隙間隙間の経験
不安ごと排水口に流した晩は、ステンレスの細かな水滴と額の吹き出物が重なるようだった。
化粧を落とすついでにプチっと潰してしまい、赤い塊がそこそこ目立つ。
突然現れて洗い物では消えてくれないそれと給料日1週間前でついに底を突いた財布に思考回路が乗っ取られそうで、私は決意する。
単発のアルバイトをしよう、と。
面倒な履歴書も面接も不要で報酬は〈即払い〉だと噂に聞く、今や定番のアプリをダウンロードして、その夜は登録まで済ませて寝た。
翌朝より仕事探しを始めるも、近くで働こうとすれば経験者に限られたコンビニエンスストアや美容院の他に、有資格者を募る保育園と介護施設、下から上に指を滑らせていくと必然的に自宅との距離が遠くなり、見ているだけで気が滅入る。
では、未経験者にできることは何なのか。
華やかなアパレルの体験バイトとやらに心惹かれてお気に入りに追加すると、誰かに先を越されて早くも募集を締め切っていた。
ほんの一瞬の出来事、時給と条件がいい職場の奪い合いがすぐそこにある。まるで目に見えない闘技場のようだ。
ここで昨日の皿洗いを思い出した。
交通費は片道分のみ、だが、スタジアムの売店で調理補助をはじめ、洗い場等の〈キッチンスタッフ〉はどうだろう。
未経験者歓迎、業務内容は至って簡単で明後日、午後4時から9時まで働けば、およそ6000円入ってくる。
服装は清潔感が云々、持ち物はボールペンとメモ帳、張り切って申し込みのボタンを押す。
なお、普段は趣味が高じてコスメを扱う工場で働いている。好きなことと引き換えにフリーターのひとり暮らしで、生活が楽とは言えなかった。
残り僅かな安売りの豆腐に醤油をかけ、ぐちゃぐちゃにして食べる。現在の私にとっては雲の上の存在な、白米の味が懐かしい。
さて前日、企業側から個別にメッセージが届き、初めて集合場所及び時間を伝えられる。
「『よろしくお願いします』っと」
勤務先となるスタジアムのスケジュールを調べれば真っ先に人気アーティストの名が出て来た。これはどうも混雑しそうで、10名募った理由が分かる。
休日とはいえ、きっと学生が多く、私のような年齢のスタッフは少ない。
緊張感に包まれ、何度も寝返りを打って、壁に頭をぶつけた。
そしてコンシーラーと前髪で吹き出物を隠し、遅めの昼食をとり、電車に乗る。
スマートフォンで再びメッセージの内容を確かめ、心の中で挨拶の練習をした。
到着すると、指定された銅像の真ん前に大学生らしき2人組の女性が喋りながら立っている。友人同士で応募したのだろうか、尚更、肩身が狭い。さりげなく近寄って、私以外の者も無言で徐々に輪を作った。
そこにクリップボードを持った青い髪が眩しい男性が加わり、
「お待たせしました。皆さんは◆◆から来て下さった方々ですね。おひとりずつ、名前を教えてください」
と存外、丁寧に出勤確認(?)を取る。
現状7名、就業時刻の5分前に3名が電車の遅延だとかで走ってきて頭を下げた。
こちらはというと、〈レジができる〉と〈そうでない〉にざっくり分けられ、売店どころか店舗外の特設売り場に配置される。
アプリで見たキッチンスタッフではなく、ひたすらドリンクを売る係、おまけに怠そうな若いアルバイトが
「じゃあ、君には会計をお願いしよっかな。こっちはサーバーやるんで。やり方はねえ」
などと〈できない〉私に重大な仕事を振った。

小型タッチパネル式端末の操作について、ドリンクの種類、お客様に伺うこと等、メモ帳には書いたが、ささっと教わったのみで、昨今の多種多様な決済方法にすぐさま自分が対応可とは思えず、暗雲が立ち込める。
「隣に俺が居るんで。平気っすよ」
急に話し掛けられてびっくり、同じく単発のアルバイトでお客様に商品を提供していく予定の彼であった(立体型のマスクをしているけれども同い年くらいの、垂れた眉と目、いかにも優しそうな雰囲気で、私とは身長差が20cmほど)。
「ええと、ありがとうございます。QRと電子の区別がつかなくて……」
「そんなに深刻な顔しないでも大丈夫ですよ。一緒に頑張りましょう」
正規のスタッフより遥かに頼もしい存在の登場。実を言うと私は高校生の頃、スーパーマーケットでレジをやっていた、しかし長蛇の列に耐えきれなくて1ヶ月以内に辞めた。
手元の端末が開場の午後5時を知らせる。こちらに来るのは指定席の客であり、皆スマートフォンや紙チケット片手に座席の場所を探して、急いではいなかった。
ふと中年男性と目が合い、本日初のお客様が吸い寄せられ「いらっしゃいませ」を待たずに、渋い声で
「レモンサワー」
と注文し、600円を支払うと私の後ろで〈彼〉が缶からプラカップに入れ替えた、しゅわしゅわのアルコールを受け取り、精一杯の感謝を聞き流して去る。
端末の操作は『メニュー』をタップ、金額を入力、決済方法(現金以外は機械で画面を読み取るかあちらにカード類をタッチしてもらう)『決定』、以上。
炭酸やら生ビールやらを求め、ぽつりぽつりと立ち止まって、ドリンク名を告げ
「◎◎で」
とか、予め支払いの手段を知らせてくれる人、或いは私も頻繁に使うアプリならば良い、けれどマイナーなものは数秒フリーズして考えないと判断が難しかった。
「700円で、電子っす」
見かねた彼が助け船を出す。
いつもは一体、何の仕事を?
どんなパターンにも、外国人にさえ、笑顔で応ずる(寧ろ彼がレジを務めるべき)。
開演30分前、列が全く途切れない。
恐らくドリンクと金額を間違えて打ったり、逆に何も入力せずに売ってしまった。
皿を洗うつもりでご覧の有様、もう自宅に帰りたい。忙しなくも彼が私を気に掛け、現金を先に受け取って、
「あの、お金は……」
「そっちの男の子に渡したよ。しっかりしな」
最早ぐちゃぐちゃ、他のスタッフには
「お客さんに頼まれたら声デカめに復唱ね。じゃないとこっちが聞こえなくて動けないんで」
終始こいつはタメ口なのか。
開演でやっと一息つく。暇潰しに千円札をまとめていると、彼が腰を屈めて、私にのみ聞こえるように囁いた。
「お疲れさま。こっから片付け入るっぽいです。もしも最後に金額と商品の数が合わんみたいなトラブル起きても俺らは知ったこっちゃないし、何食わぬ顔で帰りましょう」
「ですね。お手伝いいただき、ありがとうございました」
名前すら知らない今日限りの相方と、顔を見合わせてどちらともなく握手する。
売店はかなり儲かったようで、意気揚々と自ら手を挙げたレジ係の女の子がぐったりしていた。定刻に全ての単発アルバイトスタッフは退勤、残りの仕事は正規スタッフに任せる。
「電車ですか」
「はい。お姉さんも?」
頷けば自然と並んで最寄駅へ向かうことになった。

面倒見がいい彼は私の話ばかり聞きたがる。空いた時間に稼いで、心の隙間にも滑り込まれる、なんて。
「良かったら飯、行きませんか」
の誘いを
「ごめんなさい。今ホンットにお金なくって」
で断り、めちゃくちゃ後悔した帰り道。
明日からはレジの人にもっと優しくしよう。
