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単位取得に追われそうな大学生に伝えたい、それでも「学びの自由」を獲得する方法(吉見俊哉の大学論)

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

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noteのできるだけ毎日更新を実践しています。現在の曜日ごとのテーマはこちら。木曜は「コーチング/大学講師絡みの話/教育論、アカデミックな話題」のテーマとなります。

社会学者の吉見俊哉先生が書かれた「大学」をめぐる一連の書籍について、いつか解説記事を書きたいと思っていますが、今日はその中の一冊の一部の内容を紹介したいと思っています。

その書籍はこちら。

この本の序章では、日本の大学そのものを「複雑骨折している」と評しているように、いろいろな概念がまじりあったものがいろいろ建て増し工事をしていくうちに妖怪化していく姿が描かれています。

戦後、それまでのドイツ式に占領軍のアメリカ式が混ざった話は下記でも書きました。

吉見先生の見方はもっと古くからで、江戸時代、儒教を学ぶために作られた昌平坂学問所を明治時代に、薩長の人々がそのフレームワークだけ利用していわゆる哲学的な学問を排除し、西洋から輸入した実学のみに変えてしまった旨も描かれています。

結論から言うと、日本の大学はユニバーシティのふりをした独自システムになっており、そこには「学問の自由」はない、という話になっています。さらに「大学院」についても戦後のアメリカによる改革と日本側の抵抗により、「大学」という機能の二重化としてできたものであり、海外の大学院から比較すればレベルが低いものになってしまっている、と問題点を指摘しています。

実は、私も大学院に行こうと考え、入学手続きまで進めたこともありましたが、二年間のカリキュラムを確認したところ、あまりにインプット重視でレベルが低いと感じ、耐えきれないと思って入学するのを辞めた、という経緯があります。その面接や事務の方の対応と言説から、なるほど、日本の大学院のほとんどは、世界に通用し、人類に貢献する知の専門家のための教育機関というよりも、単に大学を含む自組織を存続するための金儲けのための機関ではないか、と思ってしまいました。

なぜ、自分がそう感じたのか、その理由がよくわからなかったのですが、吉見先生のおっしゃる「学問の自由」というものが無いからだ、というのが、今回、この本でよくわかりました。吉見先生の出されている例は、オックスフォードの教授であったジョン・ウィクリフが聖書を研究し、教会ではなく聖書に基づいたキリスト教思想を広めようとし、結果、教会から異端扱いされながらも、プラハ大学でそれを学んだヤン・フスに受け継がれ、やがてヴィッテンベルク大学の神学教授であったマルティン・ルターに受け継がれ、いわゆるプロテスタントによる宗教改革の動きにつながっていった事実が書かれています。まさに「学問の自由」が宗教権力に対抗した例で、いわゆるカウンターカルチャーが「学問の自由」が保証された大学から生まれて社会を変革した例として理想的な例かもしれません。

日本の場合、「学問の自由」は大学はおろか、大学院でも、さらに教授になっても無いのではないか、と思えます。学会も含め、過去の学問が未来の学問の制約条件になっており、こんな状況ではここから「新しい知」が生まれる可能性はかなり低いのではないか、と思っています。

それでもいわゆる数学や物理学など、英語と数式が使えれば世界と同じレベルで争える分野はまだましなのでしょう。しかし、もっと思想的なもの、哲学的なもの、人文社会科学的なものは、構造的には資格ビジネスとあまり変わらないのが実態なのかな、と思います。それが「金儲け優先」に見えてしまった理由なのかな、と思いました。

さて、そんな書籍の中から、今の大学生にここだけは伝えたいな、と思ったのが、吉見先生が「教育の質の劣化」について書いている部分です。ここは引用しつつ紹介していきましょう。

日本の大学の授業の根本問題は、履修科目数の多さである。学生が一学期にとる科目の数が多すぎる。日本の学部学生を見ていると、一学期にだいがい一〇以上の科目を履修登録している。米国やヨーロッパの大学は、一学期にとる科目は四つか五つで、全然違う。

吉見俊哉『大学という理念: 絶望のその先へ』(東京大学出版会)PP.101-102

日本の場合は、四年間で六〇~八〇近くの科目をとる。そんなにたくさん科目をとったら、自分がどんな科目をとったかすら忘れてしまう。

吉見俊哉『大学という理念: 絶望のその先へ』(東京大学出版会)P.102

自分の過去を振り返っても、大学の時に学んだことで覚えているのは授業ではなく、自分で図書館で借りて読んだ本のことしかありません。今、思い返すと、ブルデューの翻訳者の先生がフランス語を教えてくださっていましたが、だったらブルデューについての授業を受けたかった!と本気で残念に思います。

吉見先生はこの状況の理由を、このように説明されています。

なぜそういうことが起こるかというと、日本の一科目の平均単位数はだいたい半期で二単位、大学によっては実習科目では一・五単位や一単位でしかないからだ。米国ではだいたい一科目は四単位か六単位。それだけのエネルギーを一科目にかける仕組みになっている。

吉見俊哉『大学という理念: 絶望のその先へ』(東京大学出版会)P.102

ということで吉見先生の提示される解決策は、日本の大学も同じようにすればいいではないか、ということなのですが、このあたりは前の記事にも書いたように、各大学の判断ではなく、文部科学省の方針なので厄介です。

吉見先生は、この改革を「先生と生徒の両方に負担が増える」「科目の多くを非常勤講師に頼っている大学には難しい」と語られていて、そんな反対を押し切ってまで改革するような役人も政治家もいないだろうなーとは思います。これもまた、フィロソフィー無き教育の結果ですね。

とまあ、現状を変えられないのなら、現場の大学生としては、科目選択時に意志を持つ、というのが良いのではないかな、と思います。これは昔、大学生だった頃の自分にも伝えたい話です。

何かというと、楽勝科目で単位を稼ぎつつ、この学期はこの科目だけは集中して学ぶ、という科目を1~2科目選び、自分で意識して、その科目だけは学び多きものにする、というものを決める、という方法です。いわゆる選択と集中ですね。

ドラッカーの名著『経営者の条件』でも、こう言っています。

成果をあげるための秘訣を一つだけ挙げるならば、それは集中である。

P.F.ドラッカー『経営者の条件』P.138

この『経営者の条件』は日本語訳はビジネス書のようですが、原題をそのまま訳すと「効果的に成果を出す人」という本なので、まさにその中でも本命ど真ん中がこの「集中」ということになります。

そして集中とは、ということをこのように説明しています。

集中とは、「真に意味あることは何か」「最も重要なことは何か」という観点から時間と仕事について自ら意思決定する勇気のことである。

P.F.ドラッカー『経営者の条件』P.152

そして、さらに続けてこんなことも。

この集中こそ、時間や仕事の従者となることなくそれらの主人となるための唯一の方法である。

P.F.ドラッカー『経営者の条件』P.152

「たくさんの単位を取らなければならない」という制度には抗えなくとも、どの科目に集中するか、は自分で決めることができます。

これが「学問の自由」のない日本の大学という環境で「学びの自由」を獲得する、いちばん簡単な方法なのかな、と思いつきましたので、シェアさせていただきました。

と、余談ですが、自分で書いていて、ふと、以前、AIにインタビューさせたものを思い出しました。自分にとっては、やはりこの「学びの自由」という概念はこだわりたい概念なんだなーと改めて思ったのでした。下記の記事はご参考まで。

現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローも大歓迎ですし、もちろん記事の引用・紹介も嬉しいです。

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