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マーケティングが何歳か知ってますか?

マーケティングの世界には、もっともらしい常識がたくさんある。

「売上の8割を作る上位2割の顧客を大切にしよう」

「ロイヤル顧客を育てればブランドは成長する」

「ターゲットを細かく絞るほど広告効率は高まる」

「競合と明確に差別化できなければ売れない」

どれも直感的で、会議でも説明しやすい。

しかし近年、こうした常識の一部が、実際の購買データによって問い直されている。

なぜ、広く信じられてきた理論が、今になって次々と覆されているのだろうか。

マーケターが非科学的だからだろうか。

私は、少し違う見方をしている。


【マーケティングは、科学としてまだ若い】

マーケティングは、学問としては約120年の歴史がある。

大学で初期のマーケティング科目が教えられ始めたのは、1902年頃とされている。

しかし、データで理論を検証し、異なる市場でも再現するかを確かめ、相関と因果を区別する実証・定量科学としての歴史はもっと短い。

『Journal of Marketing Research』の創刊は1964年。

定量的なマーケティング研究を中心とする『Marketing Science』の創刊は1982年である。

つまり、起点の置き方には議論があるものの、実証・定量科学としてのマーケティングは、まだ44〜62年ほどの若い分野だと捉えられる。

もちろん、学問の年齢だけで個別研究の正誤は判断できない。

若い分野にも頑健な法則はあり、古い分野にも誤りは残る。

それでも、科学として40〜60年程度の段階で、常識の淘汰がすでに完了していると考える方が不自然ではないだろうか。

【天文学が同じ年齢だった頃】


近代天体物理学の重要な転換点の一つは1859年である。

キルヒホッフとブンゼンは、光のスペクトルから太陽や恒星に含まれる元素を調べられることを示した。

これによって天文学は、星の位置や動きを記録する学問から、星の物理的性質を解明する学問へ進んだ。

その約61年後の1920年。

天文学者たちは、

「銀河系は宇宙のほぼ全体なのか」

「それとも、宇宙に多数存在する銀河の一つなのか」

を議論していた。

渦巻星雲が銀河系の内部にあるのか、銀河系の外にある独立した星の集団なのかは、まだ決着していなかった。

その後、エドウィン・ハッブルがアンドロメダの変光星を観測し、1924年末までに、アンドロメダが銀河系の外側にあることを示す証拠を得た。

近代天体物理学の始まりから、およそ65年後である。

これは、現在の実証マーケティングとほぼ同じ年齢に当たる。

現在のマーケティング科学は、天文学でいえば、まだ「銀河系の外に銀河があるのか」を議論していた年齢に近い。

当時の天文学にも、膨大な観測記録はあった。

それでも、宇宙の基本構造は正しく理解されていなかった。

データがあることと、そのデータを生み出している構造を理解していることは同じではない。

マーケティングにも、購買履歴、広告接触、サイト行動、会員情報などの膨大なデータがある。

しかし、それだけで広告が本当に購入を増やしたのか、ロイヤル顧客が施策によって育ったのか、高頻度顧客への集中がブランド成長を生むのかが分かるとは限らない。


【医学も原因と結果を取り違えてきた】


医学は、マーケティングよりはるかに歴史が長い。

それでも、介入効果を比較によって厳密に検証する医学の歴史は意外に短い。

1948年に発表された結核治療薬ストレプトマイシンの試験は、中央で無作為割り付けを行った近代的な比較試験の代表的な起点とされている。

さらに象徴的なのが、胃潰瘍である。

1980年代初頭まで、消化性潰瘍は主にストレス、生活習慣、胃酸などによって起こると考えられていた。

ところが、ロビン・ウォレンとバリー・マーシャルは、胃炎や消化性潰瘍にヘリコバクター・ピロリ菌が深く関与していることを明らかにした。

ストレスや胃酸が無関係だったわけではない。

しかし、「関係しているもの」と「主要な原因」が混同されていた。

この構造はマーケティングにも似ている。

ロイヤル顧客は購入頻度が高い。

広告接触者は購入率が高い。

サイトを何度も訪れた人はコンバージョン率が高い。

しかし、それだけでは、ロイヤルティ施策が購入頻度を高めた、広告が購入を発生させたとは言えない。

患者が治療後に回復しても、治療が回復の原因とは限らない。

同じように、顧客が広告接触後に購入しても、広告が購入の原因とは限らない。

自然回復と治療効果を分けるために対照群が必要なように、自然購入と広告の増分効果を分けるためにも対照群が必要である。

マーケティングは今、医学が経験的な診療から比較試験へ移ったのと似た転換期にいるのかもしれない。


【マーケティングは、ようやく科学になり始めた】


この「常識の淘汰」を象徴する存在の一つが、Andrew Ehrenbergの研究を受け継ぐEhrenberg-Bass研究所である。

Double Jeopardyの法則やNBD-Dirichletモデルは、もっともらしい消費者心理の物語から作られたものではない。

異なるブランド、カテゴリー、市場、期間の購買データを観察し、繰り返し現れる規則性を記述しようとした研究である。

Double Jeopardyとは、小規模ブランドは大規模ブランドより顧客数が少ないだけでなく、平均購買頻度や再購入率も少し低くなるという規則性である。

NBD-Dirichletモデルは、カテゴリーの購入頻度とブランド選択を確率的に記述し、浸透率、平均購買頻度、リピート、顧客共有などの基準値を導く。

重要なのは、これらが近年突然生まれた理論ではないことだ。

NBD-Dirichletモデルは、Goodhardt、Ehrenberg、Chatfieldによって1984年に体系的に発表されている。

近年起きているのは、法則の誕生というより、長年蓄積されてきた実証研究の社会実装である。

バイロン・シャープらは、これらを実務の言葉に翻訳し、

「ロイヤル顧客を育てれば成長する」

「細かくターゲティングするほど効率が上がる」

といった常識を、実際の購買データと照合してきた。

これはEhrenberg-Bass研究所だけの特殊な思想ではない。

『Marketing Science』は現在も、マーケティングにおける実証的・理論的な定量研究を中心に据えている。

現代のマーケティング研究全体でも、ランダム化実験、準実験、因果推論、大規模データ分析を使い、

「施策の後に何が起きたか」

ではなく、

「施策によって何が増えたか」

を明らかにする動きが強まっている。

定性研究や経験は、問題の発見や仮説の生成に役立つ。

しかし、もっともらしい物語を普遍的な法則として扱うには、再現性と因果効果の検証が必要である。


【正しい法則は、なぜ40年間広まらなかったのか】


ここで一つの疑問が生まれる。

NBD-Dirichletが1984年から存在していたなら、なぜ40年以上たった今でも、実務の共通知識になっていないのだろうか。

数理モデルが難しいこと、購買パネルデータへのアクセスが限られていたこと、学術研究が実務家に届きにくかったことは理由の一部だろう。

マーケティング研究と実務の間に大きな断絶が残っていることも指摘されている。

しかし、私はそれだけではないと考えている。

NBD-Dirichletと矛盾し得る思想の方が、商品化しやすかったのではないか。

「優良顧客を発見します」

「顧客をロイヤル化します」

「離反を予測します」

「一人ひとりに最適化します」

こうした物語からは、CRM、CDP、MA、パーソナライゼーション、ロイヤルティプログラム、顧客スコアリング、広告ターゲティングなど、多くの商品を作ることができる。

顧客を分類し、介入し、望ましい状態へ変える。

この考え方は機能として可視化しやすく、社内でも説明しやすい。

一方、NBD-Dirichletが主に提供するのは「正常値」である。

「小規模ブランドの購買頻度が低いのは、特別な失敗ではない」

「高頻度顧客が存在することは、施策の成果とは限らない」

「多くの顧客が競合ブランドも買うのは普通である」

これらは意思決定には有用だが、「顧客を劇的に変えます」という処方箋ほど売りやすくない。

EhrenbergとSharpも2000年の論文で、記述モデルが「単なる記述」と過小評価されてきたことを指摘し、Dirichletモデルの実務的用途を説明している。

科学的に正しい理論が、必ずしも実務で広がるわけではない。

分かりやすく、説明しやすく、商品化しやすい理論の方が広がる。

一度その理論を前提としたツール、組織、予算、評価指標、専門職が形成されると、前提を問い直す知見を受け入れるインセンティブは弱くなる。

これは、誰かが研究を隠したという話ではない。

企業は短期成果を説明しやすい施策を求め、担当者は自分が動かせるKPIを求め、提供企業は機能として販売できる解決策を作る。

その結果、売りやすい理論が残り、売りにくい法則が置き去りにされる。

売り物になる誤謬が市場に選ばれ、売り物になりにくい法則が忘れられた。

もちろん、「既存ビジネスが普及を妨げた」と直接証明されているわけではない。

これは、普及速度と産業のインセンティブ構造から導いた仮説である。


【NBD-Dirichletは実務でどう役に立つのか】


では、NBD-Dirichletは実務で何の役に立つのだろうか。

最大の価値は、市場における「正常値」を与えることにある。

企業はリピート率や購入頻度が低いと、

「ロイヤルティが不足している」

「CRMが弱い」

と原因を探したくなる。

しかし、その数字が本当に異常なのかを判断するには、基準が必要である。

NBD-Dirichletは、カテゴリーの購買特性やブランド規模から、浸透率、平均購買頻度、再購入率、顧客共有などが通常どの程度になるかを予測する。

例えば、小規模ブランドの再購入率が低くても、それがDouble Jeopardyから予測される水準なら、主要な課題は既存顧客のロイヤルティではない。

単純に、そのブランドを買う人が少ないのである。

その場合、ポイント施策や離反防止に予算を追加するより、認知、想起、配架、購入可能性を広げ、購入者数を増やす方が優先されるかもしれない。

また、顧客の購買頻度は毎年一定ではない。

今年たくさん買った人が翌年に減ることも、今年ほとんど買わなかった人が翌年に再購入することもある。

その一部は施策の成果や失敗ではなく、購買確率のばらつきや平均への回帰によって自然に起きる変化である。

モデルによる期待値があれば、自然変動と、本当に調べるべき異常を分けやすくなる。

競合分析でも同じである。

顧客は一つのブランドだけを買うとは限らず、ブランド間の顧客共有は、主に相手ブランドの規模に応じて発生する。

大手ブランドとの併買が多いからといって、特別な競合関係があるとは限らない。

反対に、ブランド規模から予測される以上に顧客共有が多ければ、利用場面や価格などに特別な競合関係がある可能性が出てくる。

NBD-Dirichletは、施策を直接提案する必勝法ではない。

その役割は、施策を考える前に、

その数字は本当に問題なのか。市場構造から予測される正常な数字ではないのか。

を判断する基準線を引くことである。

正常な数字を異常だと誤認すれば、必要のない施策に予算を使う。

自然に起きた変化を成果だと誤認すれば、効果のない施策を続ける。

処方箋を考える前に、正しい診断をする。

それが、NBD-Dirichletが実務で果たす最も重要な役割である。


【常識が覆るのは、進歩している証拠】


マーケティングに謬説が残っていると聞くと、この分野を信用できないと感じるかもしれない。

しかし、私は逆だと思う。

常識が覆され始めたこと自体が、マーケティングが進歩している証拠である。

測定技術が乏しく、理論を反証する方法がなければ、もっともらしい物語は残り続ける。

現在は、購買パネル、広告実験、コンバージョンリフト、地域実験、因果推論などによって、過去の常識を検証できる環境が整い始めている。

バイロン・シャープが、マーケティングの常識を壊しているのではない。

測定技術と実証研究の蓄積によって、これまで検証されてこなかった常識が、ようやく科学の審判を受け始めたのである。

歴史が浅いから、マーケティングは間違っているのではない。

歴史が浅いから、常識の淘汰がまだ終わっていない。

マーケティングの常識が今になって次々と覆されているのは、この分野が科学ではないからではない。

マーケティングが、ようやく科学になり始めたからなのかもしれない。

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参考URL

マーケティング思想・教育の歴史

https://sk.sagepub.com/hnbk/edvol/hdbk_marketing/chpt/history-marketing-thought

Journal of Marketing Research 創刊号

https://www.jstor.org/stable/i358057

Marketing Science 創刊号

https://pubsonline.informs.org/toc/mksc/1/1

Marketing Science誌の概要

https://pubsonline.informs.org/journal/mksc

Spectroscopy and the Birth of Astrophysics

NASA:Hubble Views the Star that Changed the Universe

NASA:1920年のGreat Debateとアンドロメダ銀河

1948年ストレプトマイシン比較試験

https://www.bmj.com/content/2/4582/769

ノーベル賞委員会:ピロリ菌と消化性潰瘍

NBD-Dirichlet原論文

https://academic.oup.com/jrsssa/article/147/5/621/7106064

Ehrenberg-Bass研究所の歴史

Managerial Uses of Descriptive Marketing Models

https://assets.marketingscience.info/6893.pdf

マーケティング研究と実務の断絶


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