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恋い慕う唇を甘やかす



「Mサイズでいいかな」
 これはファストフードのポテトなどの話ではなく、バイトリーダーに新制服のサイズを問われるどころか決め付けられて
「あ、Sサイズでお願いします」
と返したものの、どうも釈然としなかったアルバイト先でのひとこま(暗に現制服のサイズが合っていないと言われたような。気のせいか)。


 新しいといえば、約5年ぶりに百貨店で口紅を買った。ぷっくり艶やかなオレンジがどこか夏の予感を連れてくる。
 18時34分。「お疲れ様です」と息を弾ませ、向かった更衣室の鏡にはあの人を想う女のがはっきりと映し出されていた。
 スマートフォンの画面に触れるとちょうどからのメッセージが届いており、先に着いたので、地下のフードコートにて適当に待っているとのことだった。


 私たちは〈永遠に〉この古臭い駅ビル、最上階のレストランフロアで落ち合う関係にはなれない。
 だが、ただ片思いを終わらせるだけの今夜に、どうしようもなく淡い期待を抱いてしまう。


 唇の色をティッシュによって拭い去り、透明のリップクリームを塗り直した。
 中途半端に残る浮かれたオレンジと、自分自身が重なる。


 半年前。私がまだバラエティショップのアルバイトを始めたばかりの頃、エリアマネージャーとして担当地区を巡回中の彼と出会った。
「初めまして。(ばん)です、よろしく」
 ばんちゃん、という名前を他のスタッフから聞いたことはあるが、まさかエリアマネージャーとは思わないだろう。


 握手するために差し出された右手は、拒否を知らぬ力強さに満ち溢れ、加えて初対面のくせにあれこれ尋ねてきて、逐一褒めちぎり、
星津(ほしづ)さん。じゃあ、ほっしーだね」
ありがちなニックネームをつけ、べらべら喋る。


 親しみやすさ故か、見る間に人を寄せ付けても薄すら印象が悪く、正直に述べると私は嫌いなタイプだと感じた。
 ただでさえこちらは品出し等の業務に追われるのに、ふらふらと遊びに来たような男の〈おかげで〉滞る。
 大まかな住所、趣味と特技、家族構成、友人の有無、大学は楽しいか、否か(面接の如く、そんなことを聞いてどうする)。


 おまけに最悪の置き土産「ほっしー」がアルバイト先で広まり、星津のままでいたい私を蹴飛ばす。
 それだから、自分は頑なに彼を「ばんちゃん」とは呼ばなかった。
 しかし、彼は少しも気にせずに先の尖った「伴さん」を受け入れ、毎度、なんだかんだで丸め込まれる。
 また、そのやり取りが周囲の者に面白がられて「ほっしーとばんちゃんでコンビ組んだ方がいいよ」はお決まりのオチであった。


 特定の店舗に所属しない彼は、あちこちのシフトを埋めて、時たま店長の代わりも務める。
 適応力が高く実に調子の良い、前世がラッパー並みの口達者な男で、最初は新入りの私に目を掛け、
「一緒に働けて幸せだよ。こういうのはさ、縁じゃん。伝わってくるもん、ほっしーがいい子だって。うちに入ってくれてありがとう」
とか何とか、思わせ振りな台詞を吐き、とことん甘やかし、更には高齢のお客様に
「いらっしゃいませ。今、〇〇さんのことを考えてたんです。本当に。お会いできなくても、忘れませんよ」
勘違いさせて足繁く店に通わせた。


 異性のみならず同性にも構いたがり、どうやら相当、人が好きな様子だ。
 徐々に彼という人間が浮き彫りになって、あれが特別扱いではなかったと知る。
 やや残念な気持ちを持つ自分が嫌で、ちょっとした仕事でもやたら褒められるせいだ、人たらしに騙されてはいけない、そもそも一途かつ同い年程度の小綺麗な男が好み、10歳以上も年が離れてチャラついた、とれかけのパーマヘアにギョロ目と大きな鼻が特徴的なあいつは正反対、何度も私は私に言い聞かせた。


 やがて近隣店舗に欠員が出て、次のアルバイトスタッフが決まるまでは彼がそこで主に遅番を担うらしく、当店とは距離を取る。
「寂しいね、ほっしー」
 先輩がニヤニヤしながら小突いてきた。ありったけの掃除用具を投げ付けてやりたい衝動に駆られる。
「いいえ。私は伴さんが苦手なんで、逆に助かりました」
「そう? ま、一応ばんちゃんって彼女居るっぽいし、あんなのいちいち本気にしてたら馬鹿みたいだよね」


 彼女
 心臓がドクンと跳ねて、隣で退屈げに雑巾を振り回す先輩が宇宙の果てに行ってしまった(と、錯覚)。
 エリアマネージャーならば、とうに30は超えている筈なので、結婚を視野に入れた交際だろうか。
 はたまた、話自体は進み、いずれ本人から聞かされる羽目にーーぐるぐる考え、商品棚の角に膝をぶつけ、涙が滲んで、誤魔化すべく瞼をぎゅっと閉じる。
 つまりは、もう元には戻れない場所に辿り着くや否や、呆気なく失恋した。



 一度、アルバイト帰りにフードコートで彼と鉢合わせたことがあり、味噌ラーメンを奢ってもらい、連絡先も教わる。
「お悩み相談でも何でも自由にどうぞ。ほっしーが『おやすみ』のスタンプ送る相手が俺だとなんか嬉しいわ」
「相変わらず、やかましいですね」
 790円で心の底まで満たされ、残ったスープを大胆に飲み干すと笑ってくれた。
 恋心が芽生える前の出来事であって、一旦、席を立ち、誰かと通話したのも呑気に仕事関係と信じ込んでいたけれど、もしもスマートフォンの向こうが例の彼女だったなら。


 他にも、アルバイトが終わると同じ電車に乗り、軽口を叩きつつ彼の時間を独り占めし、混み合う停車駅においては人の山から守るようにされ、
「おじさんの壁ドンでごめん」
「まだ若いじゃないですか」
「あら、優しい。調子狂うなあ」
どちらともなく笑う。
 なお、私がストーカーのような男性客に待ち伏せを喰らったと報告を受けた際は激怒して、より頼もしいガードマンと化す。


 好意の欠片を拾い集め、ハート型ができた瞬間には気付けなくて、半分に割れた頃、いっそ粉々にして欲しいと望む。
 現在は無事スタッフが見つかり、元通りに巡回を続ける彼に『バイト辞めるかもです』こう切り出せば『いきなりどうしたの。少し会って話そっか』構われる。
 私は狡い。恋人が居る男を呼びつけるために学生アルバイトの立場を利用した。


 従って、うだうだと言い訳じみた話にすら耳を傾けた彼に
「辞めちまえよ」
切り捨てられても当然の報い、にも拘らず引き止めてくれなかったとショックを受ける(我ながら面倒臭い女だ)。
「ですよね。長々とすみませんでした」
「違う違う、待って。今のは完全に俺が悪い、誤解招く表現だわ」
 珍しく焦った顔で、ファストフードのトレイ片手に立ち上がった私の腕を掴み、土曜日、ガラス窓の外はバス停と雨降り、ブルーグレイの景色、色気がないフードコートに何かが起きた。


「手」
「思わず。でも離せばほっしー、居なくなっちゃうでしょ」
 せっかくじっくり話せたのに、と真剣な面持ち(初めて見た、あと何故か普段と違ってスーツ姿ではない)で彼は続ける。
 触れられた左腕が熱を帯び、次第に左半身が温まった。
「実は今日、仕事じゃないんだよね。バリバリ私服だし、個人的に君と飯食ってんの。会社にバレたらヤバい。そういうリスク冒してまで、俺が、なんでだろ?」


 わざと意地悪に首を傾げてみせ、私の顔を覗き込んだ。微かな希望の光が差し、もどかしいような恥ずかしいような、嗚呼、時が止まればいい。
「で。話変わらないんだけど、俺は俺のことめちゃくちゃ大好きな子がタイプ、みたいな」
「はあ? きっしょ、一気に鳥肌立ちました」


「とか言っといて顔真っ赤だよ。超かわいい、付き合お」
 瞬時に胸が高鳴り、心は晴れ、捻くれ者が「良いんですか!?」とはしゃいで彼に迫る。暫し謎の間が空き、不安に思うと
「うん。ほっしーがバイトさえ辞めれば問題ナシ、ただの男と女。てか微笑ましくて、愛しくて仕方ない。何その素直で斬新なリアクション」
彼は掴んだ腕の力を弱め、情けなくテーブルに伏せ、縮こまった。


 余程こちらの台詞、だがしかし、喜んでばかりはいられず、浮かんだ疑問をすぐにぶつける。
「あのー、前にチラッと聞いたんです。彼女持ちだって」
「仕事人間だっつーの。要は単に見栄を張った、だけ。俺が好きなのは……ダメだ、ここじゃ。場所移そう」
 今更、周りを気にした彼は頭を掻き毟り、「カッコ悪いな」とつぶやく。


「私は愛してますよ、伴さんの残念なとこも」
 やはりオレンジの口紅を塗ろう。近い将来、〈めちゃくちゃ大好き〉になるのはあちらの方だったり、して。