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人間はなぜ意味の中で生きるのか—エリアーデの仕事を再評価する(人類にとって宗教とは何か? その1)

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

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noteのできるだけ毎日更新を実践しています。現在の曜日ごとのテーマはこちら。水曜は「読書と思想の日/哲学するのススメ(短期連載)・哲学・思想書紹介・概念整理」のテーマとなります。

ここしばらくは「人類思想史」からの「哲学」の再定義、というようなテーマで書いています。

前回は、「「哲学」と「宗教」の二元論は本当に成り立っているのか?」という問いについて書きました。個人的な考えでは、遅れてきた中世で近代化を図った西ヨーロッパの人々がキリスト教的な思考を廃して科学的思考を模索した際に、仮想敵として「宗教」を置いたためにこの二元論が産まれたのであって、そういう意味では、中世以降の西洋哲学の歴史を見る上ではこの対立は有意義だけれども、人類の思想を俯瞰して見た場合にはあてはまらない、というのが現時点での結論でした。

ということで今回からはしばらく、西洋というある意味、特殊なエリアに限定しない文脈での、この「人類にとって宗教とは何か?」という内容の記事をアップしていきたいと思います。

その初回である今回は、前の記事でも出しましたエリアーデの宗教論についての記事です。個人的には大学時代に出会い、すごいな、と思ったのですが、それ以降、あまりこの分野の学術的進展がないように思い、どうしてなのかと調べた結果のレポートになります。

エリアーデって誰?という方にはこちらをどうぞ。

上のWikipediaの記事にも「エリアーデは現代の宗教史学者の中でも最も影響力があり、かつ人気のある人物である。しかし、人類学者、社会学者、宗教史学者の多くが(ほとんどではないにしろ)エリアーデの作品を無視、もしくは軽視している」という批判がありますが、無視にしろ軽視にしろきちんとそのお仕事が評価されていないというのが現状で、しかし、エリアーデ以降、著名な宗教学者が出ていないというのも真実です。

今回のコラムではエリアーデのお仕事を再評価し、その限界についても記載しました。その上で次回以降、その限界を乗り越える宗教理論を解説したいと思っています。


人間はなぜ意味の中で生きるのか—エリアーデの仕事を再評価する


評価が分かれる思想家

 ミルチャ・エリアーデの理論は、現在どのように評価されているのだろうか。

 結論から言えば、その評価は大きく分かれている。一方では、彼は20世紀宗教学における最も重要な思想家の一人とされる。宗教を単なる迷信や未開な思考としてではなく、人間存在の構造に関わる問題として提示した功績は大きい。他方で、その理論は本質主義的であり、歴史や文化の差異を過度に単純化しているという批判も根強い。

 たとえばJonathan Z. Smithは、宗教を普遍的な本質として捉えるエリアーデの立場に対し、宗教とはむしろ研究者によって構築されるカテゴリーであると批判した。またRussell T. McCutcheonは、宗教研究は中立的な記述ではなく、社会的・政治的文脈の中で形成される営みであるとし、エリアーデの理論が依拠している前提そのものを問い直している。

 このようにエリアーデは高く評価される一方で、その理論は同時に乗り越えられるべき対象として扱われてきた。

 しかしここで注意すべきなのは、彼の理論が単に誤っていたために退けられたのではない、という点である。むしろ問題は、その理論が強すぎたことにある。

人間はなぜ意味の中で生きるのか

 エリアーデの問題意識は、きわめて単純である。

 人間はなぜ意味の中で生きるのか。

 彼にとって宗教とは、特定の教義や信念の体系ではない。それは、人間が世界をどのように経験しているのかという問題に関わっている。人間は世界を単なる対象の集合としてではなく、意味を持つ場として経験する。その経験が、神話や儀礼、象徴体系という形をとって現れる。

 この意味で、宗教とは経験の形式であり、制度はその後に成立するものである。

宗教を「経験」として捉える

 この理解は、宗教を未開な思考や迷信として扱う近代的理解を根本から揺るがした。宗教は説明される対象ではなく、人間の存在の仕方そのものに関わっている。

 エリアーデは宗教を、信じられる対象としてではなく、まず「現れるもの」として捉えた。人間は世界を理解する以前に、意味あるものとして経験している。この経験の次元を無視して宗教を語ることはできない。

 この点は、エリアーデの理論の最大の強みである。宗教は説明される以前に経験されている。この事実を明確にしたことによって、宗教は単なる外在的対象ではなく、人間の内部に位置づけられることになった。

普遍性の強さとその限界

 しかし、この強みは同時に限界でもある。

 エリアーデの語彙は、「聖」や「顕現」といった形で提示されるが、これらの概念は一見普遍的でありながら、特定の宗教経験、とりわけ西洋的・キリスト教的な経験に依拠している可能性がある。聖なるものが「現れる」という構図は、啓示の構造と親和的であり、他の宗教的伝統をこの枠組みで読み替えてしまう危険を孕んでいる。

 この意味でエリアーデは、宗教の普遍性を示したのではなく、ある特定の宗教経験の構造を普遍的なものとして提示してしまった可能性がある。

近代が見失ったもの

 それにもかかわらず、彼の仕事は現在においても重要であり続けている。

 なぜなら、エリアーデは近代において見えなくなっていた問題を再び可視化したからである。

 近代社会は、世界を説明することには成功した。科学は対象を分節し、測定し、因果関係を明らかにする。しかしその過程で、世界が意味を持つという経験はしばしば主観的なものとして退けられてきた。世界は理解される対象となり、「生きられる場」としての側面は後景に退く。

 エリアーデは、この状況に対して、宗教的体験という形で応答した。人間は単に世界を理解するのではなく、意味あるものとして生きている。この事実を取り戻すことが、彼の仕事の核心にあった。

宗教学を超えて広がる視点

 この視点は宗教学の内部にとどまらず、広く人文学や思想に影響を与えてきた。神話や象徴への関心の再興、身体性や経験への注目、さらにはエコロジー思想における全体性の感覚などにも、世界を単なる対象としてではなく、関係の中で経験するという発想が見られる。

 エリアーデの理論は、こうした思考の基盤の一部を形作っている。

未完に終わった理論化の試み

 この問題に正面から取り組もうとした人物が、Ioan Petru Culianuである。

 Culianuはエリアーデの最も近い世代に属し、その理論を継承しながらも、それを再構成しようとした。彼にとってエリアーデの仕事は完成された理論ではなかった。それはむしろ、解かれるべき問題として存在していた。

 宗教体験が重要であることは明らかである。しかし、その体験がどのようにして成立するのかについては、十分に説明されていない。Culianuはこの点を、思考の構造や意味生成のルールとして捉え直そうとしたのである。

 しかし、その試みは未完に終わる。

 1991年、Culianuはシカゴで銃撃され、命を落とす。事件は現在に至るまで解決されていない。この出来事はしばしば象徴的に語られるが、注意すべきは、この事件とエリアーデの思想そのものとを直接結びつける根拠は存在しないという点である。

 また、エリアーデ自身についても、若い頃の政治的関与が指摘されることはあるが、戦後の彼の仕事は宗教と人間存在に関する理論的探究に集中しており、特定の政治的立場を推進するものではない。

 重要なのは、エリアーデの思想が危険であったということではない。問題は、彼が提示した問いが、いまだに十分に解かれていないという点にある。

宗教とは何を意味しているのか

 人間はなぜ意味の中で生きるのか。

 エリアーデはこの問いを提示した。しかし、その意味がどのように成立するのかについては、理論としては開かれたまま残されている。

 宗教とは何か。

 それは神の数や教義の違いによって定義されるものではない。むしろ、人間が世界をどのように経験しているのか、その構造に関わる問題である。

 宗教を理解するとは、教義を比較することではなく、人間存在の構造そのものに目を向けることにほかならないのである。


ということで、次回に続きます。

現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローもコメントも記事の引用・紹介も大歓迎です。

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