, which she is, but not about Asians but Gen Z.
(彼女がカリカチュアだと感じている。実際そうだ。でもそれはアジア人のカリカチュアではなく、Z世代のカリカチュアだ

彼はさらに具体的な反論もしています。あの衣装はファッション映画としてはむしろ非常にクチュールで、眼鏡もヘアクリップも「いまの」ものだ、と。体型の差についても、アン・ハサウェイ自身が「サイズの多様性」を求めた結果だと指摘しています。実際ハサウェイが「骨と皮のような、危険なほど痩せたモデルを使わないでほしい」と製作陣に求めたことは、別の報道でストリープが語っています。

脚本家のアライン・ブロッシュ・マッケンナは、この役名は幼なじみの名前から取ったもので、彼女は「多面的なキャラクター」であり、「これまで一緒に働いた素晴らしいZ世代のアシスタントたちへのラブレター」だと説明しています。

The Asian American Foundationも声明を出していますが、言い回しは慎重です。意図的に広まったかどうかにかかわらず(whether spread intentionally or not)、不快なステレオタイプがアジア系コミュニティの見られ方に影を落とし続けているのは不幸なことだ」。制作陣を名指しで断罪してはいません。

わたしは、この論争のどちらが正しいかを裁定する気はありません。実際に傷ついた人がいて、その反応は本物です。 同時に、本編を観た人の受け取り方が違ったことも事実です。 両方を書いておくのがフェアだと思います。

そのうえで、どうしても書いておきたいことがあります。

この映画は、38秒で判断されました。

そしてこの映画は、まさに「作品が断片として消費されること」を嘆いている映画です。ナイジェルは、かつて美術館級の作品が毎月印刷されていたのに、いまはトイレでスワイプされていると嘆く。ランウェイはクリックベイトとショート動画に手を出して延命している。

その映画が、38秒の切り抜きだけで裁かれた。

わたしはこれを「批判した人が悪い」という話にはしたくありません。そうではなくて——もう誰も、そこから逃れられないという話です。 映画も、批判する側も、擁護する側も、この記事を書いているわたしも、全員が同じ環境の中にいる。

2時間の作品が38秒に要約され、その38秒が誤った表記のまま拡散し、判断が確定してから本編が公開される。この順番こそが、この映画が描こうとしたものです。 映画は、自分が撮った現象に、自分で轢かれた。

こんなに皮肉で、こんなに正確な出来事は、なかなかありません。

🧵 セリュリアンのセーターは戻ってくる。ただし、袖がない

暗い話が続いたので、良い話を書きます。

衣装デザイナーのモリー・ロジャースが、この仕事を受けて最初にやったのがセリュリアンのセーター探しでした。監督への第一声が「あのセルリアンのセーターが要る」。彼女いわく「あれをやらなかったら暴動が起きていた」。

当初の案は「マルジェラみたいにズタズタに切り裂く」。ところが——フィッティング中に、アン・ハサウェイ本人がセーターの袖を切り落としました。

ロジャースの証言。「私たちは全員悲鳴を上げた」。

でも結果として、それがベストになった。今回のアンディはメンズライクな路線だったので、かえって正解だった、と。そして彼女はこう決めます。「脚本を読み込むほど、彼女は最後にこれを着て終わるべきだと確信した」。

だからあのセーターは、袖を落とされた形で、終盤に戻ってきます。

つまり——20年前の象徴に、演じる側が自分の手でハサミを入れた。 そのうえで、それを最後に着せた。

観客のひとりが、こう書いていました。

Same sweater, different styling like she finally belonged without having to untether herself from who she already was.
同じセーター、違う着こなし。 まるで、自分が元々何者であったかを手放さないまま、ようやくこの場所の一員になれたみたいに)

前作の演説は「あなたはあのセーターを、自分で選んだと思っている」でした。20年後、そのセーターは形を変えて戻ってきます。

与えられたまま着るのでも、投げ捨てるのでもなく、手を入れて着る。 それがこの映画のアンディの立ち位置だと、わたしは読みました。

ついでにオタク的な話を3つだけ。

「That's all.」は温存されていました。 監督が明言しています。映画の中盤まであえて使わず、ミランダがエミリーの裏切りを指弾する、あの一点のために取っておいた。監督いわく「これぞ"ザ・callback"。作品で一番好きな瞬間のひとつだ」。

シャネルのサイハイ・ブーツは、意図的に封印されました。 ロジャースは前作の象徴だったあのブーツについて「10フィートの棒でも触りたくなかった」と語っています。戻すものと、絶対に戻さないものを、はっきり分けている。

前作から持ち越された曲は、マドンナの「Vogue」1曲だけです。 前作の代名詞だったKT・タンストールの「Suddenly I See」は、今回入っていません。

🌐 まったく逆の読み方(この映画、評価は割れています)

ここまでかなり肯定的に書いてきたので、逆側を丁寧に書きます。

まず数字を正確に。Rotten Tomatoesの批評家スコアは78%(343件)。悪くありません。ただ、ここで注意が要ります。「22%が酷評した」わけではないんです。

Metacriticの内訳を見ると、Positive 31/Mixed 25/Negative はわずか1件でした。つまり実態は「大半が留保つきで褒めた」です。全否定はほとんどない。かわりに「まあ、悪くはないけど」が大量にある。

日本でも同じ形です。映画.comは3.9(811件)で、最頻値は星4(46%)。Filmarksは4.1で、低評価は5%しかいない代わりに、半分が3点台に沈んでいます。納得はしたが、震えはしなかった」層が最大派閥です。

その言い分を引きます。

前作のアンディがどんどん成長、洗練されていく高揚感、ラストの拳を突き上げたくなる満足感がないのだ

完全な解決にはならず、延命措置をしただけ

前作が好きなら本作も楽しめると思う。単体としてみたらそこまで面白くはない

英語圏でいちばん多かった不満は、はっきりしています。アンディの新しい恋人ピーターのサブプロットです。

Peter should've been cut from the movie. No genuine chemistry and the attraction makes no sense.
ピーターは映画から削るべきだった。 本物の化学反応がないし、惹かれ合う理由が分からない)

Andy can be happy without a man.
アンディは男がいなくても幸せになれる

批評家側も同じところを突いています。ガーディアンのピーター・ブラッドショーは、この恋愛を「当惑するほど陰気で化学反応のない(bafflingly dreary and chemistry-free)」と書きました。

面白いのは、前作でネイトが悪役扱いされたのとまったく同じことが、今作の恋人にも起きていることです。20年経っても、この映画のアンディの恋人は観客に嫌われる運命にあるらしい。

そして、恋愛以外の不満はもっと根本的です。「オリジナルの噛みつく力に欠ける」「切迫感(urgency)が決定的に足りない」「悪魔は熊手を置いてしまった」。

唯一のNegative評をつけた批評家は、こう指摘しています。「映画全編で "that's all" が一度も出てこない」。 ……これは監督の証言と正面から食い違うので、どちらが正しいかは実際に観て確かめてください。 わたしは温存されて使われたほうだと思いますが、断定はしません。

もうひとつ、擁護しづらい点を挙げておきます。この映画は、テック富豪とヘッジファンドがジャーナリズムを壊したと批判しています。その映画を配給しているのはディズニーです。 これを「偽善的だ」と指摘する声は実際に出ていました。同じ人が「それでもこの問題が広く知られるならプラスだ」と続けていたのが、いかにも現実的で良かった。

🎟️ こんな人におすすめ/おすすめしない

おすすめしたい人

  • 前作を観ている人(今作は前作を観ていないと半分も届きません)

  • 出版・広告・メディア・デザイン・アパレルなど、「作ったものが小さく速く消費される」業界で働いている人。刺さりすぎる可能性があります

  • 「いい仕事」と「続けられる仕事」がずれ始めている人

  • 20年前に何かを選んだ/捨てた記憶がある人

おすすめしにくい人

  • 前作の高揚感をもう一度味わいたい人。今作にあれはありません

  • スカッとする決着が欲しい人。決着はしますが、後味は複雑です

  • ファッションショーの華やかさを期待する人。思ったより少ないという声が多いです

  • 前作を観ていない人。 ここから入るのは損です

配信は8月7日からディズニープラスです。 前作を観返してから続けて観ると、20年の落差が二重に効きます。

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📚 あとよみの他の考察

評価が真っ二つに割れた作品を扱った記事も書いています。よかったらどうぞ。

同じように「賛否がきれいに半分に割れたラスト」を扱いました。長く愛されたシリーズの主人公が変わってしまったとき、ファンは何に怒るのか。今作のミランダ論と地続きです。

こちらは「20年分の過去作を全部呼び戻した続編」の話。ファンサービスの祝祭が、なぜ葬式に見えるのか。

そして「「いい仕事」と「上がっていく仕事」がずれる話」。アンディがランウェイに戻った選択を考えたあとに読むと、たぶん効きます。

💬 あなたはどう観ましたか?

長くなりました。最後に、わたしの読みをもう一度だけ。

前作は、選べた話でした。だからアンディは携帯を噴水に投げられた。

今作は、選択肢のほうが消えた話です。だから彼女は、20年前に捨てた場所に戻って、そこを守る側に回った。

これを「敗北」と読むこともできます。理想を語っていた若者が、20年かけて体制の内側に入った話だ、と。

でもわたしは、そう読みませんでした。

彼女が最後に着ているのは、袖を落とされた同じセーターです。 与えられたものをそのまま着るのでも、投げ捨てるのでもなく、形を変えて着ている。

20年働くというのは、たぶんそういうことです。世界のほうは変えられない。仕事の意味は削られていく。それでも、着るものの形くらいは、変えられる。

——と、わたしは読みました。でもこの映画、読み方が本当に割れています。 結末を「逃げ」と読んだ人も、「現実的な希望」と読んだ人も、どちらもプロの批評家です。

あなたは、どう観ましたか?

ミランダは変わったと思いましたか。それとも、何ひとつ変わっていないと思いましたか。あの結末は、誠実でしたか。それとも、おとぎ話でしたか。

コメントで教えてください。全部読みます。

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