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映画ちいかわ 人魚の島のひみつ 考察|ラストの意味と、あの子が「黙って帰った」ことの重さ

3日で22億円を超えたと聞いて、正直、なめていました。

※この記事にはアフィリエイトリンク(楽天)を含みます。

かわいいキャラクターが夏の島で冒険する、楽しい映画なんだろうと。

観たあと、しばらく席を立てませんでした。

これ、依頼書を裏返す話なんですよね。

「セイレーンを討伐してください」という依頼書です。裏返すと、そこに依頼した側のサインがある。

先に書いておきます。この記事は結末まで全部書きます。まだ観ていない方は、観たあとに戻ってきてください。

それから、わたしは原作を追いかけてきた側の人間ですが、この記事は原作を知らない方にも通じるように書きます。作中の言葉が出てきたら、そのつど説明を入れます。

もうひとつだけ。結末まわりについては、公式が正式に解禁した情報ではなく、複数の観客の記述が一致している範囲で書いています。

これは、悪い人がひとりも出てこないのに、全員が少しずつ払っていない話です。


🍡 「カンタンな討伐で高額報酬」——うまい話は、嘘ではなく省略でできている

まず、この物語がどう始まるかを確認させてください。

うさぎが持ってきた一枚のチラシ。そこに書かれていた条件が、「カンタンな討伐で高額報酬」「島限定スイーツが実質無料」

ここで用語をひとつ。「討伐」というのは、『ちいかわ』の世界での仕事のひとつです。武器を持って怪異と戦う。危険で、失敗すれば命を落とすこともある。この世界の住人は、そうやって働いてご飯を食べています。

つまり彼らは、正義感でも使命感でもなく、報酬とお菓子のために船に乗ったんです。

ここ、笑うところなんですが、あとから効いてきます。

だって、この条件、よく考えたら成立していないんですよ。

カンタンなのに報酬が高い。そんな仕事が空いているなら、とっくに誰かが取っています。

難度が低くて報酬が高い仕事が市場に残っているとしたら、理由はひとつです。

依頼した側が、何かを言っていない。

そしてここが本作のいちばん怖いところなんですが、島民たちは嘘をついていません。

「セイレーンが襲ってくる」——これは事実です。実際に襲われている。困っているのも本当です。

嘘ではない。ただ、その前段を言っていないだけ。

この世のたいていの「うまい話」って、嘘ではなく省略でできているんですよね。

前任者がなぜ辞めたのか。この案件がなぜ今になって出てきたのか。書いていないだけで、誰も嘘はついていない。

そしてもうひとつ、細かいことを言わせてください。

報酬の内訳に、「島限定スイーツが実質無料」が混ざっているところです。

人の判断を鈍らせるのは、大金じゃないんですよ。

大きな金額には、人はむしろ身構えます。「うますぎる話じゃないか」と。

でも、小さなご褒美には身構えない。

限定のお菓子、ちょっといい待遇、名刺の肩書き。そこで「まあいいか」が起きる。

🏝 島は、ちゃんと楽園の顔をしている

到着した島は、本当にきれいなんです。

白い砂浜、透きとおった海、島のごはん。ちいかわたちは普通に楽しそうにしています。

この「楽しい前半」が長いことに、あとから意味が出ます。

観客はここで完全に油断するんですよ。夏休みの映画を観ているつもりでいる。

そして油断させておいてから、この映画は一度も声を荒らげずに、話を裏返していきます。

🍪 しるこサンドを映しながら、人魚は殺される

ここが、わたしがこの映画でいちばん震えた部分です。

その前に、用語をもうひとつ整理させてください。

この映画には「セイレーン」と「人魚」という、別の生き物が出てきます。

セイレーンは、上半身が獣で下半身が魚。言葉を話し、歌で植物を操る、体の大きな存在です。人魚のほうは、そのセイレーンに付き従う小さな生き物で、複数います。

同じものだと思って観ると、ここから先が入ってこないので、ここだけ覚えてください。

そのうえで、物語の核心を先に書きます。

セイレーンが島を襲っていた理由は、島民の側にありました。

島民のヒトハとフタバ——いつも一緒にいるふたりです(作中で家族なのか友達なのかは明示されません)——の船が、セイレーンと人魚が戯れている場所に突っ込んでしまう。フタバが瀕死の重傷を負います。

ヒトハは、島にあった「伝説の生物図鑑」を思い出す。そこにはこう書かれていた。

人魚の肉を食べると、永遠の命が得られる。

そしてヒトハは、人魚から肉を得ます。この場面がどこまで意図的だったのかは、資料によって書かれ方が違います(後半でもう一度触れます)。その肉を、フタバに食べさせる。

フタバは生き返りました。

仲間を殺されたセイレーンは、島民の仕業だと考え、島を無差別に襲いはじめた。

——これが「討伐依頼」の正体です。

さて。ここからが演出の話です。

この、人魚が殺される場面。映画は、それを画面に映しません。

代わりに何を映すか。

お菓子です。

しるこサンド——愛知の実在するお菓子ですね——が画面に映っている。その裏で、生々しい効果音だけが鳴る。

観た方のなかには、こう書いている人もいました。

おとりにお菓子を使ったまではほのぼのしてたのに、撲殺のシーンは無言で音は至極リアル
(X・@InonakanoK さんの投稿より)

画面の上では、まだ可愛い話が続いているように見えるんですよね。

わたしはこの一手に、この映画の全部があると思っています。

全年齢向けだから直接見せられない。それはそうでしょう。でも、代わりに「お菓子」を選んだのは、配慮ではないと思うんです。

だってこの映画、冒頭で「島限定スイーツが実質無料」でちいかわたちを釣った映画ですよ。

お菓子の画と、殺される音。

甘いもので釣られた話の裏で、命が失われる音が鳴っている。画面の上と下で、この映画の主題が同時に鳴っているんです。

そしてもうひとつ、大きな話をさせてください。

なぜ、この絵柄でこれをやるのか。

この映画、映倫の区分はGです。誰でも観られる。中身は殺害と不老不死と報復なのに。

「可愛い絵で残酷なことをやると、ギャップで怖い」——それはそうなんですが、わたしはもう一歩あると思っています。

この世界では、加害した側も、された側も、報復する側も、全員が同じ絵柄の中にいるんですよ。

セイレーンだって、困り眉で、目が大きくて、口が猫みたいな形をしている。造形としては「かわいい側」の顔をしている。(そのうえで体はずっと大きくて、暴走したときに目が赤くなる場面は子どもには怖い、という声もあります)

人魚もかわいい。ヒトハもフタバもかわいい。

つまりこの映画では、見た目で善悪を判定できません。

わたしたちは普段、無意識にやっているんです。声が大きいほう、態度が悪いほう、顔が怖いほうを、なんとなく加害者の側に置く。

それは判定じゃなくて、判定のショートカットなんですよね。

この映画は、そのショートカットを最初から使えなくしている。

かわいい顔をした加害者と、かわいい顔をした被害者を並べて出してくる。だから観客は、中身で判断するしかなくなる。

可愛さは、残酷さを隠す麻酔じゃない。見た目で決める癖を無効にするための装置だと、わたしは読みました。

🗣 言葉が通じる相手に、誰も話しかけなかった

ここで、簡単に見過ごされがちな事実をひとつ置きます。

セイレーンは、言葉を話します。

歌で植物を操るくらいですから、知能も高い。つまり交渉ができる相手なんです。

にもかかわらず、島民が選んだのは何だったか。

外部の討伐者に発注することでした。

なぜ、話し合いが起きなかったんでしょうか。

わたしは、「討伐対象」というラベルのせいだと思っています。

一度その名前がついた瞬間、「なぜ怒っているのか」を聞く回路が、制度ごと消えるんですよ。

襲ってくるもの=討伐対象。討伐対象=倒すもの。そこに「事情を聞く」という手順は入っていない。

しかも交渉するには、自分の側の非を認める前提が要ります。

「うちの島の者が、あなたの仲間を殺したかもしれません」——これを言えるなら、そもそも話は違っていた。

そして皮肉なのが、この映画で真相にたどり着いたのは、ちいかわだということです。

ここで前提の説明をひとつ。ちいかわは、ほとんど言葉を話しません。「ワッ」「ワァ」といった声で気持ちを表す子です(ハチワレはよく喋りますが、ちいかわはそうではありません)。

言葉を持っている側(島民とセイレーン)は理解にたどり着かず、言葉をほとんど持たない子が理解にたどり着いた。

ここ、ずるいと思った。

「あの人は話が通じない」と言うとき、たいてい、まだ話しかけていないんですよね。

通じないんじゃなくて、話しかけなくて済む理由を先に確保している。だってそのほうが、自分の側の非を認めなくていい。

📖 誰も悪くないのに、全員が少しずつ払っていない

じゃあ、誰が悪いのか。

順番に見ていきます。

ヒトハは、人魚を殺しました。これは意図的な行為だったという記述が優勢です。ただし、そもそもの発端は事故でした。船が突っ込んでしまった。悪意はどこにもなかった。

フタバは、生き返らされました。そして——ヒトハもまた、人魚の肉を食べることになります。

なぜヒトハまで食べたのか。ここについて、観客のあいだでいちばん有力な読みが、フタバが「ひとりで永遠に取り残される」のを恐れて、ヒトハを道連れにしたというものです。(劇場パンフレットに同趣旨の記述があるという報告も見かけましたが、わたしは現物を確認できていないので、ここは読みとして書きます)

もしそうだとしたら——助けられた側が、次の加害者になっている。しかも動機は憎しみじゃなくて、さみしさです。

セイレーンは、仲間を殺されました。怒るのは当然です。ただし、やったことは無差別の襲撃でした。関係のない島民が巻き込まれている。

島民は、討伐を発注しました。(真相を知っていたかどうかは、作中でははっきりしません)

ちいかわたちは、報酬とお菓子で受注しました。

——並べてみて、気づくことがあります。

この物語の起点は、悪意ではなく事故です。

誰も、最初から悪くない。それぞれがその瞬間にいちばん自然な選択をしただけ。

なのに、誰も望んでいない場所に着地している。

これ、「悪が存在しない話」じゃないんですよ。罪が分散している話です。悪人はいないのに、罪はある。全員が、少しずつ払っていない。

そのうえで、あえてひとつ選ばせてください。

わたしが「いちばん罪深い」と思ったのは、図鑑です。

だって考えてみてください。この物語で、何も失っていないものがひとつだけある。

ヒトハは死ねる身体を失った。フタバは自分で選ばなかった生を背負った。セイレーンは仲間を失った。島民は平穏を失った。ちいかわは、知らなくていいことを知ってしまった。

図鑑だけが、無傷で棚にあるんです。

しかもたぶん、まだ誰かが読む。

責任って、要するに「結果を負担する係」のことだと思うんですよ。

あなたを動かした情報は、あなたの結果を負担してくれません。

「そう書いてあった」「そう言われた」「みんなそうしてる」。あとで、誰も助けてくれない。

情報は動機を配るだけ配って、結果は受け取らないんです。

🔋 永遠の命が、単三電池で動いているという地獄

ここからが、この映画のいちばん残酷な設計です。

ヒトハとフタバは、不老不死になりました。

そして、逃げます。別の島へ。

ふつう、逃走劇の緊張って「捕まったら死ぬ」で作られますよね。

でもこのふたりは、捕まっても死なないんです。

じゃあ何が怖いのか。

捕まっても、終わらないことです。

セイレーンが用意していたのは、こういう扱いでした。体にぴったりのオリに入れて、ずっと暗いところに置いておく。

死なない相手に対して、これ以上に有効な報復はありません。

彼らが手に入れたのは命じゃなくて、終わらせられない時間です。永遠の命は、褒美じゃない。刑期なんですよ。

そしてこの映画、その永遠をとんでもない形で可視化します。

不老不死になったふたりの身体には、単三電池が入っている。

……これ、ギャグの顔をしていますよね。ちいかわらしい、変な設定だなと。

でも、意味を考えると相当おそろしいと思うんです。

ひとつめ。生き物は死にます。機械は、止まるか、交換される。

ふたりは「生きている」から「動き続けている」の側に移された。しかも交換されるのは電池であって、本人ではない。本人でありながら、本人が消耗品の側に置かれている。

ふたつめ。単三電池って、どこにでも売っているんですよ。

永遠の命という究極の奇跡が、コンビニで買える規格品で維持されている。

取り返しのつかない選択の代償って、たいてい、日常のどこにでもある形をしているんですよね。

しかもこの電池、物語のなかで決定的な働きをします。

辛いカレーを口にしたセイレーンが暴れ出す場面があるんですが、そこで潰されかけたちいかわとハチワレを庇って、フタバが倒れます。

そのとき、フタバから電池がぽろりと落ちる。

それを、セイレーンが見ている。

つまり、彼女たちの正体がバレたきっかけは、大立ち回りでも自白でもなくて、落ちた電池一本なんです。

秘密って、たいていこうやってバレますよね。誰かが暴くんじゃなくて、庇った拍子に落ちる。

🌊 神話の向きが、逆になっている

ここで少し、外側の話をさせてください。この映画、下敷きにしているものがはっきりあります。

まず、ギリシャ神話のセイレーン。

ホメロスの『オデュッセイア』に出てくる、あれです。歌で船乗りを惑わせ、船を難破させる存在。

(余談ですが、本来のセイレーンは半人半鳥でした。人魚のイメージと結びついたのは後世です。この映画が「セイレーン」と「人魚」を別の生き物としてはっきり分けているのは、その混同の歴史を整理し直しているようで、わたしはちょっと感心しました)

で、ここです。

神話では、加害の向きは「怪物 → 船」なんですよ。

この映画では、逆です。「船 → 怪物」。

船がセイレーンと人魚の場所に突っ込んだところから、全部が始まっている。

「怪物が人を襲う話」を、「人が怪物の領域に突っ込んだ話」に書き換えている。

これ、本作の構造そのものの宣言だと思うんです。

もうひとつ、アンデルセンの『人魚姫』。

こちらは向きがまた違います。人魚姫は、自分の声を代償にして人間の姿を手に入れる。与える側であり、失う側です。

この映画の人魚は、食べられる側。セイレーンは声を持ったまま人間に敵対する。

声を捨てて人間に近づく話が、声を持ったまま人間と戦う話に反転している。

ついでに、よく誤解されている話をひとつ。『人魚姫』の結末は「泡になって消えて終わり」ではありません。彼女は風の精になり、300年間よい行いを積めば不滅の魂を得られる、という条件つきの結末を迎えます。

魂を手に入れるには、300年かかる。

この原典と並べると、本作のふたりの選択が際立ちます。肉を食べれば一瞬で永遠が手に入る。

そして、日本にも同じ形の伝承があるんです。八百比丘尼。

人魚の肉を食べて不老不死になった女性が、800年生きたという話。若狭——いまの福井県ですね——を中心に、全国121か所・166種もの伝承が確認されています。

ここで、面白いことに気づきました。

八百比丘尼の伝承には、「知らずに食べてしまった」型があるんです。

そして本作も、ヒトハが人魚を「事故のなりゆきで」得たのか「はっきり殺したのか」、説明のされ方が資料によって揺れている。(撲殺の場面を画面に映していないことも、この揺れに効いています)

人魚の肉の話って、千年前から「うっかりだったのか、わかっててやったのか」がはっきりしないまま伝わってきているんですよ。

わたしはこれ、記録の不備じゃないと思うんです。

この種の罪が、もともと輪郭のぼやけた形をしているということなんじゃないか。

「うっかり」と「わかってて」の間には、ものすごく広い領域があります。たいていの人間の罪は、そこに住んでいる。

しかも本人にも判定できない。あのとき本当に他に手があったのか、自分でもわからない。

だから伝承も揺れるし、わたしたちの記憶も揺れるんだと思います。

🤫 ちいかわは、なぜ黙って島を去ったのか

さて、この記事でいちばん書きたかったところに来ました。

ちいかわは、真相に気づきます。

そして——セイレーンにも、島民にも、何も言いません。

黙って、島を出ていく。

わたしは最初、これを観たとき、少しだけ肩透かしを食らったんです。

え、言わないの? って。

でも、考えれば考えるほど、これがこの映画でいちばん大きな決断だと思うようになりました。

読み方をいくつか置いてみます。

読みA:言えなかった。

ちいかわはほとんど言葉を話せません。だから伝えられなかった。沈黙は選択じゃなくて、能力の限界だった。

読みB:言えばもっと死ぬから、言わなかった。

考えてみてください。島民に言ったらどうなるか。「人魚の肉を食べると不老不死になれる」という情報が、島じゅうに流通します。人魚狩りが始まる。 ヒトハひとりの悲劇が、制度になる。

じゃあセイレーンに言ったら。 ふたりの居場所を教えることになります。確実に、捕まる。

どっちに言っても、新しい死が出るんですよ。

読みC:自分が決めていいことじゃないと思った。

ちいかわは、外から雇われて来ただけの労働者です。島の当事者じゃない。裁く資格が、自分にはない。

読みD:抱えきれなくて、言葉にならなかった。

わたしが取るのは、BとCの合わせ技です。

理由をふたつ書きます。

ひとつめ。この映画は、情報が人を殺す映画だからです。

思い出してください。すべての始まりは、一冊の図鑑でした。「人魚の肉で永遠の命が得られる」と書いてあった、あの本です。

情報が流通したせいで、人魚が死に、島が襲われ、ふたりが終われなくなった。

その映画で、主人公が最後に「情報を流通させない」ことを選ぶ。

ちいかわは、二冊目の図鑑になることを拒否したんです。

ふたつめ。Cがないと、Bはただの傲慢になるからです。

「俺が全部背負う」って、正義の顔をした支配でもありますよね。

ちいかわの沈黙が成熟に見えるのは、そこに「これは自分が決めていいことじゃない」という断念が同居しているからだと思うんです。

BとCが揃って、はじめて沈黙が、逃避でも傲慢でもなくなる。

そのうえで、読みAも切り捨てられません。ちいかわはもともと「語れない主人公」です。 それは表現上の制約でしかなかった。

その制約を、弱点じゃなくて倫理に変えたのが、この映画の脚本のいちばんの仕事だと思っています。

そしてここ、大事なんですが——この映画の脚本を書いたのは、原作者のナガノさん本人です。

他人が脚本を書いたら、たぶん「しゃべれないから伝えられなかった」で終わったと思うんですよ。

しゃべれないことを「選択」として書けるのは、そのキャラクターを作った本人だけです。

わたしたちの生活の話に翻訳します。

知ってしまったことを全部言うのは、正直さじゃなくて、処理の放棄でもあるんですよね。

「言う」って、自分の心の重さを相手に移す行為でもあるので。

判断の基準をひとつだけ提案させてください。

それを言うことで、相手の選択肢は増えるか、減るか。

増えるなら、言っていい。減るだけなら、それは告白じゃなくて投棄です。

ただし——黙ると決めたなら、その重さは自分が持ち続けることになる。 それが代金です。

🎵 「今日の日はさようなら」を、この話で歌わせる

観たあとの感想をいろいろ見ていて、いちばん多く言及されていたのがこの場面でした。

「今日の日はさようなら」。卒業式やキャンプで歌う、あの明るい曲です。

映画では前半、焚き火の前でハチワレが歌い出します。 この時点では、ただただ幸せな場面なんですよ。友達と、夏の夜に、火を囲んで歌っている。

それが終盤、合唱になって戻ってくる。

観た人の言葉を借ります。

終盤の『今日の日はさようなら』のシーンで爆泣きした/綺麗にハモる音楽とそうでないセイレーンたちの音楽の対比が映像化の醍醐味だなと思うなど
(X・@lalalamisora の投稿より)

「綺麗にハモる側」と「そうでない側」。

この対比、実はもっと精密に仕込まれているらしいんです。

Xで @vy_huj3 さんが指摘し、スタジオミュージシャンを名乗る @L_garagel0_0l さんが音楽理論の面から補強して、Togetterでまとめられていた話なんですが——

人魚たちのコーラスは、「1人足りない」状態で鳴るように作られている。

三人で完全に成立するはずの和音が、ひとり欠けたまま響いている。

殺された人魚が、音として欠けているんですよ。

画面には映さなかった殺害を、和音の穴として鳴らしている。

もうひとつ、これも観客の言葉です。

『今日の日はさようなら』の歌詞、映画ちいかわの内容に対して特大の皮肉になっていて怖い。ナガノ先生の選曲センスに脱帽してる。
(X・@dekai_titi の投稿より。ご本人が「皮肉」と書かれています)

また会う日まで、と歌う映画の中で、二度と会えない相手が確定していく。

🚢 エンドロールのあとに、まだ一手ある

さて、話は終わりました。ちいかわたちは島を出て、日常に帰っていきます。

ヒトハとフタバも、別の島へ逃げて、そこで暮らしはじめる。

——エンドロールが終わったあと、もう一場面あります。

セイレーンが、その島へ向かっている。

捕まったのか、逃げ切ったのか。映画はそれを描きません。

わたしはここで、けっこう本気で背筋が寒くなりました。

なぜ、エンドロールの「後」なのか。

ポストクレジットって、ふつうは続編の予告か、オチのギャグですよね。

でもこれは、そのどちらでもない。執行猶予が終わりました、という通知なんですよ。

エンドロールの数分間って、観客が物語から現実に戻るための通路なんです。本編の終わりで、わたしたちは一度ほっとする。「ちいかわは無事に帰った、話は終わった」って。

その安心を作ってから、通路の出口に置いてある。

意地が悪い。そして、正確だと思います。

そして、いちばん効いているのはここです。

ちいかわは、この続きを知りません。観客だけが知っている。

これ、さっきの「黙って去ったのは正しかったのか」への、映画自身からの答えになっていると思うんですよ。

ちいかわの沈黙は、誰も殺さなかった。でも、誰も救わなかった。

彼は黙って帰ることで、自分の中では話を閉じた。その沈黙が何ひとつ止めなかったことを、観客だけが見せられる。

じゃあ、なぜ結末を描かないのか。

わたしは「判定に意味がないから」だと思っています。

だって、捕まっても死なない。逃げ切っても永遠に逃げ続ける。どっちの結末も、「終わらない」という同じ一点に着地するんです。

だから描く必要がない。むしろ描いたら嘘になる。

自分が関わるのをやめた問題は、自分の中では終わります。世界の中では続いています。

「もう関係ない」「あれは終わったこと」——あれは事実の説明じゃなくて、こちら側の宣言なんですよね。

辞めた会社にも、別れた相手にも、放り出した案件にも、エンドロール後がある。 見ていないだけで。

🌏 まったく逆の読み方

ここまで気持ちよく書いてきたので、自分の読みに正面から刺さる声も置いておきます。

Filmarksの評価は★4.1(レビュー14,516件・7月31日時点)。高評価が大半ですが、低い側の言葉はけっこう厳しいです。

残酷ちいかわ物語、人魚食っちゃうし、永遠の生命は電池で動く仕組みだし、キャラクターが可愛ければ何をしても良いのか、物語も面白くなく途中何度も眠気に誘われた…
(Filmarks・kohei1813 さんのレビュー ★2.0 より)

「キャラクターが可愛ければ何をしても良いのか」——これ、痛いところを突いていると思います。

わたしはこの記事で「可愛さは判定を無効化する装置だ」と書きました。でも裏返せば、可愛いから許されている表現でもある。同じ筋を実写でやったら、間違いなく別のレーティングになります。

もうひとつ。

死から逃れるべく人魚の肉を食べたという取り返しのつかない罪を抱えながら、彼らの行動には反省も覚悟もなく、ただその場しのぎの浅い選択ばかりが積み重なっていく(中略)罪の重さと向き合うことを避け続けたまま、二人で寄り添うなんて許さない。二人仲良く海の底へ沈んどけ。
(映画.com・もとこ さんのレビュー ★2.5 より)

この怒り、わたしはとても正当だと思います。

わたしは記事の中でヒトハとフタバを「罪が分散した中のひとり」として書きましたが、彼女たちが最後まで誰にも謝っていないのは事実です。

この映画には、反省の場面がない。 罰はあるのに、悔い改めがない。それを「人間的だ」と読むか、「甘い」と読むかで、たぶん評価が割れます。

そしてこれは、子ども連れの親御さんの間でもいちばん割れている論点でした。

一部で子供が泣き出すとか、トラウマになったみたいな批判意見がありますが…この程度の毒はグリム童話に代表される昔話にはたくさんありました。本当に泣き出したら、それを慰めながら会話するのが親だし、とても教育的に良い体験だと思います。赤ずきんちゃんでトラウマになった話なんて聞いたことがありません
(映画.com・ばるすパパ さんのレビュー ★4.0 より)

🎥 こんな人におすすめ/おすすめしない

おすすめしたいのは、こんな方です。

「あの人は話が通じない」と思っている相手がいる方。 この映画は、話が通じる相手に誰も話しかけなかった99分です

誰かのために、無理をしている自覚がある方。 善意の代金が誰に請求されるのかを、これ以上ないほど正確に見せてくれます

知ってしまったことを、言うべきか黙るべきか迷った経験がある方。 その判断について、この映画はひとつの答えを出しています

『ちいかわ』を知らない方。 むしろ知らないほうが効くかもしれません。予備知識ゼロで観て「何とも言えない切なさが残った」と書いている方が実際にいました

逆に、おすすめしにくいのはこんな場合です。

すっきりしたい日。 誰も裁かれないし、誰も謝らないし、話は終わりません

小さいお子さんと、何も知らずに観に行く場合。 ある母親のブログにあった「ちいかわの映画は子供向け映画ではありません。すみっコぐらしを見に行く感覚で行くと全然違います」という一文が、いちばん正確だと思います。観るなという話ではなくて、観たあと話をする時間ごと予定に入れておくといい、という意味です

かわいいものをかわいいまま楽しみたい日。 それは100%正しい楽しみ方なので、そういう日はこの記事を読まずに観てください

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📚 あとよみの他の考察

同じ「黙ることを選んだ主人公」の話を、まったく違う絵柄で書いています。

実はこの記事を書きながら、ずっと引っかかっていた作品がありました。

こちらの主人公も、真実を知りながら、大事な人に打ち明けないことを選びます。 ただし決定的に違うのは、あちらは沈黙の代金の宛先が、最後にはっきり決まることです。誰も彼を覚えていない街に、彼ひとりが残る。請求書は、全部その人のところに来ます。

『ノー・ウェイ・ホーム』は、請求先が主人公ひとりに集約されて終わる。この映画は、請求書がまだ誰にも届かないまま終わる。

あちらの記事でわたしは、あのラストを「やっと始まった第1話の、1カット目」と書きました。痛みの行き先が決まっているから、そこから先が始められるんです。

この可愛い映画のほうは、行き先が決まらないまま、わたしたちを家に帰します。

ほかの映画の考察も書いています。


💬 あなたはどう観ましたか?

考察に正解はないと思っています。ここに書いたのは、あくまでわたしはこう読んだという一本の線です。

とくに聞いてみたいのは、ちいかわが黙って島を去ったことをどう受け取ったかです。

やさしさだと思いましたか。それとも、言うべきだったと思いましたか。

わたしは「言わないほうが人が死なない、でも何も解決しない」という、いちばん苦い場所に立っていると読みました。でも、たぶんここがいちばん割れるところだと思っています。

あと、しるこサンドを買いに行った人、正直に手を挙げてください。わたしは買いました。

同じように「あれは何だったのか」を最後まで説明しない映画の考察も書きました。こちらは夜の道を舞台にしたホラーで、正体のかわりに「どうすれば助かるか」だけが配られます。


じつはこの映画と同じ2026年7月24日に、もう1本ホラーが公開されていました。公開初週の動員ランキングは『ちいかわ』が1位、そちらは7位です。

清水崇監督の『だぁれかさんとアソぼ?』。あちらも「軽い気持ちで受けた話」から始まって、誰かが黙って払わされる話でした。

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