見出し画像

【怪異四連作|一話読み切り】土公神の童歌 ― 春土用の章 ―

春土用に入るころ、吉原の空は、どこか現実のものとは思えぬほど柔らかな霞をまとっていた。
桜はすでに盛りを過ぎ、薄紅の花弁が音もなく路地へ降り積もる。
風に晒され、濡れ、やがて形を失いながら土へと還っていくその様は、この町に生きる女たちの一生を、静かに映しているようでもあった。

昼の光はやわらかく、どこか夢のように滲む。
だが、その光は渡月楼とげつろうの奥までは届かない。

楼一の花魁――白菊しらぎくが古井戸に消えてからというもの、楼の空気は目に見えぬところで冷えきっていた。
客足は途絶えがちになり、残された女たちも流行り病に倒れ、座敷は空いたままになる。
笑い声はあっても軽く、酒の匂いは立っても熱がない。
その空虚さは、座敷にいなくとも、楼全体に滲んでいた。
どれもが形ばかりで、芯を失っていた。

千次せんじも、白菊が姿を消してから、すべての運に見放されたひとりだった。
悪事を働いても、悪知恵を使っても、思い通りにならない。
言うことを聞かない白菊を、千次はただ短刀で脅すつもりだった。
だが、白菊は千次の目の前で、迷いなく古井戸に身を投げた。

それを知った楼主のたえは、半狂乱になった。

「この馬鹿!あんたは、さすがに与太の甥だよ。楼一の稼ぎ頭を身投げさせちまうような馬鹿だとは思わなかったよ」

「なんだと、この老いぼれ女」

「身投げするのは白菊じゃない、お前だよ、千次!」

もともと気の強い二人は、譲ることができなかった。

二階の欄干からは古井戸が見える。
もたれたまま、千次はぼんやりと路地を見下ろしていた。
舞い落ちた花弁が風に押されては寄り、また離れる。
その動きが、妙に苛立たしかった。

煙管きせるに火を入れる。
だが火はすぐに短くなり、先の熱だけを残して消えた。

帳場では、今日も妙の声が鋭く響く。
銭の勘定、借り入れ、米の値――
すべてが、今この場にある現実を突きつけてくる。
妙の苛立ちはやがて千次へ向かう。

「お前が締まりなく使うからだよ!」

「客を呼べねえのは誰のせいだ!」

言葉はぶつかり、どこにも落ち着かない。
まるで、流れを失った水が淀み、腐っていくように。

千次は舌打ちをした。

――金が足りねえ。
――女が足りねえ。

そして何より、流れが、自分の方を向いていない。

かつては、強引に手を伸ばせば転がり込んできたものが、今はすべて遠い。
何かが、どこかで狂っている。

その狂いを押し戻すように、千次は手を伸ばし続けていた。
掴めるものは、すべて掴む。
その先に何があるかなど、すでに考える余裕はなかった。

千次が病で亡くなった女を葬るのを見届け、楼に戻る途中のこと。
身なりの良い娘が橋の欄干に寄りかかっていた。
――年にして十五、六くらいだろうか。
気にかけている右足のつま先から血が出ている。

「お嬢さん、そのような良い履物で、石ころの多い道はおつらいでしょう?」
千次は懐から葬った女が履いていた草鞋わらじを取り出した。

「母のもので悪いけど、柔らかく、歩きやすいですよ」

「そんな大切なもの、いただけません」

「いいんです。それより――ここでなにを?」

「父の用が終わるのを待っています」

「なら、まだ歩くでしょう。これは差し上げます」

千次が草鞋を履かせ、笑顔を向けると、娘は顔を赤らめた。

「また、どこかで会えるといいですね」

「はい。本当にありがとうございます」

千次は、娘から離れた場所で隠れて父親が来るのを待った。
そこに、走って現れたのは、呉服屋の与平だった。
――確か、あいつは、うちの花魁の馴染みの客だったな。

想像以上の獲物が飛び込んできたことに、千次は笑いが止まらなかった。


白菊の後に渡月楼一となった花魁は浮橋だった。
浮橋は、怪しげな雰囲気を持つ女だった。
美しく、気性も穏やかだった白菊とは相反して、扱いづらかった。

渡月楼で名を上げてきたその女は、誰のものにもならない。
笑うが、媚びない。
従うが、支配されない。
まるで、水の上に浮かぶ影のように、掴めそうで掴めない。
薄い眉に、爛々らんらんと輝く目は、どこか魔物を思わせるようで、笑うとそれは三日月のように細くなる。
そして、異様に赤い紅の印象が残る女だった。

その浮橋の太客のひとりが、羽振りのいい呉服屋の主――与平よへいだ。
そして、先日助けた一人娘がいる。
あの娘を娶れば、家も、金も、名も手に入る。
渡月楼を立て直すどころではない。
この腐りかけた流れそのものを、自分の手で塗り替えられるのだ。

千次は乱暴に浮橋の部屋の戸を開けた。

「呉服屋の与平の娘を、俺のところへ引き寄せたい。お前の知ることを教えろ」

浮橋は動揺もせず、鏡越しに千次を見て、ゆっくりと笑った。

「教えて差し上げてもいいけれど……なんだか、高い話になりそう、ね」

声は柔らかく、だが底がなかった。

浮橋は欲を隠さぬ女だった。
地位も、扱いも、すべてを引き換えに要求してくる。
浮橋が艶っぽい視線で千次を見る。

「呉服屋の娘とは……千次さんも、強欲なこと」

「ふん、金も、店も、まとめて手に入れられるからな」

「では……私に何を聞きたいのです?」

「主人の懐具合、娘の性根、縁談の話の出し方――全部だ。浮橋、お前はもうほとんど囲われてるだろうが」

やがて浮橋は、ふっと笑った。

「まぁ、そうかもしれませんねぇ」

千次の眉がわずかに動く。

「何が欲しい」

「一晩の座敷では足りないわね。あの方のところの着物ニ反と、あと……」

浮橋はわざと間を置いた。

「この楼で、私の扱いを変えていただきたいの。白菊のように」

千次は、煙管を打ち、煙を吐き出した。

「図に乗るなよ、浮橋!てめぇの稼ぎは白菊とは比較にならねぇ」

「お互い様でしょう?」

浮橋は、くすりと笑った。

「千次さん。あなたも、欲しいのでしょう? あの娘も、あの家の財も」

千次は何も答えなかった。

「まぁ、私も白菊のように、井戸に身を投げたっていいんですよ。あなたが病で働けない女たちを、飢え死させるか、凍死させるのを見てきましたからね」 
浮橋は猫のように目を細める。

浮橋にまで身を投げられたら、この楼は破綻する。
千次は言い返す言葉も無く、ただ、奥歯を噛みしめる。

思い通りに動かぬ女。
思い通りに転がらぬ話。

千次は決めた。
女も、土地も、金も――すべて、手段を選ばず手に入れると。
焦りが、じわりと胸に溜まる。

その夜。渡月楼の奥座敷で、行灯の火が低く揺れる中、千次は廻船問屋の宗助そうすけと向き合っていた。

「どうだ?最近は……女の数が足りぬと聞いたが」

宗助の声は静かだった。

「白菊ほど客寄せできる女がいねぇだけだ」

千次が吐き捨てると、宗助はわずかに頷いた。

「船は来ている。行き場のない娘をたくさん抱えてな」

その言葉には、温度がなかった。
人を人として扱う気配が、最初からないような響きだった。

宗助は声を低くして言った。

「その代わり、千次。例の土地をわしに寄越せ」

そして、耳元で囁いた。

――あの与太郎が消えた畑を。

その名を聞いた瞬間、空気がわずかに沈んだ。
その土地を欲しがった叔父の与太郎は、二度と帰って来なかった。
しかし、不思議と誰もが手に入れたがる。
知らぬはずの土の冷たさが、盃を握る手のひらに広がった。


春土用のある日――今の土地の所有者を調べるため千次は宗助とその土地に立っていた。
白菊の身請人がもともと所有していたはずだが、その後の持ち主が不明だった。
畑の奥の廃屋となった屋敷には蜘蛛の巣が張っていた。
しかし、竈や古い祭壇は磨かれている状態であった。
位牌は移されており、台座だけだがある。
その奥に、過去帳のような人の名前を連ねた巻紙を見つけた。

宗助は低く言った。

「持ち主がわかったらすぐ引き上げるぞ」

その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、何かの声がした。

――夕暮れ四つの鐘が鳴る

子どもの声だった。
だが、どこにも姿はない。
森の奥から、土の下から、空気の底から――
あらゆる場所から滲み出るように、童歌が響く。

二人は逃げることも、拒むことも出来なかった。
ただ、その歌を、最後まで聞いた。
千次は一度、その歌を古井戸の近くでも聞いたような気がしていた。

千次が戻ると、渡月楼の廊下にせわしなく蟻が列をなしていた。

その日を境に、流れは変わり始めた。
一度は、客が戻り、浮橋の座敷は栄華を極めるように賑わった。
千次と呉服屋の娘との縁談の話も動きはじめた。
すべてが、うまくいくかに見えた。

だが、それはほんの束の間だった。
呉服屋の主は、ぱたりと来なくなり、そして、娘の縁談は、別の家へと決まったと噂が立った。

ある日、浮橋は言った。

「ねぇ、千次さん、妙な夢を見るの。森の夢……童歌わらべうたが聞こえるの。そこで、あなたは……」

その声には、かすかな怯えが混じっていた。
「言うな!」
千次は怒鳴ったが、既に浮橋と同じ夢を自分も何度も見ていた。

千次は、ようやく理解した。

自分は流れを掴んだのではない。
触れてはならぬ禁忌に、触れただけだと。


その昼下がり、吉原は異様なほど静まり返っていた。
風さえも、どこかで息を潜めている。
「浮橋、来い!」
千次は、巻紙を戻すため、再びあの土地へと足を向けていた。
男の用心棒より、女のほうが怪しまれない。
まだ昼だというのに森の道は暗かった。

「浮橋、お前は屋敷の前で見張りをしてろ!」

その時子どもの声がした。

――夕暮れ四つの鐘が鳴る

「やめろ!」

声が震え、千次の足が動かない。
どこからともなく、つるが伸びてきて千次の足に絡みつく。

振り返ると、そこに浮橋がいた。
その肌は、あまりにも白く、陽射しに溶けているようだった。
そして、あの歌を口ずさむ。

――春の森

蔓は、どんどん伸びて、容赦なく千次の身体を引きずる。

「放せ……!」

木々の間に、人影が無数に揺れる。

埋められた者。
流された者。
忘れられた者。

すべてが、そこにあった。
すべてやったのは、自分だ。

――歌をうたえば 四つの方角 道はなし
――道が欲しけりゃ 歌を忘れて引き返す

蔓が千次を締め上げる。
土が崩れる。

「こんな歌、忘れてやる!浮橋、早く蔓を切れ!」

その命令に、浮橋は答えなかった。
そこに立っていたものは、もはや浮橋のかたちをしていなかった。
白く、曖昧に崩れ、やがてその輪郭は細かな影へとほどけていく。
影ではない。
蟻だった。
無数の蟻が、地の底から湧き出るように、蔓を伝い千次の足元を覆っていく。

千次は、歌を忘れられなかった。
来た道を、思い出せなかった。
古木が、ゆっくりと口を開くように軋んだ。

「やめろ……やめろ……」

声は、途中で消えた。
音もなく、千次の身体は木の中へ沈んでいく。

やがて、何もなかったかのように、風が戻る。
土は、何も語らず、すべてを受け入れたまま、沈黙していた。

その根元に、ひとつ、歪んだ瘤が生まれていた。
人の顔にも見え、ただの木の節にも見えるそれを、誰も気に留めることはない。

浮橋は、しばらくその木を見ていた。

「ねぇ、千次さん」

静かな声だった。

「凍えて死んだ女の中に、私の妹もいたんだよ」

風が、葉を鳴らす。
足元に千次の煙管が転がっていた。

浮橋は、歪んだ瘤に煙管を突き立てた。

「あんたには……ちょうどいいさ。線香すら上げてもらえないだろうからねぇ」

三日月の目は、そう言って、背を向ける。
森は、すぐに何事もなかったように静まり返っていた。

ただ、足元では、蟻たちが列をなし、
忙しそうに、土の中へと出入りを繰り返していた。

◇◇◇—◇◇◇—◇◇◇
(終)

よろしければ、秋土用編、冬土用編もご覧ください📖