見出し画像

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム 考察|ラストの意味は「全部返すこと」。3人が並んだあの日は、祭りではなく葬式だった

3作を続けて見返してみて、いちばん驚いたのはここでした。

※この記事にはアフィリエイトリンク(楽天)を含みます。

この映画、もらう場面がほとんどないんです。

『ホームカミング』の考察でわたしは、あれを「スーツを取り上げられる話」だと書きました。

取り上げられるということは、その前に持っていたということです。スーツがあり、メンターがいて、帰る家があって、迎えに行く相手がいた。

『ノー・ウェイ・ホーム』は、その全部を、彼のほうから返していく話です。

3人のスパイダーマンが並んで、旧作の悪役が勢揃いして、劇場じゅうが沸いた——そういう映画として記憶されているはずなのに。

今回わたしがずっと見ていたのは、引き算でした。

これは、同窓会の形をした葬式だと思います。


🎒 『ホームカミング』が「取り上げられる話」なら、これは「自分から返す話」です

まず、この映画がピーターから何を差し引いたかを並べてみます。

進学先(3人ともMIT不合格)。学校(中退してGEDの勉強へ)。住所。育ての親。恋人。親友。後見人の遺した技術。そして最後に、名前

会社を辞めるとき、貸与品を返しますよね。社員証、ノートPC、鍵、制服。

一つずつ受付に置いていって、最後に自分の席の名札を外す。あの手つきに、この映画はとても似ています。

違うのは、彼が返しているのが「貸与品」ではなく、彼を彼たらしめていたもの全部だということ。

3作のタイトルが「家を失っていく曲線」になっている話は、前作の考察で書きました。

本作はその最終段階を担当します。遠ざかるのではなく、帰る先そのものが消える

祭りが盛り上がるほど、失われるものが増えていく。この映画の祝祭性は、たぶん喪失を見えなくするための照明です。

そして照明が落ちたとき、画面に残っているのは、安アパートで一人スーツを縫っている青年だけでした。

🎓 世界が壊れた原因は、大学に落ちたことです

改めて確認すると、この映画のすべての災厄の起点は、戦闘でも陰謀でもありません。

ピーターとMJとネッドが、そろってMITに落ちたことです。

しかも彼らの評判の問題は、法的にはすでに片がついています。弁護士のマット・マードックが刑事責任を晴らしてくれる。

でも世論は晴れない。つまり彼が消したかったのは罪ではなく、評判でした。

世界を救った少年が、進路で詰まる。マルチバースが割れる引き金が、入試なんですよ。

このシリーズはずっと「被害の単位を生活サイズに戻す」ことをやってきました。前作『ホームカミング』の考察で、いちばん重い被害がサンドイッチ屋の火事だったのと、同じ設計思想です。

そしてピーターはストレンジのところへ行き、自分がスパイダーマンだと誰も知らない世界に戻してくれ、と頼みます。

問題は、その先です。

呪文の詠唱中、彼は次々に条件を足していく。MJは覚えていていい。ネッドも。メイも。

そして事後、ストレンジに詰められる。

ストレンジ「呪文を6回も変えやがって」
ピーター「5回です」
(原文: "You changed my spell six times." /"Five times." /日本語は拙訳)

怒られている最中に、回数の事実関係だけ細かく訂正してしまうこと、ありませんか。あれ、たいてい火に油なんですよね。

でもこの場面、笑ったあとに残るものがあります。

美容室で「あ、あと前髪も」「あと後ろももう少し」と足していくとき、人はたいてい自分が本当はどうしたいのかを、その場で探しています。

ピーターの5回(本人申告)も、まったく同じです。

そして重要なのは、彼が足した例外が全員、彼を無条件で愛している人だったということ。

人間としてこれほど正しい要求もないのに、それが世界を壊す。

この映画のいちばん苦い設計は、たぶんここです。悪いことをして罰されたのではない。正しいことを、順番を間違えて言っただけで、全部が崩れた。

ちなみにこの主人公、3作連続で同じことをやっています。

『ホームカミング』では、トニーに認めてほしくて留守電を残し続けた(=承認を預けた)。前作では、会ったばかりの大人に全権を渡した(=権限を預けた)。

そして本作では、現実そのものを預けます。なかったことにしてください、と。

頼む内容が、だんだん取り返しのつかないものになっていく。これがこの3部作の、いちばん正確な成長曲線だと思います。

🕯 あの台詞が、教訓ではなく遺言になります

ここからが本題です。

スパイダーマンという物語の背骨の一文——「大いなる力には、大いなる責任が伴う」。

海外メディアのイースターエッグ特集では、原作『Amazing Fantasy』#15由来のこのフレーズが正確な形で発されるのは本作のこの場面だ、という紹介のされ方をしていました。

わたしの記憶でも、トム・ホランド版でこの言葉が口にされるのは、3作目のここが最初です。

そして誰が言うか。メイおばさんが、死ぬ直前に言います。

With great power, there must also come great responsibility.
大いなる力には、大いなる責任もまた伴わなければならない。
(英語の原文はこの形で確認しました。日本語字幕・吹替の訳はわたしの手元では確認できていません。上は拙訳です)


ライミ版のピーターは、この言葉を物語が始まってすぐ、ベンおじさんから説教として受け取りました。そして聞き流した。

MCU版のピーターは、3作・7時間近くを戦い抜いた末に、育ての親の死という形でこれを受け取ります。

MCU版ではベンおじさんの死は一度も描かれません。つまりこの3部作は、主人公の動機の土台を欠いたまま2作走っている。

本作はその欠落を、メイの死で遡って埋めているんです。

だからわたしは、これを3作目の台詞だとは思っていません。存在しなかった1作目の台詞が、何年も遅れて届いたものです。

そしてもうひとつ。この一文は、彼にとって教訓ではありません。

彼はこの直後、もっと早く病院に連れて行けばよかった、と自分を責める段階にいます。まだ何も理解していない。

この言葉が本当に作動するのは、そのあと、3人でそれを共有した瞬間です。

ピーター1が、メイに言われた言葉を口にしようとする。大いなる力には——と言いかけたところで、トビー版のピーターが続きを引き取ります。

え、なんで知ってるの、と驚くピーター1に、アンドリュー版がベンおじさんに言われたのだと答え、トビー版が短く付け足します。

「死んだ日に」(原文: "The day he died." /拙訳)

ここで背筋が寒くなりました。

3人とも、同じ文を、誰かの死の場面で聞いている。

この言葉は、大切な人を一人失った者にしか発行されないんだと思います。だから彼らは初対面で通じ合える。

友情ではないと思います。同じ請求書を持っている、という一点だけで通じている。

本当に効く教えって、いつも手遅れの形で来ますよね。

若いうちに聞かされた正論は、たいてい素通りする。同じ言葉が刺さるのは、それを言ってくれた人がもういない日です。

そしてたぶん、払っていない人に説明で伝える方法は存在しない。これは教育の失敗ではなく、人間の仕様なんだと思います。

🚪 彼らにとって「家に帰る」とは、死ぬことでした

タイトルの話をします。

"No Way Home" を「ピーターが帰る家をなくす」と読むのが自然だと思うんですが、この映画のプロットを実際に動かしているのは、もうひとつの主語のほうです。

ヴィランたち。

彼らは全員、自分の世界で死ぬ直前に引き抜かれていました。だから元の宇宙に送り返すことは、そのまま死刑の執行を意味します。

つまりこの映画は、ヒーロー映画の基本動作にとんでもない仕掛けをしています。

「敵を倒す」=「敵を見殺しにする」という等式を先に成立させたうえで、主人公に選ばせる。

ヒーロー映画は長いあいだ「倒す/殺す/収監する」の三択でやってきました。倒したあとのことは、映画は知らないことになっていた。本作はそこに「送還する」という第四の選択肢を足し、しかもそれが実質的な処刑だと明示してしまった。

だからピーターは、送り返さない。治してから返すという道を選びます。ストレンジを鏡の次元に閉じ込め、呪文そのものを奪ってでも。

ここ、『ホームカミング』の到達点の完全な延長線上なんですよね。

自分を殺そうとしたトゥームスを、火の中から助け出した少年が、3作目で「治す」ところまで来ている。

ただし、この選択には反論があります。しかも強い反論が。

ストレンジは間違っていません。彼は多元宇宙という規模で正しい判断をしている。

ピーターも間違っていません。彼は目の前にいる人間の顔を見ている。

規模で正しい判断と、距離で正しい判断が、真正面からぶつかっている。わたしはここが本作でいちばん政治的な場所だと読みました。

異動、送り返し、原状回復、白紙撤回。「元の場所に戻す」は手続き上いちばん正しく見える処理ですが、戻された側に続きがないことがあるんですよね。

『ホームカミング』でこのシリーズが出した答えは「顔が見える範囲の責任」でした。本作の彼は、その原則を最後まで守ります。

顔を見てしまった相手を、送り返せない。

そして原則を守り通した結果、彼自身が、誰の顔も見られない場所へ行くことになる。

🧾 優しさの代金は、いちばん近くにいる人に請求されます

そして、この映画のいちばん残酷な因果が来ます。

「治す」という選択を後押ししたのは、メイでした。

ゴブリンの人格から戻ってきたノーマン・オズボーンを、彼女は助ける。この人たちには治療を受ける権利がある、という側に立つ。

そしてその判断の結果、まだ治りきっていなかったゴブリンに、彼女自身が殺されます。

ここが『ホームカミング』との決定的な違いです。

あちらでは、殺さなかったことが報われました。トゥームスは獄中で正体を明かさず、沈黙という形で返事をした。優しさが、遅れて返ってきた。

本作では、治そうとしたことが罰される。返ってきたのは沈黙ではなく、育ての親の死です。

わたしはこの落差を、シリーズがピーターに出した2度目の試験だと読みました。

1度目は「見返りのある優しさ」。2度目は「見返りがない、むしろ大損する優しさ」。

そして彼は、メイを失ったあとも治療をやめません。3人で手分けして、残った敵のぶんの治療薬を作る。

優しさが報われた人が優しくあり続けるのは、簡単なんですよ。報われなかったあとも同じ選択をするかどうかで、その人の芯が決まる。

そのうえで、身も蓋もないことを書きます。

善意には代金があって、しかも請求は本人ではなく、周りに行くことがあります。

誰かを救おうと無理をしている人の家族が、たいてい最初に削られる。ピーターは正しいことをしました。そして伝票はメイに届いた。

自分が「いいことをしている」と感じているときこそ、その伝票が誰に回っているのかを一度見たほうがいい。これはこの映画から受け取った、いちばん痛い実務的な教訓です。

🩹 効くのは、治った先輩ではなく、まだ治っていない先輩の同席です

さて、多くの人が待っていた場面の話をします。3人のピーターが並ぶところ。

ここ、やっていることは完全に集団療法です。しかも、この療法が効いている理由がはっきりしている。

先輩2人が、まったく立ち直っていないからです。

トビー版は背中の不調をこぼす(この自虐については、2003年に実際に起きた『スパイダーマン2』出演をめぐる降板騒動——背中の怪我を理由にスタント撮影が難しいと申し立て、一時はジェイク・ジレンホールへの交代話まで進んだそうです——へのセルフイジりだ、と複数のメディアが指摘しています)。

アンドリュー版は、グウェンを失ってから手加減をやめてしまったという趣旨の告白をします。

誰ひとり「もう大丈夫だよ」と言わない。全員、いまも痛い。

わたしはここが本当に上手いと思いました。

「俺も昔はそうだった、でも今は平気だ」と言われると、こちらは余計に孤立するんですよね。

「今も痛い」と言う人だけが、こちらの隣に座れる。病院の待合室と同じで、隣に座っている人が治っていないことが、そのまま安心になる。

そしてこの場面の白眉は、トビー版がピーター1を止めるところだとわたしは思っています。

彼は説教しません。復讐はよくない、とも、僕もそうだった、とも言わない。

間に入って、身体で止める。そして自分が傷を負う。

本当に人を止めなければいけない場面で、正論は間に合わないんですよね。間に入るか、時間を作るか、物理的に隣にいるか。

そして止めた側は、必ず何かを損します。無傷で人を止められる立場というものは、たぶんこの世に存在しません。

🗽 助けられているのは、受け止めた側です

そして、この映画がいちばん多くの人を泣かせた場面。

自由の女神の足場から、MJが落ちる。ピーター1は間に合わない。

代わりに、アンドリュー版が滑り込んで彼女を受け止めます。

日本の観客の記録を見ていても、この場面を挙げる声を何度も見かけました。

「劇場で3回くらい泣きました、、、。ネタバレなしで挑んだら、まさかすぎる展開でアツすぎ、、、!!アメイジングスパイダーマンがMJを助けた時、辛い表情なのほんまになんともいえなかった、、、。笑いあり涙ありで、、😭💯」(Filmarks・とまさんのレビュー ★5.0 より)

「ノーウェイホームでピーター3が高所から落ちそうになったMJをしっかり抱き止める所で号泣しました😭😭😭😭😭😭😭 今度こそ間に合った😭😭😭😭😭😭😭😭😭」(X・@ramamarvel の投稿より)

「今度こそ間に合った」。この一行が、この場面の全部だと思います。

落下する女性を受け止めそこねることは、アンドリュー版のピーターの人生を決定づけた失敗でした。

本作は彼に、まったく同じ状況をもう一度与える。今度は、手が届く。

ここで大事なのは、救われているのがMJではないことなんですよね。

MJにとってあれは、知らない人に助けられた出来事です。でもアンドリュー版にとっては、何年も引きずってきた自責の清算です。

つまりこの場面、助けた側が救われている。

わたしはここに、この映画の人間観の芯があると読みました。

人を助けることは、たいてい助ける側の治療でもある。

善意の純度が低いという話ではなくて、むしろ逆です。自分の傷が動機になっている助けだけが、あの速度で身体を動かす。

そして、いちばん苦い読みをひとつ。

この時点で、トム・ホランド版のピーターだけは、まだ何も治っていません。

彼はこの直後、メイの死を抱えたまま、全部を失う側へ進んでいく。

つまり先輩2人は、自分たちがすでに通過した地獄の入口に立っている後輩を、見送っているんです。

彼らは何も解決していません。同席しただけです。でもこの映画は、同席しかできないことを一度も卑下しない。

🌨 誰も、彼がいなくなったことに気づかない

ゴブリンによって、封じ込めてあった呪文が解き放たれ、多元宇宙の壁が崩れはじめたとき、ピーターがストレンジに頼んだのは、これでした。

自分を知っている全員から、自分の記憶を消してくれ。

冒頭のお願いと、動作としてはまったく同じなんですよ。同じ相手に、同じように頼んでいる。

でも中身は正反対です。

冒頭=自分に都合のいい世界にしてほしい(自分は残り、みんなが忘れる)。

最後=自分にいちばん不利な世界にしてほしい(自分が消える)。

わたしはここに、この3部作の成長の全部があると思っています。

成長とは、頼まなくなることではないんですよね。何を頼むかが変わることです。

一人で全部やる人間になったのではなくて、自分が損をするお願いができるようになった。

そしてこの結末が怖いのは、MCUがそれまで10年以上かけて作ってきた「英雄の死」の文法を、まるごと取り上げてしまうところです。

葬式があって、追悼映像が流れて、壁画が描かれて、学校で追悼ビデオが流される——前作でわたしたちが見たあれです。

ピーターには、葬式がありません。追悼もない。誰も彼が消えたことに気づいていないからです。

トニー・スタークは、死んだのに全員が覚えている。

ピーター・パーカーは、生きているのに誰も覚えていない。

まったく同じ犠牲の構造を、記憶の側だけ反転させている。ここ、ずるいと思った。

最も完全な喪失とは、失われたことに誰も気づかない喪失なんですよね。

死ねば、少なくとも欠員が出ます。彼の場合は欠員すら出ない。穴が空いたのではなく、最初から何もなかったことになる。

メイの墓前で、彼を覚えていないハッピーと言葉を交わす場面もそうです。あそこがこの映画でいちばん静かで、いちばん残酷だと思います。

ちなみに拡張版(More Fun Stuff Version)の追加映像について、日本の掲示板にこんな観察が残っていました。

「ピーターの代が卒業ってことで学校生活のムービーがエンドクレジットで流れました。ですが、ピーターが写る集合写真とかは、ちょうど鳩がピーターの顔と被ってピーターの顔が見れません。そのあとネッドやフラッシュがピーターと話してる映像がありますがピーターの後ろ姿しか映ってませんでした。」(Yahoo!知恵袋・拡張版のポストクレジットについての回答より)

世界のほうが、彼の顔だけを避けて撮り直されている。鳩一羽で存在を消すというのは、なかなかの演出です。

存在って、他人の記憶が保管しているんですよね。自分では保管できない。

☕ 打ち明けないことを、彼はここで初めて自分で選びます

数週間後。彼はMJとネッドを、ちゃんと見つけています。

約束は果たしているんですよ。見つけには行った。

そしてダイナーで、注文を取りにきたMJの前で、彼は一度、打ち明けようとします。

「僕の名前はピーター・パーカーです。そして……コーヒーを、ください」
(原文: "My name is Peter Parker. And I… would like a coffee. Please." /拙訳。日本語字幕・吹替の訳はわたしの手元で確認できていません)

名前は、言えるんです。

言えないのは、その名前が彼女にとって何だったかのほうでした。

(ここで英語版では、MJの口癖——期待しなければ失望しないで済む、という趣旨のあれ——の続きを、初対面のはずのピーターが言い当ててしまう呼応が仕込まれています。日本語字幕でもこの呼応が成立するよう意訳されている、という指摘を見かけました)

シリーズを通して、この主人公は言えないことに苦しんできました。

『ホームカミング』ではリズに何ひとつ説明できず、前作では世界に本名を晒され、そして本作では、打ち明けることが唯一残された自由なのに、それを自分から手放します。

わたしはこのラストを、彼が初めて自分の意志で沈黙を選んだ場面として読みました。

『ホームカミング』の彼は「説明できなかった」。本作の彼は「説明しないことを選んだ」。

同じ沈黙が、無力から意志に変わる。これがこの3部作の、いちばん静かな成長曲線だと思います。

黙っていることには2種類あります。言えない沈黙と、言わない沈黙。

外から見れば同じですが、本人の中ではまったく違う。前者は消耗して、後者は消耗しない。

大人になるって、たぶん同じ沈黙を、前者から後者に変換していく作業のことなんじゃないかと思っています。

ただ——ここは正直に書いておきたいんですが、わたしはこの選択を美談としては通せません。

彼がやったことを、身も蓋もなく書き出すとこうなります。

「あなたにとって何が幸せかは、わたしが判断しました。あなたにはその判断を知る権利を与えません。」

これ、この世でいちばんありふれた傲慢の形なんですよね。親が子に、上司が部下に、パートナーが相手に、善意で、しかも本当に相手のためを思って、日常的にやっていることです。違うのは規模だけ。

黙って手を回す。心配をかけないために言わない。傷つけたくないから別れる。どれも優しさで、どれも相手から判断の機会を奪っています。

それでもわたしが彼を責めきれないのは、理由がひとつあるからです。

彼には、相談できる相手が一人も残っていなかった。

メイは死に、トニーは死に、前作の「頼れる大人」は偽物で、ストレンジは反対側の立場にいる。

相談相手がいない人間の決断は、いつも独断になります。これは性格ではなく、環境の問題です。

極端な決断をした人を見たら、まずその人が孤立していなかったかを疑ったほうがいい。自分がそうなりかけているときも同じで、「これは自分にしか決められない」と思った瞬間が、いちばん危ない。

🪡 ここでようやく、原作のスパイダーマンが生まれます

ラストシーンを、『ホームカミング』のラストと並べてみます。ほぼ全部が一対一で反転していました。

スーツ:トニーが返してくれたスターク製(借り物)→ 自分で縫った手製(唯一の持ち物であり、選択の証)

:メイと暮らすクイーンズのアパート → 一人の安アパート

メイ:部屋に入ってきて正体を目撃 → 不在

学校:高校生活とダンスパーティー → 中退・GEDの勉強中

恋愛:リズを迎えに行く → MJに打ち明けずに帰る

承認:トニーからのアベンジャーズ入りの打診 → 誰も彼を知らない

これ、偶然ではありえないと思うんです。この3部作は、最初と最後が鏡になるように置かれている。わたしにはそう見えました。

そして面白いのは、同じ手製スーツが、3作のあいだで正反対の意味を持っていることです。

『ホームカミング』の中盤、スーツを取り上げられた彼が着ていた手製は「まだ何者でもない証」でした。本作でそれは「完全に自分のものである証」になる。

ややこしいのは、前作の考察でわたしが、手製には戻らないことを大人の自立として書いたことです。でも本作の彼は、戻ったのではなく戻る先がそれしかなくなった。同じ手製でも、選んで戻るのと、そこしか残っていないのとでは、まったく別の物です。

貧しさと清貧は、見た目が同じで、中身が正反対なんですよね。狭い部屋も安い服も、恥ずかしいのは他の選択肢があると思っている間だけで、自分で選び直した瞬間に同じものが旗になる。

『ホームカミング』の考察でわたしは「言葉の所有権が自分に移った瞬間、それは呪いから旗になる」と書きました。本作のラストは、その物質版だと思います。

そのうえで、これが本作の構造の核心です。

ライミ版のピーターも、アメイジング版のピーターも、最初から孤独でした。叔父を失い、正体を隠し、恋人を遠ざけ、誰にも言えないまま街を守る。孤独が初期装備だった。

MCU版は逆です。メイがいて、親友がいて、恋人がいて、億万長者の後見人がいて、スーツにはAIの相棒までいた。

スパイダーマン史上、最も一人ではないスパイダーマンとして登場したんですよ。

そして本作のラストで、そのすべてが剥がされる。

つまりこの3部作は、他の実写版が最初に持っていた条件を、3作かけて後から取得する物語でした。

これは成長譚ではなくて、逆走するオリジンです。

安アパート。自分で縫ったスーツ。誰も自分を知らない街。季節は冬です。

一年でいちばん「家族と過ごす日」とされる時期に、彼は一人で糸を通しています。しかもその時期を一緒に過ごすはずだった全員から、忘れられている。

でも同時に、この時期の祝日は誕生を祝う日でもあるんですよね。

喪失の日と、誕生の日が、同じ時期に置かれている。

だからわたしは、あのラストを「続編の終わり」だとは思っていません。やっと始まった第1話の、1カット目です。

事実、この結末はそのまま次の物語の出発点になっています。3作かけて "Home" を失った男の物語は、もう "Home" という語から離れたところへ行くしかない。

家の話が終わったなら、次は何の話なのか。そこはもう、この3部作の外側の問題です。

🎪 逆から読むと、これはただの同窓会です

ここまで「祭りではなく引き算の映画だ」と書いてきました。でも、まったく逆の評価があって、しかもかなり鋭い。畳まずに置いておきます。

まず、ファンサービス過多という批判。

"it tries to lay down new groundwork using way too much inside humor"
(拙訳:内輪ネタを使いすぎながら、新しい土台を敷こうとしている)
(Reddit ユーザー Dramaticredhuman の投稿。ScreenRant「15 Unpopular Opinions About Spider-Man: No Way Home, According To Reddit」に一字一句転載されたものより)

"honestly disgusted by the obnoxious cheering, shouting, laughing, and clapping"
(拙訳:あの不快な歓声、叫び声、笑い声、拍手には正直うんざりした)
(Reddit ユーザー BhimaSelvagga の投稿。同じ記事より)

こちらは劇場の盛り上がり方そのものへの嫌悪です。読んでいてちょっと胸が痛くなりました。

同じものを見て、片方は「20年分が報われた」と泣き、片方は「内輪の同窓会に間違って入ってしまった」と感じている。この分断は、たぶんこの映画の構造から必然的に出てきます。

海外のレビューサイトには、「無数の命を、5人の悪役のために危険に晒していいのか」というストレンジ側の論点そのものが、映画の中で有耶無耶にされているという趣旨の指摘もありました(Letterboxd / uncreativename、★2.5)。

これは正直、その通りだと思います。わたしはこの記事で「規模で正しい判断と、距離で正しい判断がぶつかっている」と書きましたが、映画自体はその衝突をきちんと決着させていません。盛り上がりで押し切っている。

日本のレビューにも、こういう温度の声がありました。

「正直なところアメコミヒーロー物にあまり興味がなく観ていないので、皆さんが書かれているような胸熱ポイントとかはわからなかった。でも映像は見事で」(Filmarks・CKさんのレビュー ★3.0 より)

これがこの映画の弱点の全部だと思うんですよ。20年分の記憶がない人にとって、あの場面はただの見知らぬおじさん2人です。

そして最大の争点、記憶を消したラストへの異論。

Redditには「the ending was the worst part(結末がいちばん悪い部分だった)」「bogus(デタラメだ)」といった評価や、「bad character writing(キャラクター描写として下手だ)」という批判が並んでいました(zzzz4xzzz__、bleachbloodable ら/同ScreenRant記事より)。

別のまとめ記事(AOL)が紹介していた「ピーターは約束していたのだから、MJとネッドに正体を明かすべきだった」という趣旨の批判は、わたしはかなり正当だと思います。

だって彼は、見つけに行くと約束したうえで、見つけたのに打ち明けなかったんですから。

約束は破られている。しかも相手はそれを知らない。これ以上に安全な裏切りって、ないんですよね。

わたしはこの批判に、半分だけ反論があります。この映画は、彼の選択を美談として演出しきってはいない。

彼は打ち明けずに店を出ますが、帰り道でまったく嬉しそうじゃない。

『ホームカミング』でトニーの誘いを断った直後の、達観ではなく「言ってしまった」という不安の顔と、同じ演出思想です。

このシリーズは一貫して、正しい選択をした人間が、直後に晴れやかでないところを撮っている。だから説教になっていないんだと思います。

🎥 こんな人におすすめ/おすすめしない

おすすめしたいのは、こんな人です。

何かを一つずつ手放している時期の人。引っ越し、退職、離別。この映画は「持っていたものを返していく」という動作を、2時間半かけて丁寧に撮ってくれます

大切な人を亡くしたあとに、その人の言葉が急に効きはじめた経験がある人。この映画の名台詞は、教訓ではなく遺言として届きます

まだ立ち直っていない誰かの隣に、座り方が分からず困っている人。この映画の答えは「同席」です。それ以上のことはしていません

『ホームカミング』の「親愛なる隣人」の話が刺さった人。あの定義が、いちばん厳しい形で実行される回です

逆に、おすすめしにくいのはこんな場合です。

旧作のスパイダーマンを一本も観ていない場合。効き方が本当に変わります。あの2人の登場は「20年分の記憶」がないと成立しません

すっきりしたい日。主人公は救われませんし、失ったものは一つも戻ってきません

祭りとして全力で楽しみたい人。それはそれで100%正解の観方です。この記事のような読み方をすると味が変わるので、そういう日は読まずに観てください

※以下は楽天のアフィリエイトリンクです(PR)。

この作品はBlu-rayが出ています → スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム スペシャル・プライス 【Blu-ray】(楽天ブックス)

🕷 スパイダーマン考察シリーズ

1作目から順番に見返しながら書いています。書けたらここに足していきます。



📚 あとよみの他の考察

ほかの映画の考察も書いています。



💬 あなたはどう観ましたか?

考察に正解はないと思っています。ここに書いたのは、あくまでわたしはこう読んだという一本の線です。

とくに聞いてみたいのは、MJとネッドの記憶を消した、あの選択をどう受け取ったかです。

最大の愛だと思いましたか。それとも、相手に選ばせなかった独断だと思いましたか。

わたしは「正しくないけれど、人間的だ」と読みました。彼には相談できる相手が一人もいなかったので。でも、たぶんここがいちばん割れるところだと思っています。

あと、アンドリュー版がMJを受け止めた瞬間に、映画館で変な声が出た人、いますよね。よかったら教えてください。

同じように「知ってしまったことを、言わない」を選んだ主人公の話を、まったく違う絵柄で書きました。かわいい絵で、誰も裁かれない映画です。

そして4作目、最新作『ブランド・ニュー・デイ』の考察も公開しました。この「同窓会の形をした葬式」の、直接の続きの話です。

そしてシリーズ最新、アニメ版『アクロス・ザ・スパイダーバース』の考察も公開しました。「全部返した」あとの世界の、もうひとつのスパイダーマンの話です。

そしてもう一本、この映画がヴィランに対して選んだ「治して返す」の、ちょうど真逆をやる男の考察も公開しました。『クレイヴン・ザ・ハンター』——同じソニーのスパイダーマン世界で、治療ではなく狩りを選んだ側の話です。

いいなと思ったら応援しよう!