なぜエビデンスベーストマーケティングを無料で発信するのか
私はこのnoteで、エビデンスベーストマーケティングについて発信しています。
論文や専門書で示されている研究結果を紹介し、企業のマーケティング活動や身近な事例に置き換えて解説しています。
なぜ、専門性のある内容を無料で発信しているのか。
理由は単純です。
私は、エビデンスベーストマーケティングを使った仕事がしたいからです。
しかし、その仕事を増やすためには、自分の能力を売り込む前に、この考え方を必要とする企業や人を増やさなければなりません。
無料発信は、知識の安売りではありません。
自分がやりたい仕事が生まれる市場を、自分でつくるためのマーケティングです。
有用な研究はある。しかし、実務には十分届いていない
エビデンスベーストマーケティングとは、個人の経験や思いつきだけではなく、蓄積された研究や実証データを使って、マーケティングの意思決定を行う考え方です。
代表的な研究機関であるオーストラリアのEhrenberg-Bass Instituteでは、さまざまな国やカテゴリーの購買データを長年研究してきました。
ダブル・ジョパディの法則、購買重複、メンタルアベイラビリティ、フィジカルアベイラビリティなど、ブランドの成長を考えるうえで有用な知見が蓄積されています。
日本でも、『ブランディングの科学』『戦略ごっこ』『未顧客理解』などを通じて、こうした考え方に触れられるようになりました。
つまり、研究が存在しないわけではありません。
実務で使える知見も、すでに数多くあります。
それでも、STP、ペルソナ、差別化、ファン化、ロイヤルティマーケティングといった言葉に比べると、エビデンスベーストマーケティングが企業の一般的な選択肢になっているとは言いにくい状態です。
ただし、ここは正確に書く必要があります。
今回確認できた範囲では、
「エビデンスベーストマーケティングという言葉を知っているマーケターは何%か」
という直接的な認知率調査は見つけられませんでした。
したがって、具体的な数値を使って「知名度が低い」と断定することはできません。
一方で、マーケティング研究が実務で十分に活用されていないことを示す研究は、繰り返し発表されています。
2004年に発表された研究では、学術的なマーケティング知識が実務で限定的にしか利用されていないと指摘されています。
原因は、論文が難しいことだけではありません。
研究者と実務家では、関心のあるテーマ、使用する言葉、成果を評価する基準が異なります。そのため、研究成果が存在していても、実務の意思決定まで移転されにくいのです。
2012年の論文でも、マーケティング研究と実務の間にある隔たりが取り上げられています。
エビデンスに基づくマーケティングを前進させるには、研究者と実務家が交流するだけでなく、研究成果の伝え方や、実務への翻訳方法を改善する必要があると論じられています。
さらに、2023年に発表された7か国を対象とする広告分野の研究でも、研究者と実務家の隔たりは依然として残っていると報告されました。
厳密に言えば、問題は単なる知名度ではありません。
有用な研究が、実務家の使える形に翻訳され、企業の意思決定まで届いていないのです。
存在を知らないものを、企業は発注できない
私は、エビデンスベーストマーケティングを使った仕事がしたいと思っています。
社内で声の大きい人の意見や、その場の思いつきだけで方針を決めるのではなく、研究とデータを使い、成功する確率を少しでも高める仕事です。
しかし、自分がその有用性を理解しているだけでは、仕事は生まれません。
企業が発注できるのは、基本的に存在を知っているものだからです。
SEO対策をしたい。
SNSを運用したい。
Web広告の成果を改善したい。
CRMを導入したい。
こうした言葉であれば、企業側も何を依頼するのかをある程度想像できます。
一方で、
「エビデンスベーストマーケティングを導入したい」
「ダブル・ジョパディの法則を前提に成長戦略を見直したい」
「NBDディリクレモデルを使って、自社ブランドの状態を評価したい」
と考えている企業は、まだ多くありません。
そもそも、その考え方を知らなければ、必要性を感じることも、発注することもできないからです。
需要がないのではありません。需要として言語化される前の状態にあります。
だから、最初から自分のサービスや能力を売り込んでも限界があります。
まずは、企業が抱えている問題と、エビデンスベーストマーケティングの知見を結びつけなければなりません。
既存顧客のロイヤルティを高めれば、本当にブランドは成長するのか。
売上の大部分を占める上位顧客だけに、予算を集中させてよいのか。
ターゲットを細かく絞るほど、広告効率は高くなるのか。
競合と明確に差別化できなければ、商品は売れないのか。
広告経由のコンバージョンは、本当に広告によって増えた売上なのか。
こうした実務上の疑問を入り口にして、研究結果を伝えていく。
その積み重ねによって初めて、
「この考え方を使って、自社のマーケティングを見直したい」
という需要が生まれます。
担当者が理解しても、決裁者に通らない
もう一つ、大きな壁があります。
エビデンスベーストマーケティングは、現場の担当者が理解しただけでは導入できません。
企業で新しい考え方を使うためには、上司、事業責任者、経営者などの決裁を通す必要があるからです。
しかし、エビデンスベーストマーケティングには、直感に反する主張が少なくありません。
優良顧客だけでなく、たまにしか買わないライトユーザーが重要である。
ブランド成長の中心は、既存顧客のロイヤルティ向上よりも、顧客数の増加である。
競合ブランド同士の顧客属性は、一般に考えられているほど大きく違わない。
差別化だけでなく、ブランドを見分けてもらうための独自資産が重要である。
広告のターゲットを狭めれば、必ず効率が上がるわけではない。
これらを初めて聞いた決裁者は、従来のマーケティング理論を否定されたように感じるかもしれません。
担当者自身が内容を理解するだけでも簡単ではありません。
さらに、それを社内向けの資料に直し、上司からの反論に答え、予算を確保する必要があります。
これでは、有用な考え方であっても、組織の途中で止まってしまいます。
正しい情報が存在することと、その情報が企業で実行されることは別問題です。
研究結果を実務に定着させるには、担当者が理解できるだけでは足りません。
その担当者が、決裁者に説明できる形まで翻訳されている必要があります。
さらに理想的なのは、決裁者自身に情報が届くことです。
事業責任者が記事を読み、
「自社も優良顧客ばかりを見すぎていないか」
「広告効果をコンバージョン数だけで判断してよいのか」
「もっとライトユーザーを獲得する設計に変えられないか」
と、担当者に問いかける。
ここまで到達すれば、担当者が下から懸命に説得しなくても、決裁者側から需要が生まれます。
研究を、組織の中を通過できる言葉に変える
だから私は、論文の要約だけを発信したいわけではありません。
研究内容を正確に紹介するだけなら、研究者や専門家の発信を読んだ方がよいでしょう。
私がやりたいのは、研究と実務の間を翻訳することです。
この研究は、企業のどのような問題に関係するのか。
従来の考え方と何が違うのか。
どのような条件なら使えるのか。
実務では、何を変えればよいのか。
上司や経営者には、どのように説明すればよいのか。
ここまで置き換えなければ、研究は企業の意思決定に届きません。
特に重要なのは、担当者が「理解できる文章」にするだけでなく、担当者がそのまま社内で使える言葉にすることです。
専門用語を並べるだけでは、実務への翻訳とは言えません。
企業が抱えている問題、必要な判断、実行すべき施策まで落とし込む必要があります。
私は、このnoteでその役割を担いたいと思っています。
なぜ無料で発信するのか
最初から有料にすると、すでにエビデンスベーストマーケティングに強い関心を持っている人にしか届きません。
しかし、今届けるべき相手は、その言葉をすでに知っている人だけではありません。
マーケティングの成果が上がらずに悩んでいる担当者。
社内で当然とされている戦略に、違和感を持っている人。
マーケティング投資の根拠を求めている事業責任者。
広告やブランディングに投資しているものの、何を信じればよいかわからない経営者。
こうした人たちは、「エビデンスベーストマーケティング」と検索しません。
知らない言葉は、検索できないからです。
だから、人気のある企業、商品、漫画、音楽、広告、身近な仕事の疑問などを入り口にして、研究成果に触れてもらう必要があります。
記事を読んだ担当者が、社内で共有する。
それを読んだ上司が、別の決裁者に共有する。
やがて決裁者側から、
「この考え方で、自社のマーケティングを見直せないか」
という話が出る。
そこまで到達して、初めて市場が生まれます。
無料発信とは、すでに存在する需要を刈り取る活動ではありません。将来の需要を育てる先行投資です。
知識を無料で出せば、自分の専門性の価値が下がるという見方もあります。
しかし、知識を隠したままでは、その専門性を必要とする市場自体が大きくなりません。
また、知識を知っていることと、企業の実務で使えることは別です。
企業の状況を分析する。
解決すべき問題を定義する。
限られた予算や人員の中で、施策を設計する。
関係者を動かし、実行に移す。
結果を測定し、次の意思決定につなげる。
これらは、記事を読んだだけで簡単にできるものではありません。
基礎的な知識が広まるほど、専門家に求められる仕事は、理論の説明から実行へ移っていきます。
マーケティングを説明する仕事から、消費者を動かす仕事へ
現状では、エビデンスベーストマーケティングを使おうとすると、その有用性を説明するところから始めなければなりません。
なぜライトユーザーが重要なのか。
なぜ過度なターゲティングが危険なのか。
なぜ浸透率がブランド成長に関係するのか。
なぜ広告効果を増分で測る必要があるのか。
説明は必要です。
しかし、マーケターの本来の仕事は、マーケティング理論の正しさを社内で証明することではありません。
消費者を理解し、商品やサービスが選ばれる確率を高めることです。
決裁者があらかじめエビデンスベーストマーケティングの価値を理解し、
「この考え方でやってみたい」
と言ってくれる状態になれば、状況は変わります。
マーケティング手法の説明に使っていた時間を、消費者理解に使える。
社内を説得するためだけの資料ではなく、施策を設計するための分析に時間を使える。
理論の正当性を争うのではなく、自社ではどのように適用するかを議論できる。
施策を実施して終わるのではなく、本当に消費者行動が変わったのかを検証できる。
そうなれば、マーケターは自分の理論を売り込むことではなく、顧客の事業成長に集中できます。
私が無料で発信しているのは、すでに存在する仕事を奪い合いたいからではありません。
エビデンスベーストマーケティングを使った仕事が、当たり前に発注される市場をつくりたいからです。
担当者が一人で社内を説得しなくても、決裁者が記事を読み、
「この考え方でやってみたい」
と言ってくれる。
そうなれば、私たちはマーケティングの有用性を説明することではなく、消費者をどう動かすかに、より多くの時間を使えるようになります。
その状態をつくるために、研究を実務の言葉に翻訳し、無料で届け続けます。
これは知識の無料配布ではありません。
自分が本当にやりたい仕事が生まれる市場を、自分でつくるためのマーケティングです。
参考URL
Ehrenberg-Bass Institute for Marketing Science
Geir Grundvåg Ottesen and Kjell Grønhaug
“Barriers to Practical Use of Academic Marketing Knowledge”
https://doi.org/10.1108/02634500410551905
Jennifer Rowley
“Evidence-Based Marketing: A Perspective on the ‘Practice-Theory Divide’”
https://journals.sagepub.com/doi/10.2501/IJMR-54-4-521-541
Lawrence Angほか
“An International Perspective of the Academic-Practitioner Divide in Advertising”
https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/02650487.2022.2142416
Byron Sharpほか
“Viva La Revolution! For Evidence-Based Marketing We Strive”
https://journals.sagepub.com/doi/10.1016/j.ausmj.2017.11.005
国立国会図書館サーチ
『戦略ごっこ―マーケティング以前の問題』
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