Coke ONは、競合へのトロイの木馬かもしれない
Coke ONを、ずっとロイヤルティ施策だと思っていました。
対応自販機で商品を買うとスタンプが貯まり、15個集めると1本無料になる。たくさん買った人に特典を与えて、さらに買ってもらう。
どう見ても、ロイヤルティプログラムです。
しかし、少し引っかかることがあります。
コカ・コーラは、Ehrenberg-Bass Instituteの研究を支援してきた企業の一つです。同研究所自身も、コカ・コーラなどのグローバル企業がEhrenberg-Bassの原則をマーケティング戦略に取り入れてきたと紹介しています。
Ehrenberg-Bassが長年の購買データから示してきたのは、ブランド成長における浸透率の重要性です。
大きなブランドは顧客が圧倒的にロイヤルだから大きいわけではありません。より多くの人に買われており、ロイヤルティ指標も少し高い。ブランドを成長させるなら、既存のヘビーユーザーだけを見るのではなく、多くのライトバイヤーを含む市場全体へ届くことが重要になります。
だとすると、なぜコカ・コーラはこれほど大規模な「ロイヤルティ施策」を作ったのでしょうか。
調べていくうちに、私はCoke ONの見方を変えました。
Coke ONはロイヤルティを高めるためのアプリというより、Ehrenberg-Bassの考え方を実行するための巨大なマーケティングインフラなのではないか。
ここから先は、公開情報をつなぎ合わせた私の仮説です。
実際には、ヘビーユーザーだけを狙っていない
Coke ONは2016年にサービスを開始し、2025年12月末には累計7,000万ダウンロードを突破しました。全国53万台以上のCoke ON対応自販機で利用できます。
単なるデジタルスタンプカードと呼ぶには、かなり巨大です。
さらに興味深いのが、実際のキャンペーンです。
2026年3月から始まった10周年キャンペーンでは、Coke ONを使って初めて購入する人だけでなく、過去に購入経験はあっても前月にCoke ONを利用した購入がなかった人も対象に、1本購入するともう1本と交換できるドリンクチケットを配布しました。
つまり、インセンティブをヘビーユーザーだけへ集中しているわけではありません。
まだ買っていない人を一度購入へ動かし、しばらく買っていない人にも再び購入してもらう。
少なくとも、この施策を「優良顧客をさらにロイヤル化するためだけの施策」と説明するのは難しいでしょう。
むしろ、ライトバイヤーを含む幅広い購買者へ働きかけるという意味では、Ehrenberg-Bassの考え方とそれほど矛盾していません。
「誰が買ったか分からない自販機」を変えた
もう一つ重要なのが、自動販売機というチャネルです。
従来の自販機でも、いつ、どこで、何本売れたかは分かります。しかし、その1本を買った人が昨日も買った人なのか、半年ぶりに買った人なのかまでは販売本数だけでは分かりません。
キャンペーン後に売上が伸びても、新しい購入者が増えたのか、既存購入者の購買頻度が上がったのか、それとも元々買う予定だった人が特典を使っただけなのかを判断するのは簡単ではありません。
これを調べるには、消費者調査やパネルデータなどを使う必要があります。当然、時間もコストもかかります。
一方、Coke ONでは少なくともアプリの利用状況に応じて対象者を分けた施策が可能になっています。
もちろん、コカ・コーラが内部でどこまで個人単位の分析や実験を行っているのかは公開情報だけでは分かりません。
それでも、匿名性の高かった自販機購買に、利用履歴とマーケティング施策を結びつけられる余地が生まれた意味は大きい。
Coke ONは、自販機を「商品を売る場所」から「マーケティングを学習できる場所」へ変えたのかもしれません。
強い企業は「答え合わせ」が速い
マーケティングで重要なのは、最初から正解を知っていることではなく、答え合わせを速く回せることだと私は考えています。
仮説を立て、施策を実行し、その結果を観測して次の仮説へ進む。このサイクルを大量に回せる企業ほど、長期的には意思決定の精度を上げやすくなります。
Coke ONをこの視点から見ると、「15スタンプで1本無料」という販促だけで費用対効果を評価するのは少しもったいない。
たとえば「しばらく購入していない人へインセンティブを提示すると再購入が増えるのか」という問いも、対象者を識別できなければ検証すること自体が難しくなります。
もちろん、データが取れることと因果効果が分かることは別です。
キャンペーン対象者の購入が増えても、その人はキャンペーンがなくても買ったかもしれません。本当に知りたいのは「施策のあと何が起きたか」というアトリビューションではなく、「施策がなかった場合と比べて何が増えたか」という増分効果です。
それでも、観測できる範囲が増えれば、実験できる選択肢も増えます。
Coke ONはロイヤルティを高めるだけでなく、マーケティングの学習コストを下げるための投資なのではないでしょうか。
「大量リーチを安く買える時代」が終わったらどうするのか
もう一つ、Coke ONには長期的な意味があるのではないかと思っています。
コカ・コーラのような清涼飲料は、一度に何万円も売れる商品ではありません。1本数百円の商品を、非常に多くの人に買ってもらうことで巨大な売上を作っています。
だからこそ、幅広い消費者へ安く届くことの価値が大きい。
民放連研究所が電通、ビデオリサーチと行った5商品の調査では、広告リーチ1人あたりの単価はテレビCMが2.4円、YouTube動画広告が5.2円でした。広告認知1人あたりではテレビCM5.6円、YouTube25.8円という結果です。
ただし、この数字を「テレビは常にデジタルより安い」という普遍的な事実として扱うべきではありません。
調査にはテレビ広告のステークホルダーが関わっており、対象も5商品です。商品カテゴリー、出稿量、広告クリエイティブ、期間などによって結果は変わります。
それでも、ここから一つの問いを考えることはできます。
もし将来、テレビのように大量の人へ比較的安くリーチできる媒体の力が弱まり、幅広い人へ届けるために、より高単価なデジタル広告を大量に買わなければならなくなったらどうなるでしょうか。
10万円の商品なら、1人へ接触する広告費が多少上がっても採算を合わせられるかもしれません。
しかし、150円や200円の商品では事情が違います。
Ehrenberg-Bassでは広いリーチが重要なのに、そのリーチを買う単価だけが上昇する。
低単価・大量販売型の企業ほど、この問題は重くなる可能性があります。
2025年には日本のインターネット広告費が4兆459億円となり、総広告費の50.2%を初めて超えました。メディア環境がデジタルへ移っていること自体は明確です。
だからこそ、自社で巨大な消費者接点を持つ意味が出てきます。
Coke ONは無料のメディアではありません。開発費も運用費も販促原資も必要ですし、7,000万ダウンロードした全員へ常に届くわけでもありません。
それでも、広告会社やプラットフォームから毎回リーチを買うしかない企業と、自社でも消費者へ再接触できる企業では、将来取れる選択肢が違います。
テレビCMなどでMental Availabilityを作り、全国の自販機でPhysical Availabilityを確保する。その上にCoke ONによって、観測・実験・再接触できる仕組みまで重ねる。
こう考えると、Coke ONはかなり大きな戦略投資に見えてきます。
Coke ONは、EBMを実行するインフラなのかもしれない
ここまでなら、普通の戦略分析です。
Coke ONは表面的にはロイヤルティプログラムですが、その裏側では自販機購買の観測可能性を高め、施策を試し、自社から消費者へ再び接触できる基盤を作っている。
つまり、マーケティングの学習コストを下げながら、将来のリーチ調達コスト上昇にも備えられるインフラなのではないか。
私はここまで考えて、もう一つだけ仮説を思いつきました。
Coke ONは、競合への「トロイの木馬」なのか
Ehrenberg-Bassの研究は、以前よりはるかに広く知られるようになりました。
『How Brands Grow』を読めば、浸透率、ライトバイヤー、Mental Availability、Physical Availabilityといった基本的な考え方には誰でもアクセスできます。
これはマーケティング業界にとってはいいことです。
しかし、早くからこの研究へアクセスしていた企業の競争戦略という観点から見ると、少し別の意味もあります。
競合が知らないことを知っている、という情報差が縮まっていくからです。
かつてEhrenberg-Bassの研究を知っていること自体が意思決定の優位につながっていたとしても、競合が同じ本を読み、同じ理論を学べば、その優位は小さくなります。
そうなれば次に重要になるのは、理論を知っていることではありません。
競合より早く、その理論を実行できる仕組みを作っていることです。
ここでCoke ONをもう一度見てみます。
外から見えるのは、15本買えば1本無料になるスタンプカードです。
これを見た競合が「コカ・コーラほどの会社でもロイヤルティ施策を重視している」と考え、ポイント制度や既存顧客へのインセンティブを強化したとしても不思議ではありません。
一方、その間にコカ・コーラが本当に積み上げていたものが、7,000万ダウンロードと53万台以上の自販機を結ぶ、観測・実験・再接触のインフラだったとしたら。
競合はCoke ONという「施策」を真似しているのに、コカ・コーラはCoke ONという「競争基盤」を作っていたことになります。
これは競争戦略としてかなり大きな差です。
もし意図的だったなら、私はむしろ見事だと思う
ここで誤解のないようにしておきたいのですが、私はこれを「コカ・コーラが競合を騙しているから問題だ」と言いたいわけではありません。
企業には、自社の本当の競争優位を競合へすべて説明する義務などありません。
むしろ、自社の強みを簡単に模倣されないようにすることは、競争戦略として当然です。
そしてもし、Coke ONが世の中からロイヤルティ施策として理解されることで、競合の視線がポイントやスタンプといった表層へ向く一方、自分たちはその裏側で別の競争優位を積み上げていたのだとしたら。
私はそれをかなり巧妙な情報戦だと思います。
Ehrenberg-Bassの研究が広まれば広まるほど、「正しいマーケティング理論を知っている」という情報差は消えていきます。
そこで、表では分かりやすいロイヤルティ施策を見せながら、裏ではその理論を実行するためのインフラを10年かけて作る。
そして競合が「やはりロイヤルティが重要なのか」と考えている間に、自社はより広い市場へ届く仕組みを強くしていく。
もしそこまで意図していたのなら、かなり恐ろしい戦略です。
もちろん、この仮説を裏付ける証拠はありません。
コカ・コーラが競合をロイヤルティ施策へ誘導しようとしていることを示す資料もありません。普通に考えれば、Coke ONには販促、キャッシュレス、CRM、データ活用など複数の目的があるでしょう。
ここから先は完全に私の思考実験です。
ただし、仮に意図的ではなかったとしても、結果として同じことは起こり得ます。
競合が表層のスタンプ制度を模倣している間に、本当の競争優位がその奥で積み上がっていく。
理論は本を読めば学べます。
ポイントアプリも、お金をかければ作れます。
でも、7,000万ダウンロードと53万台以上の販売接点をつなぎ、そこで10年間学習を続けてきた時間は買えません。
Ehrenberg-Bassの研究が世界中へ広がっていくほど、競争優位になるのは「知っていること」から「実行できること」へ移っていくのかもしれません。
Coke ONは、本当にロイヤルティ施策だったのでしょうか。
それとも、私たちがロイヤルティ施策だと思って眺めている間に、コカ・コーラはまったく別の競争を始めていたのでしょうか。
Coke ONは、競合へのトロイの木馬なのかもしれません。
信じるか信じないかは、あなた次第です。
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参考URL
日本コカ・コーラ「Coke ON 10周年記念企画」 https://www.coca-cola.com/jp/ja/media-center/news-20260226-11
Coke ON公式サイト https://c.cocacola.co.jp/app/
Ehrenberg-Bass Institute「The researchers influencing billions in global marketing」 https://marketingscience.info/news-and-insights/the-researchers-influencing-billions-in-global-marketing
Ehrenberg-Bass Institute「Ehrenberg-Bass Institute marks 20 years of shaping global marketing from Adelaide」 https://marketingscience.info/news-and-insights/ehrenberg-bass-institute-marks-20-years-of-shaping-global-marketing-from-adelaide
Ehrenberg-Bass Institute「Answering critics」 https://marketingscience.info/news-and-insights/answering-critics
Ehrenberg-Bass Institute「Effective brand growth: Acquisition or retention?」 https://marketingscience.info/news-and-insights/effective-brand-growth-acquisition-or-retention
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