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デヴィッド・グレーバー『負債論』を読む その6「第6章 性と死のゲーム」

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

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noteのできるだけ毎日更新を実践しています。現在の曜日ごとのテーマはこちら。水曜は「文化と遊びの日:『負債論』(連載)/麻雀の話、書籍の紹介」のテーマとなります。

現在は、こちらの書籍を読んでいます。

前回の記事はこちら。

前回は、人と人とのやり取りの中では、たえず負債が発生し、それをチャラにするようなやりとり、「暗黙の負債計算」が行われている、というお話でした。

今回は「第六章 性と死のゲーム」ということで、人が奴隷化される話が出てきます。闇深くなりそうです。

冒頭の文章を引用しましょう。

旧来の経済史の検討に立ち返ってみると、そこでまず眼につくのは、いかに多くのことが抹消されているかである。(中略)その結果、わたしたちは現実の商売のおこなわれている様態について、殺菌された見方しかできなくなってしまうのである。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.196

グレーバーはこうした「殺菌された見方」の経済のことを「商業経済」、あるいは「市場経済」と呼び、それが中産階級に切り離されたものとして語っています。それに対して、グレーバーが「社会的貨幣(social currencies)」と呼ぶものが使用されている経済を、「人間経済(human economics)」と呼ぶ、と定義します。グレーバーによると、続く2章でこの概念が使われるそうなので、一旦、置いておきます。

歴史的にみれば商業経済 ─ いまでは市場経済と呼ぶ方が好まれている ─ は比較的新しいものだ。人類史のほとんどの時代は、人間経済が支配的だった。だから、その名にふさわしい負債の歴史を書きはじめるには、以下の問いからはじめねばならない。人間経済において人びとが蓄積している[ためこんでいる]のは、どのような負債なのか? どのような種類の貸し借り(credit and debit)なのか? そして人間経済が商業経済に席をゆずるとき、あるいは凌駕されるとき、なにが起きるのか? これはつまるところ次の問いをいいかえたものである。「たんなる義務がどのようにして負債に転化するのか?」

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.197

ここでグレーバーはシンプルな話、「花嫁代価」と呼ばれるものを例に出して来ます。「求婚者の家族が女性側の家族に犬の歯やタカダガイなどなんであれ現地の社会的通貨を贈り、贈られた側は求婚者の花嫁としてさしだす」というもので、これは女性の売買に当たるかどうかで国連で揉めたそうです。しかし、人類学者は売買ではなく「ひとのあいだの関係を再編成する方法」であると説明したものの、「ここで本当になにが起きているのか?」という問いに答えることができなかった、とグレーバーは言います。

家族に、という風習が今の日本に残っているのかはわかりませんが、いわゆる「婚約指輪」は高度成長期の日本でダイヤモンドが解禁された際にデビアス社が「15世紀にマクシミリアン大公(後の神聖ローマ皇帝)が婚約者マリーに贈ったものが歴史上最初とされ、王侯貴族の間で流行した」という話で、マーケティングして広めたものらしいです。ですが、これを「人身売買」つまりは「女性をお金で買っている」と思う人は、確かに居ません。

ある人間の等価物であるとみなしうるのは、もうひとりの人間のみである。結婚において問題になっているのが、たんなるひとつの人間の生よりも価値のあるもの、すなわち新しい生を生みだす能力をも生み出す能力をも有するひとつの人間の生であることを考慮するならば、なおのことそうなのである。たしかに花嫁代償を支払う人々の多数は、ティブ族とおなじく、このような事情をはっきりと認識している。通貨は負債を清算するためではなく、通貨によっては清算不可能である負債の存在を承認するために贈られる。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.203

最初の「ある人間の等価物であるとみなしうるのは、もうひとりの人間のみである」というのはわかりやすいかと思いますが、それが最後の「通貨は負債を清算するためではなく、通貨によっては清算不可能である負債の存在を承認するために贈られる」に結び付くのには、ちょっと解釈が必要かな、と思います。

仮に「ある人間」を「売買」するとしたら、その対価は「もうひとりの人間」でしかありえない。「犬の歯やタカダガイなどなんであれ現地の社会的通貨」では対価にならないことはわかっている。わかっていて、なぜ支払うのか? それは、返せないほどの「負債」を背負うことを示すため、とりあえず支払われるもの、ということであろう、というロジックです。これをグレーバーは「通貨によっては清算不可能である負債の存在を承認するために贈られる」と言っているわけです。

婚約指輪の場合、渡す相手は女性自身ですが、この指輪であなたを購入させてください、と言っていると思うと女性は嫌な気持ちになるでしょう。では、そういう意味ではなく、これはあなたと結ばれることによって生じる負債のごくごく一部です、という宣言である、と考えるのは、もらった女性が不快にならず嬉しくなる理由としては、妥当なように見えます。

この考え方で納得したのが、下記の2つの事件です。

いずれの事件でも思うのは、男性側のお金に対する認識と、女性側のお金に対する認識の違いです。特に女性側は、お金をもらっても、それは関係性を持つことによる多額の負債の一部をもらっているだけであり、自分にはそれだけの、それ以上の価値がある、と思っていたところが見受けられるのですが、これぞまさにグレーバーの言う「社会的通貨」としてお金を見ていたのではないか、と思えます。

一方の男性にもそういう面はあったかもしれませんが、特に前者の例では借金してお金を工面していたようで、これはグレーバーの言う「市場経済」のお金です。「犬の歯やタカダガイ」などを贈ってる分にはこういう悲劇は確かに起こらなかったのかな、と思ったりもします。

こうして貨幣は「生命の代替物(substitute)として」はじまる。これを生債[生命=負債](life-debt)の承認と呼ぶことができるかもしれない。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.203

結婚の次にグレーバーが挙げているのが、殺人被害にあった家族に支払われる贖罪金(wergeld)です。これもそれを支払ったから賠償できた、といういことではなく、貨幣よりはるかに価値のあるなにかを負っている=借りがあることの承認である、とされ、これは復讐殺人を防ぐための解決方法になっているのです。

では、そもそも社会的通貨が支払いようのない負債の承認のしるしだったとして、それが支払い可能な負債に転化したのはどうしてなのか? グレーバーはアフリカの事例を用いてこれを説明しています。

結論から言うと「人間の命は人間の命でしか代替できない」「女は命を生み出すことができる」というところから、女性には価値があると見做された。そこで、登場するのが「暴力」です。

もしある男が、妻と引き換えに譲渡することのできる姉妹か被後見人を有してない場合、彼女の両親と後見人に貨幣を贈ることで勘弁してもらうことが可能であった。ところが、そのような妻は真に彼のものとはみなされなかったのである。(中略)そのような男でも、奴隷すなわち襲撃によって遠い国から誘拐した女性であれば買うことができたのである。なんといっても奴隷には両親がいないか、あるいはいないかのように扱うことはできた。つまり彼女たちは、ふつうの人間であれば、他者に対する自己同一性をどこで獲得する、相互の義務と負債のネットワークから、力づくで切り離された存在だったのだ。だからこそ彼女らは売り買い可能であった。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.221

グレーバーはさらにこの話を一般化しています。

人間経済において、なにかを売ることができるようにするには、まずそれを文脈から切り離す必要があるのだ。奴隷とはまさしくこれである。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.222

この後、ここにヨーロッパ人が介入し、奴隷貿易にまで発展する話が描かれます。

注目すべきは、こうしたこといっさいが、すなわち、身体の抽出や切り離しが、人間経済の諸機構を通しておこなわれた、ということである。人間の生命こそが比類なき究極の価値であるという原理にもとづいている人間経済の諸機構を通して、である。すべての同じ制度 ─ 通過儀礼の報償も、罪とその賠償の計算法も、社会的通貨も、負債による人質も ─ が、対立物へと反転したのである。あたかも機会が逆方向に作動しはじめたかのように。ティブ族が感知していたように、人間存在を創造するために考案された歯車と装置が、おのれにむかって衝突し、人間存在を破壊する手段と化したのだ。

デビッド・グレーバー『貨幣論』PP.235-236

この後、グレーバーは自分が使っている「暴力」という言葉が、比喩表現ではなく、文字通りの意味である、ということを説明しています。そして「近代都市において、比較的に居心地よく安全な生活を営んでいる幸運な者たち」が認めないが、「わたしたちの日常的存在感」が「暴力によってあるいは暴力の脅威によって」規定されていると言います。例が面白いので引用しておきます。

しばしばあげる例だが、正規の身分証明書なしに大学図書館に入る権利を主張するとどうなるか考えてみよう

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.242

間違いなく警備員に排除されるでしょうし、我々は警備員が怖いので、そういうことはしないわけです。

最後に、この章のまとめと次章の予告で、この章は終わります。

わたしがここで問題にしているのは、厳密な意味での奴隷制のみならず、人をその人たらしめている相互関係や共有された歴史、集合的責任の織物から、人間を切り離し、交換可能なものにする ─ つまり負債の論理の対象にしてしまう ─ 過程なのである。奴隷制はたんにその論理的帰結にすぎず、そうした関係性の解体のとる究極の形態である。まさにそのために、奴隷制はその過程全体の理解のための糸口を提供してくれる。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.247

この文章には出てきていませんが、奴隷制というのは前提に人を文脈から切り離す「暴力」が前提となっていました。グレーバーは別に奴隷制について批判したいわけではなく、この「暴力」を肯定してしまう仕掛けが「負債」にある、ということを説明し、そのメカニズムを明らかにしたいんだな、と読み取れます。

ということは、平和主義を標榜しながら負債を押し付けるような「国際協力」というのが、実は「暴力」になっているかもしれない、ということまで考えが及びます。それがこの本の冒頭で語られているIMFに対する批判にもつながっていくのかな、と思いました。

続きも引用します。

もはやわたしたちが気づくことはなく、それがじぶんたちに及ぼしている影響もおそらく決して認めたがらないのだが。わたしたちが負債社会を形成してしまったのは、まさに戦争と征服と奴隷制の遺産が完全に消え去っていないゆえである。遺産はまだそこにある。わたしたちが最も慣れ親しんでいる諸観念、すなわち名誉や所有、そして自由のうちにさえ、その遺産は宿っている。わたしたちはもはや、その遺産を直視することができないだけなのだ。次章からは、そのような事態がどのように生じたのかをみてみたい。

デビッド・グレーバー『貨幣論』PP.247-248

まあ、自由と平等を謳ったフランス革命も、結局のところ、戦争で破綻寸前だったフランスの財政を補うために重税を課せられた民衆が、反乱を起こして特権階級を殺しまくった事件だったわけで、1300人ギロチン、数万人虐殺なんて話もあるようです。当然のように、この辺にも「負債」の話が絡んできそうですね。

現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローも大歓迎です。

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