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デヴィッド・グレーバー『負債論』を読む その5「第5章 経済的諸関係のモラル的基盤についての小論」

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

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noteのできるだけ毎日更新を実践しています。現在の曜日ごとのテーマはこちら。水曜は「文化と遊びの日:『負債論』(連載)/麻雀の話、書籍の紹介」のテーマとなります。

現在は、こちらの書籍を読んでいます。

前回の記事はこちら。

前回は、貨幣が商品と借用証書の間を行ったり来たりする存在である、というお話でした。今回は、「第5章 経済的諸関係のモラル的基盤についての小論」を読んでいきます。

冒頭にこの章のテーマが記されています。引用します。

負債の歴史を語ること、それは、必然的に、市場の言語がどのようにして人間の生活のあらゆる側面に浸透するようになったかを再構成することでもある。そして、市場の言語におもてむき対抗してあげられたモラル上、宗教上の声に語彙を与えることでもある。(中略)まず、すべてのモラルを負債として語り、ついでその身ぶりそのものによって、モラルは実際には負債に還元できないこと、なにかすべてのモラルを負債として語り、ついでその身ぶりそのものによって、モラルは実際には負債に還元できないこと、なにかべつのものに基盤をおく必要があることを提示するのである。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.134

宗教的な話はこれまで、あまり詳細には紹介してきませんでしたが、この本には実はこれまでの章でも、様々な宗教からのエピソードが紹介されています。ここで整理しておきたいのは、宗教がモラルを司っている、というグレーバーの考えです。

日本では明治から戦後にかけての政教分離政策により、かなり「歪んだ」宗教観になってしまっていて、そのためにこういう宗教絡みの話を素直に理解することが難しい気がします。

私は大学で社会学を専攻しており、デュルケームからの宗教社会学に興味があったので、自身が何か特定の宗教を信じるというわけではないのですが、人間にとって宗教は必要なものだ、というスタンスを持っています。例えば私は熱心な仏教徒ではありませんが、毎日、仏壇に線香を上げますし、月に1回、近くの禅寺で坐禅をしています。恵方参りにも行きますし、初詣に神社にも行きます。

ちなみに余談ですが、日本人の「宗教」観の特殊性がどこから生まれたのか、という話は、下記でGeminiとやりとりしましたので、ご参考までに。

上のGeminiの指摘の通り「宗教」という言葉自体が明治時代の翻訳語で、もともと日本にはなかった概念です。ですので、キリスト教の弾圧もそれは宗教の弾圧ではなく、洗脳された怪しいカルト組織への弾圧というイメージだったのではないかと思います。何しろ「宗教」という概念が無かったのですから。

もともと多神教のアニミズム的な世界観を持っている日本人には、「宗教を選択する」という概念は無かったのだと思います。ところが一神教の人たちにとっては、どの神が正しいか?という選択を迫るものになるわけです。こうして様々な宗教は違う神を持ち、違う世界観を持ち、世界について違う説明をすることになるわけです。ですので、宗教というのは何か組織の話ではなく、世界観の説明の選択の話である、とここでは捉えていただければ、と思います。

話がそれました。人類学者であるデビッド・グレーバーの宗教に対する立場は比較宗教学になると思うのですが、宗教は違っても同じようなテーマについて説明が存在している、というのが、この本での指摘だと思われます。それが、貨幣と負債とモラルの話だ、ということです。

もっと言えば、貨幣が商品と借用証書の間を行ったり来たりする存在であるがゆえに起こってくる残酷な話をどう納得できる形で説明するのか、ということを説明しているのがこの章だと言えます。

まずグレーバーは「物々交換の神話」が崩れたことから、贈与論、社会交換理論、社会的相互作用論を否定していきます。そうではなく、負債関係こそが我々の人間関係の基本、社会の基盤であるということを示していきます。

わかりやすい例として、グレーバーは please と Thank you の元々の言葉について紹介しています。前者は「もしそうすることがあなたの意にかなうならば」の省略形、後者は「あなたのしてくれたことを私は忘れません」の意味であると言います。グレーバーはこれらの礼儀作法を「暗黙の負債計算法」と呼んでいます。誰かに何かをしてもらうことには、そこにはこの計算が働き、それを消し去るために儀礼的な言葉のやりとりがある。何か依頼されたことに対して感謝の意を示されたとき、「どういたしまして」「喜んで」と言う意図についての下記の文章が象徴的です。

「(前略)あなたはわたしに塩をとってくれと依頼することで、わたしがそれ自体で尊いとみなすことをなす機会を与えてくれたわけで、あなたがわたしに親切を施してくれているのです!」といっているのである。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.186

人と人とのやり取りの中では、たえず負債が発生し、それをチャラにするようなやりとりが発生している、というのです。これが「暗黙の負債計算」です。

これを読んだときに私が思い出したのは、数年前にネットで炎上した港区女子系の男性がお金をすべて出すべき論争、奢る奢らない論争です。このネタは何度も何度も出て来ては炎上していますが、もしかしたら、グレーバーの負債論を知れば、この問題にもケリがつくのかもしれません。

下記の記事がまとまってました。

この論争、自分のことではなくて他人のことについてとやかく言うのがそもそも不毛なのですが、どうして論争になるかと言えば、それは誰も本質についてわかっていないから、それぞれの価値観と体験で語り出すからなのではないかと思います。

グレーバーの考えに従えば、奢られる、というのは負債の発生によって相手の優位性を認め、自分が下であることを認める行為となります。それによって男性を立てて、気持ちよくなってもらう、ということがその代替となっており、ある意味、それはお互いに好意を示す行為であるとも言えます。美容にいくらかけたとか年収がいくらとかジェンダーがどうとか、そういうことは本質ではなく、別に相手に好意が無ければ、あるいはそういうお金の関係で心理的負債を発生させることで好意を示したくないと思えば、割り勘にすればいい、というだけの話です。このことはあくまでも個人の価値観レベルの話なので、他人がとやかく言うのは不毛ということです。

ちなみにこの好意は恋愛とは限らず、信用とかもっとベーシックな人間同士の関係の話です。もっと簡単に言えば、次また会いたいと思っているか、そうでもないか、というレベルの話。貨幣や負債の話の根底には、そういう負債による社会的関係の構築という要素があるよね、そして、この負債による良い関係づくり、というのが、実は本質的な社会の見方なのではないか、というのがグレーバーがこの章で語っていることです。

ちなみに料理研究家のリュウジさんもこの件で炎上していますが、別に女子と関係性を築きたくなかったリュウジさんと、自分の存在、あるいは好意を尊重されなかった港区女子の間での暗黙の負債の交換をするかしないかという出来事なので、まあ、有名な方がそんなことで炎上するんじゃないよ=それくらい払えばよかったんじゃない、というコメントをしたことで燃え上がった話ですが、まあ、有名な方も含め、ほっとけ、という案件であったような気はします。

特徴的な文章を引用しておきます。

あらゆる人間の相互作用について、ある物をべつの物のかわりに与えることの問題と定義するなら、継続的である人間関係のすべては負債の形式をとることになる。負債がなければだれかがだれかになにか借りがあるということもなくなるだろう。負債なき世界は、原初的混沌へと、万人の万人に対する闘争へと逆行してしまうことだろう。他人に対してだれも、いかなる責任も感じなくなるだろう。人間であるという単純な事実に、なんの意味もなくなるだろう。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.191

負債なき世界は、原初的混沌へと、万人の万人に対する闘争へと逆行してしまう」というのを読んで、「暗黙の負債交換」という概念を無視して、ジェンダー論などに突っ走った感じの炎上が、まさに、と思ったのでした。

この炎上については、「女の敵は女」問題も絡んでいる気もしますので、参考までに下記の記事をリンクしておきます。

まあ、この分厚い本を港区女子が読むとは思えませんが(偏見)、この「負債論」で理論武装すれば、港区女子の考えもわかる、リュウジの考えもわかる、という人がもっと増えて、炎上しなかったのかもしれません。わからんけど。

次回は「第六章 性と死のゲーム」ということで、人が奴隷化される話が出てきます。闇深くなりそうです。

現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローも大歓迎です。

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